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原田の森キャンパス

原田の森キャンパス

■ 関西学院原田の森キャンパス鳥瞰図-1929年- /K.Maeda画 1959年、水彩

 創立時(1889年)は、粗末なバラック校舎だけだった原田の森キャンパスは、上ケ原に移転するまでの40年間に、次々と校舎が建築され、整備されていった。

 摩耶山を背景に、赤煉瓦と緑の芝生のコントラストが美しいキャンパスは神戸市民にも親しまれ、関西学院の催す行事(運動会、講演会、音楽会等)には多くの市民が集まった。日本人が経営する学校では、これほど行き届いたキャンパスの管理・運営は望めなかったであろうと言われている。

 ある同窓生は回想する。「赤煉瓦の建物が緑の芝生とすばらしい対照を見せ、絵画的な色調をたたえていた。・・・傾斜地のなだらかな線は柔らかく、美しい木の枝を通して摩耶山を仰ぎ、教室の窓から神戸港の光る波や行き交う船を眺めることができた。」

理事会メンバー,1922年

【写真】 理事会メンバー,1922年頃

理事会記録

【写真】 当時の理事会記録

最初の校舎, 1889年

【写真】 最初の校舎(元南寮),1889年

 W.R.ランバスは、西日本における伝道計画の長期展望のもとに、牧師、伝道者の育成とキリスト教主義に基づく青少年教育を授ける男子の総合学園設立を企図した。

 1888年、まず香港上海銀行から2,000円の貸し付けを受け、神戸市の郊外原田村(現、王子公園の一角)に1万坪(約3万3千平方メートル)の校地を1万円で購入。翌年米国バージニア州リッチモンドの銀行家ブランチ(T.Branch)の献金により支払いを完了した。ここに木造2階建1棟(257平方メートル)の校舎兼学生寮、平屋建1棟(190平方メートル)の食堂などの建物が完成し、1889年 9月28日、兵庫県知事の許可を得て、関西学院が創立された。

 授業開始の10月11日、小さな学灯を囲んだのは、W.R.ランバスと5人の教授、19人の学生・生徒であった。

最初の校舎_2

【写真】 創立当時の校舎

前方二階建てが、最初の校舎。
後方二階建てはその翌年(1890年)建築された第二校舎。
背後の洋館は、教師住宅。

 上ケ原移転直前(1929年 3月)の原田の森キャンパス(現、神戸市灘区王子町)
 ※ 図上の黒塗りで示す建物は完成していたが、白抜きで表す建物は計画段階のままで終わった。
  (神社を含む斜線部分はキャンパスの敷地外)

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 「原田の森」という呼称は、本来は建御名方尊(たけみなかたのみこと)神社(通称原田神社、現、王子神社)の神域の松林を意味していた。
 関西学院のキャンパスは、この神社を取り囲む形となっており、神社境内およびその導入路を関西学院が所有することはなかった。
 

関西学院正門

【写真】 関西学院正門
 左手にブランチ・メモリアル・チャペルが見える。
 この門は上ケ原に移設され(現在、大学院棟前)、当時のキャンパスを偲ばせる存在となっている。

関西学院正門_1関西学院正門_2


地図 3. 商科・高等商業学部

アームストロング先生の名演説

高等学部の教授陣

 第2代高等学部長を務めたアームストロング先生が肉付き豊かな双頬をたるませ、片手を高く打ち振りながら、高いダミ声で語っていた演説中の名文句がある。

 "Kwansei Gakuin depends upon you, young men!"

 創設間もない商科の学生たちは、この言葉に鼓舞され、勉学にスポーツに励んだ。

【写真】 高等学部の教授陣
(アームストロング: 最後列左、ベーツ: 前列右から 2人目)
 

高等学部昼食会

 1912年、高等学部(文科・商科)の授業は開始されたものの、施設、図書等の不備は甚だしかった。不安と不満を募らせた学生は、1学期の試験延期を申し出た。また、当時は高等学校の入学試験が7月に行われていたため、身の振り方を考え直す学生もいた。

 学生たちの強い不満を感じていたベーツ高等学部長は、1学期終了日の 7月 6日、教職員、学生を一同に集め、昼食会を開いた。ベーツ先生の人柄もあって、昼食会は終始和気藹々とした雰囲気に包まれていたと伝えられている。

 会に出席した学生たちは「この温かみこそは他の如何なる学校に於ても、味はひ得ざるものなるを思ひて、学院に留まる事を決した」のである。

高等商業学部で使用されたベル

【写真】 高等商業学部で使用されたベル

地図 5. ブランチ・メモリアル・チャペル

 1904年、ブランチ・メモリアル・チャペル献堂式が行われた。ウエンライト先生の寄附に、ブランチ氏とストライダー氏、その他多くの米国の友人からの寄附を加えて、1万5千円が集まった。ウエンライト先生は「日本を訪れたこともない、またこれからも訪れることはない異国の友人が、チャペルの完成に手を差し伸べてくれたこと」に感謝の意を表した。

 学院初期の建築物として、かつての原田の森キャンパスに現存する唯一のものであり、神戸市が所有する現在は「 神戸文学館 」として広く利用されている。

関西学院全景

【写真】 関西学院全景; 正面にブランチ・メモリアル・チャペル、左:神学館、右:本館

ブランチ・メモリアル・チャペル

【写真】 ブランチ・メモリアル・チャペル

ブランチメモリアルチャペル破片

【写真】 ブランチ・メモリアル・チャペルの煉瓦の破片
収拾年月は不明であるが、戦争で破壊されたチャペルの塔のものと思われる。

地図 7. 文科・文学部

たったひとりの文科生

 高等学部開設当時、入学志願者が少なかったため、初代高等学部長ベーツ先生は、学生確保に非常に苦労した。それでも商科はまだましだった。文科の第1回入学生はわずか3人で、それも1年後にはたった1人になってしまった。

 そんな中、希望に燃えて赴任してきたのがウッズウォース先生である。始業式の朝、学生の小さな一団がチャペルに駆け込んできた。商科の学生たちである。その一団に続いて、1人の学生がやって来た。すると、ベーツ先生がウッズウォース先生にそっと囁いた。

 "There goes your Literary Department."

 

芥川潤「あの頃のクラス」

文学部教授陣・学生

 「私達入学の当初は一つの円卓を囲んで先生と生徒が文字通り膝をつき合わせて教はったものだ。(略)..

...一番閉口したのは入学早々外人の先生の目の前でノートを取らねばならぬ事であった。これは全く難行苦行であった。田舎の中学を出たばかりの私には外人の先生の講義の概要を掴んで、聴き乍ら自分の英語になほしてノートに書きとめるなんて、そんな芸当が出来る気遣ひがない。(略)..

...誠に自然な結果としてノートはブランクだらけだ。いや大袈裟に云へば時にはブランクの中へチョボチョボとインクが塗ってあるばかりだった。(略)..

...時間後お互にノートを照らし合せて見たって失礼ながら『いづこも同じ秋の夕ぐれ』所か冬枯れの淋しさだった」 (芥川潤「あの頃のクラス」『文学部回顧』、1931年)

【写真】 文学部教授陣・学生, 1924-25年頃 (ウッズウォース: 前列左端)
 

地図 8. 神学部

ニュートン先生の辻説法

神学部と教授陣

【写真】 神学館と教授陣,1923年
(ニュートン: 2列目右から 3人目、ヘーデン: 2列目右から 4人目)

 学生たちは神戸の街でしばしば初代神学部長を務めたニュートン先生に出会った。
学生の挨拶を受けると、ニュートン先生は慇懃にシルクハットを取って、次のように言葉をかけた。

 "Are you a Christian?"
 "Do you believe in God?"
 "Do you go to church every Sunday?"


あまりに単刀直入な質問に、学生がドギマギしていると、

 "Pray, every day. There is a God wherever you are."

と言って、大きな手で握手。これを学生たちは「ニュートン先生の辻説法」と呼んでいた。

ヘーデン先生の奇妙な日本語

 ヘーデン先生は、奇妙な日本語を話すことで有名だった。marriage のことを「婚礼(Kon-rei)」と覚えて、いざその語を使おうとしたとき、間違って「霊魂(Rei-kon)おめでとう」と言ってしまったり、ピアニストのHさんを紹介する時に「Hさん、ピアノの上で遊びましょう」と言ったりした (play on the piano を「ピアノの上で遊ぶ」と間違えた?)。

 ヘーデン先生は、1896年以降関西学院で教鞭をとっていたが、後に神学部長を務めた。

 初期の宣教師が日本語学習のために使っていたと思われる本 S.R.Brown, Prendergast's Mastery System, Adapted to the Study of Japanese or English が残されている。
 

地図26. 中央講堂

名士の講演

中央講堂

【写真】中央講堂と理事会メンバー, 1922年

 原田の森キャンパスは日本の玄関ともいえる神戸にあったため、しばしば知名の士が訪れた。殊に海外からの名士の訪問が多かった。

 大隈重信の来院講演は、1913年11月26日であった。ペリー提督の第1回日本訪問時の乗組員だったキャプテン・ハーデー訪問時(1917年)には、1,300人もの聴衆が集まった。
 アメリカ大使モリスは、1919年 5月 2日、原田の森の真ん中に天幕演説を行った。そこで高等学部のスクールモットー "Mastery for Service" を賞賛し、喝采を浴びた。

 1922年に1,600席を有する中央講堂が完成すると、このような講演、音楽会の場として、あるいはそれまで屋外で行われていた中学部の礼拝の場として、さらには神戸市民の文化的な行事の拠点として利用されるようになった。

中央講堂献堂式

【写真】 中央講堂献堂式,1922年 4月20日

地図27. 普通学部・中学部

生徒は野武士の集合体

 「生徒の中でも関西各方面からの寄合い勢だけに何れも一癖も二癖もある連中で、これは学院創立20年位までは云わば野武士の集合体で・・(略)・・、それから後は他校から駆逐されたか、おん出て来たか、来てもおん出て行ったというような連中の中に、永井柳太郎や山田耕筰や近頃春泥尼の小説で大当りの今東光など珍しい連中が居るのだ。」 (久留島武彦「七十年前の一生徒」『関西学院七十年史』、1959年)

 

スクールカラーと中学部校旗

旧制中学部校旗

 1904年、関西学院のスクールカラーが赤と白に決定された。教員は、各自の出身校のスクールカラー、例えば、ヴァンダビルト大学の黄色と黒、イエール大学の青を主張したが、赤は日本語の赤心、白は純真を表すということで、最終的に赤と白が選ばれた。
 これは、1928年に作られた中学部校旗。白地に赤の三日月があしらわれている。

 

"The Maya Arashi"

mayaarashi#3

 原田の森にあった英語会(現在の関西学院大学ESSの前身)は、生徒の英語、特に会話の熟達をはかるために設立されたもので、英語教師、神学部生徒および、普通学部3年生以上の生徒が会員となって活動していた。

 1900年頃には、毎週土曜日の午前11時から、英語だけを使う文学会が催され、演説、討論、文章朗読、暗誦等の練習が行われていた。年に1度、公開の文学会が開かれ、会場として頌栄幼稚園、美以教会(現、神戸栄光教会)、関西学院等が使われた。

【写真】 The Maya Arashi 第3号表紙(定方末七郎画)

TheMayaArashi

 公開英語文学会の開催にあたっては、生徒の保証人や卒業生だけでなく、新聞社、学校、企業、官公庁、港湾施設、書店、神戸在住の外国人等にも招待状が送られていた。当日は、学生の書いたカレッジペーパー(学生生活の記録をユーモラスに英語で綴ったもの)が読み上げられた。"The Maya Arashi"は、学生が独力で書いたカレッジペーパーで「英語会の機関紙」とも言うべきものであった。

 

地図右上. 運動場

神戸市民も楽しみにしていた原田の森キャンパス運動会

【写真】 神戸市民も楽しみにしていた原田の森キャンパス運動会(1924.10.17.)

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