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C.J.L.ベーツによる「私たちの校訓『マスタリー・フォア・サービス』」

関西学院のスクールモットー"Mastery for Service"は、C.J.L.ベーツ第4代院長が1912年4月、新設の高等学部長に就任した直後に提唱したもので、その後『商光』創刊号(1915)に "Our College Motto"と題してその中心的意味が提示されました。英語と日本語でご紹介します。

OUR COLLEGE MOTTO,“MASTERY FOR SERVICE”

Human nature has two sides, one individual and private, the other public and social. There is a life which each man must live alone, into which no one else can enter. That is his personal individual life. But a man's life is more than that. It has another side, which it shares with other men. And it is our duty and privilege to keep before our minds these two sides of our nature. There is an ideal of life corresponding to each side. One is self-culture, the other, self-sacrifice. These ideals are not contradictory, however, but complementary. Neither is complete by itself, nor independent of the other. Self-culture pursued for its own sake produces selfishness. Self-sacrifice as the only rule of life leads to weakness. But self-culture as a basis for self-sacrifice is not only justifiable, but necessary. And self-sacrifice on such a basis is truly effective.
Now these two phases of our nature are implied in our college motto "Mastery for Service". We do not desire to be weaklings. We aim to be strong, to be masters - masters of knowledge, masters of opportunity, masters of ourselves, our desires, our ambitions, our appetites, our possessions. We will not be slaves whether to others, to circumstances, or to our own passions. But the purpose of our mastery must be not our own individual enrichment, but social service. We aim to become servants of humanity in a large sense. In England the officials are called civil servants, and the highest officials Ministers of State. That implies a true conception of the nature of the work of an official. His duty is not to command, but to serve. In fact, a man is great only to the extent to which he renders service to society.
This then is our college ideal, to become strong, effective men, not weak incompetents; men who will be recognized as masters. But having become masters we desire not to inflate, and enrich ourselves for our own sake, but to render some useful service to humanity in order that the world may be better for our having lived in it.
Our ideal business man is neither a gambler nor a miser, but a man who succeeds because he is a master, a man who understands the fundamental principles of business, who knows what to do, and who by industry and honesty is able to succeed where other men might fail - a man whose object in life is not merely to increase his credit balance in the bank, but to use his financial power to improve the condition of society; - a man who has public spirit, and a keen sense of social duty. Such a man will be revered by his employees, and respected by his customers.
Our ideal of the scholar is not a kind of intellectual sponge that always takes in, but never gives out until it is squeezed; but it is a man who loves to acquire knowledge not for its own sake, much less for the sake of his own fame, but whose desire for knowledge is a desire to equip himself to render better service to humanity.
It is said that on the monument of a certain man there were cut the words "Born a man and died a carpenter. " We desire no such fate. For such an end is failure. Nor would it be any greater success if it were written "Born a man and died a merchant" - or "a millionaire" - or "a politician." To be a man, a master man and at the same time a true servant of humanity is our ideal.

 
C.J.L.BATES


 

私たちの校訓「マスタリー・フォア・サービス」

人には二つの面があります。一つは個人的で私的な面、もう一つは公的で社会的な面です。
人それぞれに、ただ一人で生きるべき生活があり、これには誰もたちいることができません。それは一人ひとり別々の、個人としての生活です。しかし、人の生活はそれだけのものではありません。もう一つの面が人の生活にはあります。この面を私たちは他の人々と分かち合っています。人のこの両面をつねに心にとめておくことが私たちの責務であり、また与えられた恵みです。
このそれぞれの面にふさわしい人生の理想があります。一つは自己修養であり、もう一つは献身(自己犠牲)です。しかも、この理想は相反するものでなく、むしろ相補うものです。いずれも、一方だけでは完全でなく、もう一つの理想から独立したものでもありません。自己をきたえることを、ただそれだけを目的に追求するとすれば自己本位になってしまいます。一方、自己をささげることが人生の唯一の規範であるならば、“意気地なし”ができあがります。しかし、自己の修養は献身の土台なのですから、それは正当なものであるばかりか、必要なものです。自己修養のような土台があってこそ献身はほんとうに効果を発揮するのです。

ですから、校訓「マスタリー・フォア・サービス」という言葉が意味するのも、人にこの二つの面があるということなのです。私たちは“弱虫”になることを望みません。私たちは強くあること、“さまざまなことを自由に支配できる人”(マスター)になることを目指します。マスターとは、知識を身につけ、チャンスをみずからつかみ取り、自分自身を抑制できる、自分の欲、名誉や飲食や所有への思いを抑えることができる人です。

私たちは、他人や境遇、あるいはみずからの情念に“縛られた人”(奴隷)になるつもりはありません。私たちがマスターになろうとする目的は、自分個人を富ますことでなく、社会に奉仕することにあります。私たちは、広い意味で人類に奉仕する人になることを目指しているのです。英国では、公職にある者が“国民への奉仕者 civil servants(公務員)”と呼ばれ、最高位の公職者が“国家のしもべ Ministers of State(国務大臣)”と呼ばれています。これは公職者の働きの本質をうまく表わした呼び名です。公職にある人の責務とは命令することでなく、仕えることなのです。

要するに、人の偉大さはどれだけ社会に奉仕をおこなったかによって決まるのです。それゆえ、本校の理想は強くて役に立つ人になることであり、弱くて使いものにならない人になることではありません。それぞれがマスターと認められる人になることです。しかし、マスターになったとしても、威張ってみせたり、贅沢をしたりすることを望むのでなく、この世界が、自分が生きていたことによって、より良くなることを目的として、人類のために何か有益な奉仕をすることを願うのです。

私たちが理想とする事業家は賭博師でも守銭奴でもありません。マスターであるがゆえに、成功する人、事業の基本原理を理解し、なすべきことを知っている人、他の人ならば失敗しかねない場合でも勤勉と正直により成功を収める能力がある人です。たんに銀行の預金高を増やすことでなく、その財力を社会状況の改良に用いることを人生の目的とする人、公共心をもち、社会的義務に鋭い感覚をもっている人なのです。そのような事業家は従業員からも敬愛され、顧客からも尊敬されるでしょう。

私たちが理想とする学究の徒は、ただ知識を吸収するだけで、絞られるまで他に与えない、知識のいわばスポンジのようなものであってはなりません。知識を喜んで探求するとしても、ただ知識を得るためでなく、ましてみずからの名声のためでもなく、人類により良い奉仕を行うことを目指して知識を探求することが学究のあるべき姿です。

墓碑に「人として生まれ、木工(たくみ)(※)として死す」などと刻まれることがあります。私たちはそのような人生の結末を望みません。そのような終わり方は人生の成功とは言えません。「人として生まれ、商人として死す」あるいは「人として生まれ、大金持ちとして死す」「人として生まれ、政治家として死す」—そのいずれであっても、同じように成功だとは言えないのです。真に人である、つまり「マスター」であると同時に人類に真に「仕える人」であること、これが私たちの理想とするところです。
 

※)「木工(たくみ)」とした言葉は“carpenter”です。ベーツは、「木工の家」に生まれたナザレ人イエスを想起しながらこの言葉を記したと思われます。その場合、「人として生まれ」たイエスこそが「生ける神、世の救い主(キリスト)」であるというキリスト教のメッセージが前提にされています。したがって、その趣旨は職業の貴賤を論じることではありません。

C.J.L.ベーツ
この英文は、高等学部商科の学生が1915年に刊行した『商光』創刊号に、C.J.L.ベーツ高等学部長(後の第4代院長)による講演論説「OUR COLLEGE MOTTO“MASTERY FOR SERVICE”」として掲載された歴史的文書です。“College”は高等学部(商科の他に文科がありました)の英文名称で、当時の関西学院は男子校でした。C.J.L.ベーツは、原田の森時代に初代高等学部長となり、高等学部のモットーとして“Mastery for Service”を提唱しました。この言葉は当時の高等学部校舎であった旧本館内に大書され、上ケ原移転の後は時計台(旧図書館)正面の楣間(びかん)と中央講堂のプロセミアン・アーチに掲げられ、全学院のモットーとみなされるに至りました

Our College Motto,
“Mastery for Service”
の新訳について
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 関西学院のスクールモットーである“Mastery for Service”は、C.J.L.ベーツ第4代院長が1912年に新設された高等学部で学部長に就任した直後から提唱し、その後、学院全体のスクールモットーとして定着したものです。それから100年近くの間、関西学院の建学の精神、キリスト教主義教育の象徴として、教職員、同窓生、学生が共有してきました。
 その長い歴史の中で、この句の意味を説明する際に用いられてきたのが、1915年、『商光』創刊号に掲載されたベーツ院長の講演論説「Our College Motto,“Mastery for Service”」です。掲載時は英語文だけで、日本語訳が公式に出されたのは、現存する資料においては『開校四十年記念関西学院史』(1929年)が初出であり、『関西学院七十年史』(1959年)において文末表現などを時代に合わせて変化させたものが掲載され、以後、原文とともに日本語訳の文章が学内の文書・資料に利用されてきました。

 しかし、この日本語訳は、初出の段階から原文における5つの重要な箇所の訳が省略されているほか、現在の学生・生徒にとってはやや難解な表現が少なからず含まれています。また、当時は関西学院が男子校であったことから呼びかけとして「Man」が多く使われていて、現代においてはジェンダーの観点から違和感を持つ構成員がいることや、省略された部分への理解不足から「職業差別がある」との誤解が生まれたことなどもあり、あまり利用されなくなって構成員が触れる機会が減ってしまっていました。

 本学は、この16年間で急速に規模を拡大し、上ヶ原1つだったキャンパスは7つに増え、大学も7学部から11学部1独立大学院2専門職大学院へ、学生・生徒数も1万7千人から2万6千人へ、教職員の数も倍近くに変化してきています。
 こうした状況の中で、ミッション展開推進委員会では、本学が共有すべき価値観を再認識するとともに、大学生、初等・中等教育の生徒、教職員、同窓生など広い意味での構成員が、スクールモットーの意味をより深く理解するための一助として、それを提唱されたベーツ第4代院長自身による講演論説「Our College Motto,“Mastery for Service”」全文の分かりやすい現代語訳(新訳)を作成することとしました。

 本事業は2011年になって作業が始まり、本学の歴史に精通した英語の専門家が複数の教員の協力を得て原案を作成し、その原案をさらに、歴史的な視点、キリスト教の視点、英語の視点などから学内で適任と思われる13人の専門の方々に見ていただいてご意見をお聴きしたうえで、ミッション展開推進委員会が作業グループを編成して委員会としての新訳案を完成させました。新訳案の作成にあたっては、歴史的な文書であることから翻訳の正確さを守りつつ、多くの構成員に分かりやすいものとなるよう最大限、努めました。
 その後、新訳案を学内に公開し、「パブリックコメント」の手法をとって教職員の方々のご意見をお聞きし、新基本構想推進委員会でも委員のご意見をお聞きして最終的に新訳が完成いたしました。
 もとより本学は、新基本構想においても、性別、人種、文化、宗教、民族、国家など多様性を尊重する<垣根のない学びと探究の共同体>をめざすことを宣言しております。
 改めて新訳作成にご尽力いただいた方々に深く感謝を申し上げますとともに、新訳完成を機会に多くの方々がベーツ先生の文書を日本語訳だけでなく英文でもじっくりと読んでいただき、私たちのスクールモットーについて理解を深めていただけたら幸いです。

2011年11月16日
ミッション展開推進委員会
(委員長 ルース・M・グルーベル)

関西学院七十年史(1959年)の訳   コンテンツを開く コンテンツを閉じる

 人の性質には、個別的なもの、私のものと、公共的な社会的なものの二つの面がある。生命にも、各個人がただ一人で生きなくてはならない生命もあり、この生命の中には他の何人も立ち入ることが不可能である。これが彼の個別的な生命である。しかし人間の生命は、決してこれのみに止まるものではない。他人と共に分かつことのできる他のもう一つの面がある。この二つの面にはそれぞれに対応する人生の理想がある。一つは自修、他は献身である。しかもこれらの理想は、矛盾するものではなく、かえって相補うものである。またそれらはその一つのみでは完全なものとなることはできない。さらにまたその一つのみ孤立することも不可能である。ただ自分のためのみに求められた自修は、やがて利己の念を生じ、単に献身ということのみをもって、人生唯一の理想とするならば、それは基礎の軟弱に導くものである。献身の基礎としての自修はただ正当なものであるばかりではなく、必要なものでもある。献身は自修という基礎の上に立ってはじめて真の効果のあるものとなる。
 だから私たちの性質におけるこの二つの面は、包含されて、校訓“Mastery for Service"の中に生かされている。強からんことを願い、主たらんことを願う。知識の主、自己の野心、情慾、はたまた富の主たらんことを願う。私たちは奴隷となってはならない。他人の奴隷、境遇の奴隷、自分の情慾の奴隷、そうしたことを私たちは排する。しかし私たちが主たらんと欲する真の意味は、自分の一個の富を求めるためではなくて、それによって世に仕えるためなのである。私たちは広い意味における人類の僕たらんことを期しているのである。……人間は社会に奉仕するところに比例して、それだけ偉大と称せられるのである。……私たちが主たらんと求めるのは、自分の威を張ったり、自分を富ましめようとするためではなくて、自分が生存していたということによって、世界を少しでも良くなるように何らか有用な務めを果たすような人間になるためである。
 私たちが理想とするビジネスマンは、博徒ではない。吝嗇家でもない。実業の根本原則を理解し、自己の本分をわきまえ、勤勉と正直とによって、他の人々が失敗するところにも成功するような、真の主たることによって栄えてゆく実業家なのである。……その財力によって社会が改良され、公共的精神を持ち、社会に対する義務の念に鋭敏な者なのである。……また私たちが学徒の理想とするところは、つねに吸収することのみを知って、飽和するまで与えることを知らない知的海綿のようなものではない。知識を求めるのは、単に知識のために求めるのではなく、まして名誉のためではなくて、人類に対してよりよき務めをなすことができるものとして、自らに備えんがため、これをなすような者でなければならない。……人間たれ、主たれ。とともに真に人類のために仕うる者たれということが、私たちの理想とするところのものである。

こちらの日本語訳は、『開校四十年記念関西学院史』(1929年)に掲載された文章の表現が一部修正され、『関西学院七十年史』(1959年)に掲載されたものです。

関西学院創立70周年
ベーツ院長記念講演
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関西学院の経営にカナダ・メソヂスト教会が加わったのが今から100年前の1910年。それに伴い、スクールモットー“Mastery for Service”の提唱者として知られるC.J.L.ベーツ(第4代院長)がカナダ・メソヂスト教会の宣教師として関西学院に赴任しました。 1959年、82歳のベーツ院長は関西学院創立70周年記念式展に参列するため、19年ぶりに来日しました。10月28日、中央講堂で歓迎礼拝が行われ、ベーツ先生は学生を前に日本語でスピーチしました。

関西学院創立70周年 ベーツ院長記念講演

 小宮院長・先生達・中学生・高等学生・大学生の皆さんに、この度再びお話ができることは、心の奥底に非常に深い感じがあります。いろいろの記憶が、今、心にも頭にも出て来ます。あるいはこれは夢であるか、あるいは事実であるか、どっちであるか、はっきりわかることのできないくらいの感じがあります。けれども皆さんの前に、またこのとき立つことができる、実に大きな喜びがあります。19年前に関西学院を離れ、日本を離れて、カナダに帰りました時から、あんまり日本語を使いませんでしたから、今朝は十分な話ができないと思います。どうぞ私の間違っている言葉を許して下さい。ただ、心から、できるだけ簡単な言葉をもって、自分のフィーリングを言いたいと思います。

 今ふたたび、関西学院に戻ると、昔の関西学院のことをいくらか考えて話さなければならないと思います。私は49年前、関西学院に参りました。その時、学院は、実に数としては小さな学校でした。ただ、神学部と普通学部という、中学校のような学校がありましたが、その2つの学部に、たった300人の生徒・学生がおりました。そしてその後30年後、私が学院から離れる時、3,000人の生徒・学生がおりました。今学院に帰って来ますと、おそらく9,000人以上―約100万人位のまあ、あの、1万の学生が(笑)おります。非常に驚くべきことであると感じます。
 この度また学院に参りましたことは、非常に喜びでありますけれども、それと共に、深い悲しみの感情があるのです。なぜならば、私の親しい友人―この学校のために力を尽したいろいろな立派な人格者の方々が、今見えませんのは非常に深く悲しみを感じます。ことに吉岡先生、曽木先生、神崎先生、鈴木先生など、沢山のいろいろな先生の顔を見ることができないことは、非常に悲しいことであると感じます。

 学院の歴史は実に生ける歴史―リビング・ヒストリーであると感じます。昔の学院は数としては小さい学校であっても、この学校の中に、本当の生ける主義があるから、今までこういうように続くことができました。また続くばかりでなく段々大きくなって来ました。その生ける主義とは何であるか。そのニュー・ライフはこの学校にあるといつも感じるのです。ことに今、私はグリー・クラブの非常に立派な音楽を聞きますと―ことにこのクリスチャン・ヒム(讃美歌)を聞きますと、実に深く感じます。どうも有難うございました。ことに男の声と一緒に婦人の声が歌いますから実に結構なことであると思います。

 学院の歴史に2つの大切なモットーがありました。一番古いモットーはあの神学部にありました。真理は汝に自由を与える、というモットーであります。古い関西学院をおぼえていらっしゃる方々はご存じですが、あの古いOld Kwanseiの神学館の入口の上に漢文で、真理は汝等をして自主を得しめる(真理将使爾自主)と書いてありました。The truth shall make you selfmaster という意味。The truth shall make you master of yourself という意味であります。今の言葉は「自主」でなくて「自由」という言葉です。けれども、その「自主」という言葉のうちに、実に深い意味があると思うのです。なぜならば、しばしば「自由」という言葉は、日本ばかりでなく英語でも間違って考えられていると思うのです。真の自由があるとともに、また間違った自由があります。けれどもこの「自主」という言葉は実に深い意味なのです。
 もっと新しいモットーMastery for Serviceは、このカレッジができてから、また大学ができてからできました。それはどういう意味であるか。私どもは人として、いつも弱いものであってはいけません。できるだけマスターになりたいと思うのです。どういうマスターであるかというと、ただ他の人、他のものを治めるという意味ではなくて、深く考えてセルフ・マスターの意味であります。master of self。 聖書に書いてあるのは、罪をおかすものは罪の奴隷であるwho even cometh sin is the servant of sin と書いてある―そうすると、私どもは他のもの、他の人、他の悪い習慣などの奴隷でなくて、セルフ・マスターにならなければならないと思います。
 もし学生だったら学問のマスターにならなければならない。英語を研究するならばマスター・オブ・イングリッシュにならなければならない。あるいは数学であっても、どんな学問であっても、研究をするならばできるだけよく深く完全にならなければならない。そういう学問のマスターになるべきです。ただ半分くらいわかるのではなくて、深く十分に完全にならなければならないはずであると思います。それはマスター・オブ・ノーレッジ(知識)の意味です。ご存知の通り、学校を卒業するとマスター・オブ・サイエンスやマスター・オブ・アーツなどのディグリー(学位)があります。それはその意味です。
 けれども何のためにマスターになるのでしょうか。世界で一番大切なことはサービス(奉仕)です。他の人のためのサービスということであります。そうすると、私どものモットーMastery for Serviceの意味は自分自身のためにマスターになる意味ではありません。サービスのため、他の人のため、あるいは公のため、国のため、世界のためにマスターになりたいという意味であると思います。それは皆さんの将来の大いなる機会であるとともに、また責任であると思います。

 この学校は、昔はミッション・スクールといわれたのです。今でもミッション・スクールといってもいいと思います。けれども、その意味は変わってきたのです。ミッション・スクールといいますならばschool of mission の意味です。今の学院はschool with mission でありschool with purpose目的を持っている学校です。school with plan であります。そしてそのpurpose 、そのmissionは、できるだけ大いなるサービスをすることであります。それは関西学院のdestinyであり関西学院のfutureであります。その為に、学校がこんなに大きくなり、その成功を期することができたのです。今再び日本に帰って来まして苦い戦争のあとの大いなる回復ができましたことを、私は心から感謝するとともに、実に喜びとするところです。けれども皆さん。マテリアリズムの成功ばかりしないように。世界で最も大切なことはあのニュー・ライフであり、スピリチュアル・ライフであります。精神的なライフがもっとも大切です。そしてGood Man・善い人、Pure Man・純粋の人が最も大切だと思います。
 私がこの関西学院に30年おりましたことを、私は神様に感謝します。それは大いなるprivilege(名誉)であると私は思うのです。カナダの国にまた帰りましても、決して関西学院を忘れ、日本を忘れることはないでしょう。私の心に残ってあるのです。私は57年前に日本に参りました。そして38年以上、日本に生活できましたことを、実に神様に感謝します。日本で4人の子供が生まれました。幸いに今日、私の2番目の息子を連れてくることができました。
 どうかみなさん、責任の心を持って、関西学院を真実にtrulyとsincerelyで代表してくれますことを私は願います。私が離れても、私のオールドボイスがここに残るなら、関西学院の働きはずっと将来に続くと考えます。
 どうか皆さんの上に、神様のお恵み、御祝福、御いつくしみのあるよう祈ります。

(「K.G.TODAY」vol.258 2010年6月号)
 

講演の収録テープは学院史編纂室に残されており、音声データは下記のサイトからお聴きいただけます。
 

関西学院創立70周年のベーツ院長記念講演会 音声関連ページへのリンク

THE MISSION OF K.G.UNIVERSITY
(『関西学院新聞』,1932年)
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以下の文章は、第4代C.J.Lベーツ院長が1932年(昭和7年)12月20日発行の『関西学院新聞』大学昇格祝賀号に「THE MISSION OF K.G UNIVERSITY」と題して記したものです。

『関西学院新聞』大学昇格祝賀号 第4代ベーツ院長が記したミッションに関する文章

『関西学院新聞』大学昇格祝賀号 第4代ベーツ院長が記したミッションに関する文章

THE MISSION OF K.G. UNIVERSITY
C.J.L.Bates

 The year 1932 will ever be remembered among Kwansei-Gakuin folks as the year in which the Imperial Government of Japan granted permission for the opening of university work in our alma mater.
 For many years we have been hoping and praying and planning for this end.
 It has seemed to us to be the inevitable destiny of our School. First in the Middle School, then in the College, for twenty years in each period, the foundations were laid and the fundamental principles of education in Kwansei Gakuin determined.
 Now we feel prepared to take the next step in the development of our School and “launch out into the deep.” We realize the seriousness of this step. It is no easy matter to establish and carry on a University and we will need the sincere and hearty cooperation of all students and teachers, graduates and friends to realize our purpose and accomplish our Mission.
 For Kwansei Gakuin is a Mission School in two tenses. Firstly it is a Mission School because it was founded by a Mission, and secondly it is a Mission School because it is a School with a Mission. We must never be content to think of Kwansei Gakuin as simply “one more school” nor of Kwansei Gakuin University as “just another University.” It is not enough to make our University simply an institution of learning. It must be a centre of education in the deepest meaning of the term.
 The English word “Education” comes from two Latin words “e” or “ex” which means “out of” and “duco” which means “to lead.” Education in this sense means to lead out the natural qualities in the student to stimulate the student to think and to express himself, to develop initiative, self-reliance and self-control, not simply to train in certain ways of efficiency.
 Our Mission is to make men, men of pure hearts, men of strength of character, men of quickened insight, of fidelity to truth and duty, men of sincere loyalty and unswerving faithfulness, men of magnanimity.
 That is the word that I would like to set before ourselves as our ideal, “Magnanimity,” which means “greatness of soul”. This is the ideal student and graduate of Kwansei Gakuin, and to produce such men is the great Mission of Kwansei Gakuin University.
 By fulfilling this Mission we shall best serve society, Japan, the world,and God.

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