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学院史編纂室便り

No. 14
2001年11月15日
関西学院学院史編纂室

No.14 (2001.11.15)

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ウッズウォース初代法文学部長令孫の来学

ウッズウォース初代法文学部長(学部長在任:1934~39年)の次女シルビアさんのご息女ボニー・キャンベルさん(ケベック大学モントリオール校政治学教授)ご一家が、6月28日、本学を表敬訪問されました。約1週間のベーツ館滞在中、山内一郎院長、武田建理事長、今田寛学長、山本栄一学院史編纂室長、マーティン・コリック国際交流部長、小林信雄名誉教授等と懇談されたほか、甲山、原田の森等を散策されました。また、叔父上にあたるディビッド・ウッズウォース氏(初代法文学部長ご次男)より託された写真アルバム(1938年にバイブルクラスの学生がウッズウォース夫妻に贈ったもの)を本学にご寄贈くださいました。
その後、ご一家は約2週間かけて、京都、野尻湖、青山墓地等、今は亡きご祖父、ご母堂ゆかりの地を訪問されました。
なお、ウッズウォース家は、長年に渡り本学の教育に深い関心を寄せ続けてくださっていることでも知られています。現在も、「シルビア・ウッズウォース奨学金」の恩恵を受け、本学の女子学生がカナダで学んでいます。

アルマン・デメストラル氏の来学

ベーツ第4代院長(院長在任:1920~40年)ご令孫として、かねてより資料調査に積極的にご協力くださっているアルマン・デメストラル氏(マギル大学法学部教授)が、法学部客員教授として、11月6日に来学されました。約2カ月間の滞在中、大学院の授業「民事法特論(世界貿易機関の紛争処理)」を担当されることになっています。また、学院史資料として、ベーツ第4代院長にまつわる書簡をお持ちくださいました。

西宮市大谷記念美術館特別展への出品

11月18日(日)まで西宮市大谷記念美術館で開催されている「名所を描く」展に、当室所蔵の神原浩先生のエッチング「六甲山」と「田園詩趣」を出品しています。本学同窓であり、教員でもあった同氏の作品については、このところ美術館より貸し出しの希望が相次いでいます。

第6回「関学歴史サロン」の開催

日 時
12月5日(水)14:50~16:20
14:15より開場しますので講演開始までお茶をお楽しみください
場 所
西宮上ケ原キャンパス時計台2階
講 師
宮原浩二郎社会学部教授
演 題
「『自分のためのMastery for Service』をめぐって」

社会学部の授業で本学のスクール・モットーを取り上げておられる宮原浩二郎教授は、この度、『自分のためのMastery for Service』(関西学院大学出版会)を出版されました。Mastery for Serviceをめぐって、今まで多くの人々が学内刊行物に書いておられますが、それらに目を通された上での力作です。講演前には、創立70周年記念式典(1959年)出席のため来日されたベーツ第4代院長による流暢な日本語スピーチを録音したテープを流す予定です。学内外問わず、 どなたでもお気軽にご参加ください

ベーツ第4代院長の手紙と日記

~人生の転機となった2度の病気について~
残された写真や胸像から、大変立派な体格だったと思われるベーツ元院長が、院長在任中(1920~40年)に2度の大病に見舞われたことは意外に知られていない事実である。最初は、悪性貧血との診断を受け、カナダで療養している(1927年)。2度目は、静脈炎と血栓症のため、ベッドに寝たきりの状態となっている(1934年)。これらの経験は、それまで順風満帆な人生を歩んで来られたと思われるベーツ院長にとって、まさしく人生の転機であった。

病気のため、仕事から追放されるとは何たることでしょう。これまで、私は自分の健康は完璧だといつも思っていました。ところが、今やその自信はへし折られてしまいました。私は重い貧血であることが明らかになったのです。その他は全く問題ないというのに。
(原文:英文手書き)

これは、ベーツ院長が1927年5月28日付けで、米国在住のニュートン前院長に宛てて書いた手紙(1)の一部である。手紙はカナダに向かう船上で書かれている。日本で悪性貧血との診断を受けたベーツ院長は、トロントの病院で治療を受けるため、5月24日、プレジデント・リンカーン号にて帰国の途に着いたのであった。手紙には、帰国に当たって、卒業生から1000円、神学部学生から25円の見舞金(2)をもらったことも記されている。

『関西学院高等商業学部同窓会会報』第7号(1927年9月)には、ベーツ院長が病気療養に際して学生に送ったメッセージが掲載され、帰国の日の様子が次のように描かれている。

午前十時三十分に新緑も小雨に煙ぶる校庭を極く靜に二臺の自働車!! 前車にはベーツ博士夫妻、母堂及S氏、後車にはマッケンヂー博士等分乘にてすゝむ。雨中にも拘らず通路の兩側には全校職員學生及生徒の垣をなす。
「また逢ふ日まで、神の恵み」の賛美歌が自然に歌はれて來ました、行々博士方を見送る私等もげに深き感銘の中にある!!! 眞に親愛と慈愛と信頼との融和せる劇的シーンでありました。
私達の敬愛する博士夫妻を乘せて午後一時にプレシデントリンカーン號は神戸港を出帆しました。

また、帰国の5日前にベーツ院長宅を訪問した学生会長に対して、「極度の疲労」のベーツ院長が「呼吸を激しくしながら」語った言葉が『関西学院新聞』第28号(1927年5月30日)に紹介されている。

わざわざお見舞下さいまして衷心感謝致します。只この際一言貴君を通じて学生諸君に申し傳へ度き事は、何分にもよろしくとの言葉でございます。然しこの『よろしく』との言葉は、通り一遍の御挨拶である様にお取り下さらない様に。只今學院はその[大学]昇格並びに移転問題に悩まされてゐます。ですからこの際特に學生諸君の御自重を願ふ為に、この『よろしく』との言葉をお傳え致すのでございます。

ベーツ院長自身は、カナダに帰国する直前の出来事を『関西学院七十年史』(1959年10月)に回想録として、次のように記している。

日本での最初の25年間、私たちはすばらしい健康に恵まれました。ところが、1927年に私は悪性貧血に見舞われ、妻は私をトロントに連れ帰りました。多くの人はそれが私の最後の旅になるだろうと考えていました(3)。(略)
私たちが日本を発つ前の日、来日以来の知り合いである2人の女性、母親とそのお嬢さんが別れを言いに来てくれました。彼女たちは私のベッドのかたわらにひざまづきました。母親のコスギさん(4)は私の手を取り、熱心に私の回復を祈ってくれました。それから、彼女は立ち上がり、私の目をのぞき込んで大きな声で言いました。「治ります、治ります、治る」。この言葉は、はるばる海を渡り、カナダでも実際に回復するまで私の耳の中で鳴り響いていました。それは今も続いています。
(原文:英文)

トロントでの治療の成果はめざましかった。8月27日、ベーツ院長は回復を知らせる喜びの手紙(5)をニュートン前院長に書き送っている。

4ケ月間の病気の後では避けることのできない神経と筋肉の衰弱を除けば、私は全く元気です。先週金曜日、医者が私の血液を検査し、その結果が標準以上であることがわかりました。私の病気は、普通1㎜3当たり500万ある赤血球が破壊されるというものでした。トロント到着時、私の赤血球は170万しかありませんでした。それが1週間前には5,234,750にもなり、さらに良くなっています。治療は、ヒ素と塩酸とごく普通のレバーでした。(略)とにかく、私はかなり回復しましたので、この秋には日本に帰りたいと考えています。通常であれば、こんなに早く帰ろうとは思わないのですが、現在の状況では、できるだけ早く帰るべきだと思います。治療を続ける必要がありますので、これまで通りレバーを食べ、定期的に血液検査を受けなければなりません。(略)
この度受けた日本人の親切に対して私はどうしたらいいのかわかりません。彼らは私に見舞金をくれました。(略)毎週月曜日に集まって私のために祈ってくれました。(略)
このような人達と共に働けるとは何と名誉なことでしょう。彼らの誠実な心が私を叱責しています。私には今関西学院に一身を捧げるべき無数の理由があります。
(原文:英文手書き)

当時の関西学院は上ケ原移転を控え、何よりもベーツ院長のリーダーシップが必要とされる大切な時期であった。当初の予定(6)より早く日本に戻ったベーツ院長を、阪神急行電鉄株式会社取締役社長小林一三氏との契約、新校地移転起工式等大きな仕事が待ち受けていた。
やがて、新校地移転という本学創立以来の大事業は無事終わり、創立40周年記念式典が新キャンパスで華々しく挙行された。念願の大学(旧制)開設も果たすことができた。気が付けば、悪性貧血と診断されてから7年の月日が流れていた。その間、医師の指示通り薬を飲み続けた。定期検査の結果にも問題はなかった。ベーツ院長の心の中には、病気をほぼ克服したとの自信が芽生え始めていたことだろう。ところが、またしても新たな病魔に襲われるのである。静脈炎と血栓症。ベーツ院長にとって、それまで耳にしたこともない病名だった。しかも、脳溢血で半身不随になり、言葉も失った妻をかかえながら、自分自身がベッドから起きあがることすらできなくなってしまったのである。その時の模様は、ウッズウォース法文学部長がカナダ合同教会本部に送った手紙(1934年7月14日付け)(7)の中に記されている。

私はベーツ先生の病気のため、今年は神戸に遅くまで残っています(8)。私達は交代でベーツ先生に付き添っています。今日のベーツ先生はお元気そうでした。熱はほぼ下がりましたが、あと数週間はベッドから離れることはできないでしょう。ベーツ先生は体重が重いのでお世話は大変です。しかもこの暑さです。隣の部屋からはベーツ夫人のほとんど何を言っているのかわからない叫び声が聞こえてきます。しかしながら、ベーツ先生は何とか回復されると思います。1週間前はかなり弱っておられて、回復は疑わしく思われました。ベーツ夫人の体調は良好ですが、心と身体が完全に回復するとは思えません。間違っているかもしれませんが・・・。
(原文:英文タイプ)

ベーツ院長の回復は、『関西学院新聞』第109号(1935年2月20日)に「全快のベーツ学院長」と題する写真と共に報告されている。
この2度の大病の経験はベーツ院長の信仰に大きな影響を与えた。2年後の誕生日、ベーツ院長は日記(9)に次のように記している。

1936年5月26日 59回目の誕生日
この日を迎えることができたとは何とすばらしいことだろう! こちら[日本]のバーカー医師によると、悪性貧血には治療法がないということだったが、ひょっとして治療、あるいは延命に何らかの希望が持てるかもしれないと思い、9年前の今日、私はトロントの病院に入院するため、故国カナダに向けて横浜を出航した。そして、その治療法こそ、まさしくレバーであることがわかったのだった。牛のレバー、 豚のレバー、ウサギのレバー、鶏のレバー。単なるレバー、あらゆる種類のレバー、しかし大量のレバー、毎日レバー、6オンスのレバー。私は食べた。飲んだ。身体に詰め込んだ。だから、今ここに私がいる。
そして、2年前、私は別の血液疾患に打ちひしがれ再び審判席に召喚された。静脈炎と血栓症、それまで私はこれらの言葉の意味を知らなかった。それらは調和しているように聞こえるが、冗談じゃない! けれども私はまだここにいる。神は私をこの世にとどまらせ、何かをさせようとしておられるようだ。それは何か?
それは、キリストの福音を述べ伝え、キリストの魂を示すことである。教師や学生達を神と共に歩ませ、キリストの十字架に導き、命をキリストに委ねるよう促すことである。
過去2年間、私は大いなる脅威にさらされてきた。2年前、医者や看護婦や友人の介護に全く頼り切っている自分自身に気づいたショックは、7年間の悪性貧血により身に付いた自立心、あるいは自己満足に対する挑戦だった。しかし、簡単には行かなかったけれども、私は生き延び、かなり回復した。「私は言葉の意味を知りました」。「我々のあらゆる喜びに痛みが伴うことを主に感謝します」。今、私は自分の満足は神の内にあること、神の内にのみあることを知っている。
私はオックスフォード・グループ運動の挑戦を受けてきた。私は、神が私をご覧になるように自分自身を見つめることを学んできた。傲慢なプライドは消え去り、キリスト教宣教師としての自分自身が無能であることを悟ったと思う。
教育者あるいは学校経営者として手にしてきたかもしれない成功は、キリストの魂の勝者としてのものなのか、福音伝道者としてのものなのか、生活改変者としてのものなのか、わかるようになった。 私は[キリスト教宣教師として]失敗者だった。それは重苦しく厳しい発見だった。なぜなら、それはこの世の中で私が他の何よりもなりたいと思うものだからである。
私は自問する。「私はどうしてこんなに無能であったのか?」最大限に正直に、私はこの種の能力の欠如の要因をふたつあげることができるようになった。ひとつは、安易な楽観主義、そしてもうひとつは、キリスト教のメッセージの中にあるきわめて重要な要素を強調しなかったことである。
私はヴィクトリア朝時代の後半と陽気な君主、エドワード7世統治の裕福な時代に属している。それらは平和と進歩と繁栄の時代であった。そして、私の日本における伝道の最初の20年間もそうであった。
(原文:英文手書き)

戦後、はじめて学院からカナダに行く機会を与えられた河辺満甕高等部長によると、ベーツ元院長は「カワベ、私の日本における東京および学院の生活は失敗だった。不忠実であった」と語られたそうである。「東京時代は優れたリベラリストとして青年の教養と啓蒙につくした(10)。学院時代はクリスチャンエデュケーターとしてリベラルエデュケーションにつくした。ある点成功した。人もそう認めた。しかし個人の魂を神と結ぶ宗教家として不完全なりとの先生の御反省」として、河辺高等部長は紹介しておられる(11)。この尊い反省の動機となったのは、ベーツ院長の愛弟子小寺敬一教授の死(1951年)ではないかと河辺高等部長は推測しておられるが、それよりもむしろ自分自身の2度の病気の経験の方が強い動機であったろう。なぜなら、この反省の原点が、小寺教授の死の15年前に書かれた日記の中に既に見られるからである。また、この日記はベーツ院長がオックスフォード・グループ運動(12)に強い関心を抱いていたことを示す資料としても興味深い。
日記は個人の心の内を伝える資料として貴重なものである。ベーツ院長の日記は、1935年7月から書き始められている。それ以前の日記の存在は、今のところ確認できていない。前年に2度目の大病を経験したベーツ院長は、この夏、トロントから呼び寄せた末の息子に自分の祖父母や両親のことを語り、記録させている。その記録は、後年Newcomers in a New Land(13)としてまとめられるのであるが、それは病がきっかけとなったとは考えられないだろうか。そうだとすれば、過去を記録すると同時に、この年から日記を書き始めたとしても不思議ではない。とにかく、1934年はベーツ院長にとって特別な年であった。最愛の妻ハティが脳溢血に倒れ、半身の自由と言葉を失い、自らも介護なしには身動きできないほどの重病を患った。それらの経験は自分自身を深く見つめ直すきっかけとなり、人生の転機となったと考えられる。
『ベーツ日記』について、小林信雄名誉教授から次のようなコメントをいただいている。

『ベーツ日記』について

小林信雄(学院史編纂室顧問・名誉教授)
今回、池田氏によってはじめて解読され公開された『ベーツ日記』のこの部分に、私は大きな衝撃と感動とを受けた。誇張ではなく、関西学院の歴史研究に新しい地平を開く新資料であると直感した。ここで述べられているベーツ先生の病気の経験は、ただ肉体だけの問題でなく、先生にとってそれまでの人生に対する痛切な反省と悔悟をもたらし、そこから新しい信仰と精神の覚醒をもたらす一大転機となった。ベーツ先生が<オックスフォード・グループ運動>という19世紀以来英国国教会内部から発生したキリスト教の信仰復興運動に深く関わったのは、この病いの経験が大きなきっかけとなったことがこの『日記』で証明されたと思うからである。
このベーツ先生の病気を契機とする肉体的即ち精神的な経験は、学院の精神のルーツに関わる経験であると思う。学院がプロテスタント・キリスト教内の<メソヂスト教会>によって始められたことは周知のとおりであるが、そのメソヂスト・キリスト教の基本的特徴の第一は宗教的<敬虔>であると言ってもよい。
この<敬虔>がたとえば第2代吉岡院長の<敬神愛人>の人柄を、また第3代ニュートン院長の<神のごとき人格>(故矢内名誉中学部長の言葉)を形作ったのであり、同じことがベーツ先生についても言える。私たち戦前の上ケ原キャンパスの卒業生にとって、ベーツ先生は学院の精神そのもののシンボルであり、すべての学生生徒、および教職員の畏敬の的であった。先生を見るだけで、私たちは学院で学び働くことの喜びと誇りとを実感することができたのである。
そこまではこれまでの学院史でも明らかに記されているのであるが、その<敬虔>の精神的な内容とルーツを歴史的にたどることは、これまで十分になされていないと思う。河辺満甕先生が伝えた晩年のベーツ先生の自己反省の述懐は私も直接聞いたが、それは当時英米事情通の早耳情報としか思えなかった。
またたとえば、ランバス・吉岡・ウェンライト諸先生のいわゆる<大分リバイバル>と呼ばれるできごと(1889年12月31日)は、学院の先輩たちの信仰的覚醒の形式的表現ではあるが、その内容的表現や説明はなされていない。そこで、これは一種の心理的な特殊体験と解釈されやすい。一般にキリスト教の<聖霊体験>と言われるものは、宗教学的な<憑依現象>と解釈されるが、その精神的思想的内容は見過ごされることが多い。
しかし、このベーツ先生の病いと精神的覚醒との関係は、宗教的<敬虔>(piety)と言われるものの内容を明らかにしている。たとえば人はこれと夏目漱石の<伊豆の大患>との類比を見ることができるだろう。少なくとも私は、学院史の資料でこれほど深く宗教的経験の内容に自覚的に立ち入って述べているものに接したのは初めてである。他にも同じような資料を発見することができるに違いないし、それは今後の課題である。しかしそれには精神史的な視点(パラダイム)をもつことが要求される。
学院史の中心は<精神史>であり、それがキリスト教主義学校たるゆえんである。それは単なるスローガンや教義および儀礼の形式だけではなくて、人格の精神的思想的な内容によって基礎づけられねばならない。それが第二世紀の学院史研究のもっとも重要な課題であると私は確信している。その要求にまず応えたのがこの『ベーツ日記』である。少なくとも私にとっては、この『日記』はこのような意味で画期的な新資料である。
ベーツ夫人の病気もこれと関連してくるという予感を私はもっているが、それはこの『日記』の今後の解読によって明らかになると期待している。

ベーツ院長が病に倒れた時、献身的に看病したウッズウォース法文学部長は、1939年2月6日、わずか1週間の病臥の後急逝した。突然の親友の死に際して、ベーツ院長は、スティーブンソン夫妻(14)宛に次のような手紙(同年2月12日付け)(15)を書き送っている。

こんなショックは受けたことがありません。私は11時過ぎまで彼[ウッズウォース法文学部長]と一緒にいて、学校のことを少し話しました。彼のもとを去る時、「では、ハロルド、『今から眠ろう』とだけ言ってくれ」と声をかけました。彼はにっこり微笑みました。彼の声は太く、疲れていましたが、精神ははっきりしていました。彼は言いました。「解決・・・すべき・・・教員の・・・問題が・・・ある」。それが全てでした。医者はどこが悪いと考えているのかと尋ねた他には。(略) 12年前に、そして5年前にも死ぬべき運命にあったと思われる人間がまだここにいます。日本人教員の中には、私が天国への試験に二度も失敗したと言う人もいます。ウッズウォースが私より先に逝ってしまうとは思ってもいませんでした。でも、それが人生というものです。人生における生と死とは、我々がこの世にやって来て、去って行く方法です。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」[ルカによる福音書12章40節]。「主よ、来てください。あなたが恩寵によって来られる時、わたしたちはお迎えする準備ができています」。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」[コリント信徒への手紙一15章55節]。
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」[コリント信徒への手紙一15章57節]。
(原文:英文タイプ)

(注)

  1. ニュートン・コレクションより。同コレクションは、ニュートン第3代院長関係の著作や書簡が、米国デューク大学に大量に保管されていることを山内一郎院長が1976年に発見され、その後マイクロフィルム(26巻)の形で入手したものである。詳細は、『キリスト教主義教育研究室年報』第7号(1979年)~第12号(1984年)参照。
  2. 同年10月22日のInformal Meeting of the Executive of the Boardの記録に、「高等商業学部教授として年俸1600円で採用する」との記載があることから、この見舞金がかなりの高額であったことがわかる。ちなみに同年の銀行の初任給は70円であった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社、1988年)。なお、戦前の理事会記録は英文手書きで残されているが、『関西学院百年史』編纂に当たって翻刻されている。
  3. ベーツ院長の日本への帰国の可能性について、文学部の今田教授は学生のインタビューに次のように答えている。「御歸國の事ですか。何だかそんな噂もあります、醫者が大變勤めてゐる様ですが、恐らくこの際の事とてそれは不可能でせう。御病名は〇?とも白血病?-白血球の消衰する病氣ださうです-とも取沙汰されてゐます」(『関西学院新聞』第28号(1927年5月30日))。
  4. 後に黄熱病等の研究で知られる野口英世(1876~1928年)は、東京の済生学舎(私立の医学塾)在学中の1897年に不自由な左手の再手術を受けているが、その時慈母の愛をもって看護したと伝えられる「小杉みの」のことだと思われる(『中央会堂五十年史』1940年、87-88頁、奥村鶴吉『野口英世』岩波書店、1944年、168頁)。
  5. ニュートン・コレクションより。
  6. 同年5月26日開催の理事会(Meeting of the Board of Directors)で、重病を理由にベーツ院長の6ケ月間の休暇が承認されている。
  7. UCC(カナダ合同教会)資料より。同資料は、小林信雄名誉教授が中心となって入手されたカナダ合同教会が所蔵する日本宣教関係の資料である。紙にコピーされたものの他、マイクロフィルムもある。マイクロフィルムの形で入手した資料の詳細は、『キリスト教主義教育研究室年報』第13号(1985年10月)、第14号別冊(1986年7月)、第15号別冊(1987年4月)、第16号別冊(1988年5月)参照。
  8. 当時の宣教師達は、夏休みを野尻湖、軽井沢等で過ごすのが通例であった。
  9. 今回紹介した日記は、トロント在住の弁護士Scott Bates 氏(ベーツ院長の曾孫にあたる)からお借りしたもので、表紙にはGuidance Book & Diaryと書かれている。詳細は、池田裕子「カナダ訪問記-C. J. L. ベーツ第4代院長関係資料調査の旅-」(『関西学院史紀要』第6号、2000 年、165-167頁)参照。
  10. 東京時代のベーツ院長の働きについては、次のような記述がある。
    • ・「東京におけるベーツ先生は本郷中央会堂を根拠として当時の帝大学生への伝道を開始された。所謂西洋文化全盛時代で殊に帝大の新人会の有為な青年が集った。その内有名なのは鈴木文二・吉野作造兄弟、少しおくれ河上丈太郎・松沢兼人等があった。ベーツ先生のお得意はオイケン・ベルグソン哲学で、その紹介者として特異な存在であられた。」(河辺満甕「恩師ベーツ先生のことども-学院教育にふれつつ-」(『学院を語る』関西学院宗教活動委員会、1965年、9頁)。
    • ・「東京では海老名弾正などをとおして、東大新人会の人たちと接触し、そしてキリスト教的でしかも当時の日本における第一級の文化人、学者であった小山東助、佐藤清など、後に河上丈太郎、新明正道などを学院につれてこられたのです。」(『大学とは何か 世界の大学・日本の大学・ 関西学院』関西学院を考えるシリーズ第1集、1975年、317頁)。
    • ・「ベーツ先生は鋭気さっそうたる青年学徒であり、その身辺に多くの学徒をひきつけていました。先生の日本及び日本人に対する愛情と尊敬は実に深く徹底して居りました。」(古橋柳太郎「教会生活の想い出」(『日本基督教団本郷中央教会七十年の歩み』1960年、17頁)。
    • ・「ベーツ先生は、バイブル・クラスで大いに効果を上げた。他の教師達と友好的に競い合いながら数多くの学生を集めた。35年前彼のクラスで学んだ青年の内の何人かは、今日中央会堂で指導者として働いている。その他の者は、外交の世界やビジネス界で傑出した地位を占めている。」<原文:英文>(『中央会堂五十年史』1940年、英文27頁)
  11. 河辺前掲書11-12頁。
  12. 無組織の小集団による超教派的・宗教的覚醒運動。提唱者Buchman, Frank Nathan Daniel。その主張するところは、キリストへの全き服従、罪の告白、キリストによる新生の証で、少人数の集会を随時開き、数人の同志がグループとなり、告白と証を順次行い会衆の霊的覚醒を促し、生活改変に導くことを目的とした。1935年6月イギリスにおける第1回総会を盛大に催して以来、オックスフォード・グループ運動として世界各地に広がった(『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年)。『ベーツ日記』にしばしば登場するGroup Meetingの記録は、この運動による集会の記録であると思われる。
  13. Robert Bates, Newcomers in a New Land. 1988.
  14. 原文の宛名はDr. and Mrs. Stephenson。Dr. Stephensonは、トロント訪問時に、ベーツ先生他の紹介があったため親切に歓待してくれたと吉岡第2代院長が話している「傳道局のドクトル、スチーブンス氏」のことではないかと思われる(「講演 吉岡院長歐米漫遊談」(『関西學報』第19号、1914年、2頁))。
  15. UCC資料より。なお、聖書からの引用であると思われる部分は、文中に聖書の箇所を示し、その和訳は、『聖書新共同訳』によった。

[池田裕子]

 

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