吉岡 美國
吉岡 美國 (よしおか・よしくに : 1862年-1948年)
関西学院第2代院長。町奉行所属の同心で代々浄土宗の家であった父銕次郎(美種)、母幾久子の長子として京都市に生まれる。幼名を岩三郎。欧学舎の支舎であった英学校でC.ボールドウィンから英語を学び、同時に立成校で和・漢学を学び、両校の合併により創立された京都府中学校の卒業生となった。卒業後、工部寮(工部大学)への進学を希望したが、父の死亡で果たせず、助教諭として母校で5年間務めた。
1885年、ボールドウィンの紹介で神戸居留地にあった兵庫ニュース社に勤務、邦字新聞の翻訳などに従事。その間、西洋文化の輸入による日本思想・道徳の混乱に心を砕き、西洋文化の根底に横たわるキリスト教に関心を持ち、86年、神戸に着任したばかりのJ.W.ランバス(関西学院創立者W.R.ランバスの父)と出会い、88年3月4日、山2番館の神戸美以教会仮礼拝堂で、長谷基一、坂湛とともに受洗。アメリカ・南メソヂスト監督教会日本宣教部の定住伝道師として神戸美以教会(現, 神戸栄光教会)に任を受けた。
1889年、関西学院を創立するための原田の土地取得に際して、長谷、坂とともに土地所有者となった。関西学院の創立者W.R.ランバス、幹事中村平三郎らとともに大分で伝道活動を行っていた同年12月31日、S.H.ウエンライトを教師とする大分美以教会の除夜の説教で大分リバイバルを体験した。
1890年、神学部教授に就任、同年、アメリカ、テネシー州ナッシュヴィルのヴァンダビルト大学神学部に入学し、92年卒業。同年9月に関西学院第2代院長に就任。以来1916年まで院長を務めた(同年、名誉院長)。07年にはアメリカのエモリー・アンド・ヘンリ大学より名誉学位を授与された。
「高い風格のある武士的東洋的教養にキリスト教的訓育を加えて無言の感化」を与える「慈父」として、「敬神愛人」を唱え、関西学院発展の基礎を固めた。『国民道徳講義草稿』が残されている。(『関西学院事典』より一部改編)
吉岡美國の舞台 -原田の森キャンパス-
上ケ原移転(1929年)直前の原田の森キャンパス(摂津国莵原郡原田村字王子、現在の神戸市灘区王子町)は、緑の芝生に赤い煉瓦造りの建物が映える美しいキャンパスであった(教員数115名、学生・生徒数1847名)。しかし、その40年前、神学部と普通学部により始められた頃は、2棟のみすぼらしい木造校舎があるだけだったのである。1910年、アメリカの南メソヂスト監督教会が創立した関西学院の経営に、カナダ・メソヂスト教会が参加し、その2年後に高等学部(文科・商科)が開設されたことにより、キャンパスの整備は大いに進んだ。
移転後、これらの校舎は順次取り壊され、今も現地に残るのはブランチ・メモリアル・チャペル(現在は神戸市が所有)ただひとつである。
写真でたどる吉岡美國の生涯
少年時代(1877年頃)-15歳頃-
1862年 9月26日、吉岡美国は、父銕次郎(美種)、母幾久子の長子として、京都に生まれた。家は代々町奉行所属の同心であった。
父親の勧めを受け、「英語学校」(後の京都府中学校)で学んだ吉岡は、京都滞在中の明治天皇が学校を訪問した際に表彰されるほど優秀だった。「英語学校」では、アメリカ海軍士官ボールドウィンが、会話、習字から、最終的にはバレーの歴史書を頂点とする「星学、地理学、リードル、会話書、翻訳、算術」などを教えており、ここから平井金三、伊藤小三郎、藤岡勝二等多くの言語学者が誕生した。
ヴァンダビルト大学留学(1891年頃)-29歳頃-
1880年 3月、京都府中学校を卒業した吉岡は、同校の助教諭として5年間働いた後、ボールドウィンの紹介により、神戸居留地にあった兵庫ニュース社に入社、日本伝道を開始したばかりのアメリカ南メソヂスト監督教会宣教師ランバス父子と出会った。病気のため、1年で新聞社を退社した吉岡は、ランバス父子との交流を通して信仰を得、関西学院の創立に協力することになった。
関西学院創立後の1890年、アメリカ・テネシー州ナッシュビルのヴァンダビルト大学神学部に入学。2年前に結婚した妻を日本に残しての留学であった。吉岡は前列右から2人目。
南メソヂスト監督教会日本年会(1894年)-32歳-
1892年にヴァンダビルト大学を卒業した吉岡は、帰国し、関西学院第2代院長に就任した。これは、1894年 8月に関西学院で開催された南メソヂスト監督教会日本年会の記念写真。吉岡は前列左から3人目。
院長の吉岡は、キャンパス内の住宅に住み、家族ぐるみで生徒たちの世話にあたった。病気で入院した寄宿生が次々に命を落としたことがあったが、普通学部卒業1年前に腸チフスにかかった日野原善輔(本学名誉博士である日野原重明聖路加国際病院名誉院長の父)を「もう殺さない、わしの家で自分で看護してなおす」と言って、戸板にのせて引き取り、3カ月半にわたって自宅で手厚く看護したのはこの頃のことである。
普通学部生と(1900年)-38歳-
1889年に、神学部と普通学部から始まった関西学院は、徴兵猶予の適用もなく、上級学校進学に必要な中学校卒業の資格も与えられていなかった。普通学部が中学校と同等以上との文部大臣の認定を得たのは、1909年 2月のことであった。さらにその後、普通学部は中学部と名称変更された。
このような過程において、1899年に出された文部省訓令第12号(聖書と礼拝を放棄しなければ、前述の特典を与えないというもの)に対して、「聖書と礼拝なくして学院なし。特典便宜何ものぞ。例え全生徒を失うもまたやむを得ざるなり」と、吉岡は言い放った。
そんな中、1900年 3月の普通学部卒業生は6名であった(最前列、右端の人物を除く)。吉岡は前から2列目の中央。その後ろに、第5代院長となった神崎驥一の顔も見える。
ブランチ・メモリアル・チャペル(1904年)-42歳-
ブランチ・メモリアル・チャペルは、原田校地取得の際の資金提供者であったアメリカ・バージニア州リッチモンドの銀行家トマス・ブランチの息子などの資金協力を得て建設された。設計はイギリス人M.ウィグノールで、初期英国風ゴシック・スタイルの煉瓦造り平屋建て。関西学院初期の建築物として、かつての原田の森キャンパスに現存する唯一のものである。前列左より、吉岡、ウエンライト、ギャロウェイ?、松本、長谷、村上、吉崎、マシューズ、ガーナー。2列目にニュートンの顔も見える。
吉岡美國一家(1905年)-43歳-
左より、長女美津、次女美知枝、妻初音、長男美清。妻初音は、長崎の活水女学校(現、活水学院)神学科第1回卒業生。活発明朗でありながら謙虚な女性であった。「ライオン」とあだ名されていた吉岡が生徒たちに慕われたのは、行き届いた妻初音の働きに負うところが大きかったと言われる。
1899年 7月、姉夫婦の家に滞在していた初音の妹岡島まさが、夏休みも寄宿舎に残っていた生徒たちに頼まれ、合唱の指導をしたことが関西学院グリークラブの誕生につながった。長女美津は、吉岡の教え子で、後に第5代院長となった神埼驥一に嫁いだ。美津の死後、次女美知枝がその後妻となった。
正装した吉岡院長(1907年)-45歳-
1892年 9月、関西学院第2代院長に就任した吉岡は、1916年の退任まで24年間の長きにわたって院長を務めた。これは関西学院歴代院長の中でも最長である。
吉岡は、公私ともに寡言であったが、その声は静かで軟らかく、太くて低く美しかった。大のお茶好きで、神学部でお茶を飲むのを好んだ。日本語より英語の方が上手というエピソードには事欠かない。「私の名を英語になおすと LUCKY hill, Beautiful country であって立派な名である」と語り、当時未だ珍しかった自転車を愛用していた。
日露戦争戦捷(センショウ)記念碑(1909年)-47歳-
日露戦争終結から4年後の3月10日、原田の森キャンパスに日露戦争戦捷記念碑が建立された。関西学院関係者(在学生、教職員、卒業生、中途退学者、退職教職員を含む)総数が200名にも満たなかった時代、日露戦争に出征した関学関係者は13名もいた。
この記念碑は、キャンパスの移転に伴い上ケ原に移された。現在、高中部礼拝堂の東側の道に面して置かれている扇形の石(日露戦争出征者と記念碑建立寄付者の名が刻まれている)がその一部である。
神学館定礎式(1911年)-50歳-
カナダ・メソヂスト教会が関西学院の経営に参加することになり、校舎整備計画が立案された。そこで、3年前に専門学校として認可された神学部の校舎が建てられることになった。これが、関西学院におけるヴォーリズ建築の最初である。定礎式に集まった人々の中心にいたるのが吉岡。中央の星条旗の左側にある日の丸の下には若き日のベーツの横顔も見える。
完成した神学館の玄関に掲げられたのは、神学部の創立以来のモットー「真理将使爾自主」の額であった。
欧米訪問(1914年)-52歳-
4月初旬、吉岡は、日本メソヂスト教会の代表として、南メソヂスト監督教会総会に出席するため渡米した。オクラホマでの総会の後、各地の教育事情を視察しながら懐かしいヴァンダビルト大学を訪問し、アメリカに留学中の教え子たちと再会した。これは同大学のウエスレーホール入り口で撮影された写真である。
北米訪問後は、大西洋を横断し、スコットランドのグラスゴーに向かった。英国で、第一次大戦勃発直前の不穏な動きを察知した吉岡は、パリ訪問を諦め、ベルリンに向かったが、シベリア鉄道経由の帰国が不可能となったため、ロンドンに戻り、大戦勃発後最初の帰国船に乗った。 9月28日、関西学院の教師・生徒が振帽拍手万歳で迎える中、吉岡は無事神戸港に到着した。
創立者ランバスを原田の森に迎えて(1919年)-57歳-
10月30日、関西学院を訪問したランバスは、朝9時よりチャペルで講話した。午後3時からは学生会館で歓迎会が開かれ、ランバスは、フランスやドイツやロシアの情勢について語った。この2カ月前には、神戸中央教会(現、神戸栄光教会)で説教に立ち、神戸で亡くなった父親の墓を大切に守ってくれている教会員に感謝の言葉を述べている。
これは、原田の森キャンパスで、初代院長ランバス(中央)、第2代吉岡(左)、第3代ニュートン(右)が顔を合わせた珍しい写真である。
創立者ランバスの父の墓前(1921年)-59歳-
日本訪問中に発病した関西学院の創立者ランバスは、9月26日、横浜で亡くなった。臨終の際、"I shall be constantly watching"という言葉を残した。
10月3日、悲しみに沈む関西学院でランバスの告別式が挙行された。4日後、吉岡の胸に抱かれたランバスの遺骨は、小野浜墓地(現、神戸市立外国人墓地)に眠る父親に別れを告げた。さらに、吉岡、ニュートン、タウソンの3人は、遺骨と共に上海に渡り、中国で伝道活動を続けていたランバスの妹夫婦に再会した。
ニュートン第3代院長の帰国(1923年)-61歳-
5月15日、40年におよぶ日本滞在を終えた第3代院長ニュートン夫妻が故国アメリカに帰国した。吉岡にとっては、創立後わずか1年数カ月で日本を去ったランバスに代わって、助け合い、苦労を共にして来た大切な仲間との別れであった。吉岡は横浜港までニュートン夫妻に同行し、別れを惜しんだ。
神戸港での見送りには2千人が集まった(当時の関西学院教職員、学生、卒業生総数3千5百名)。「周知の通り、本学は故ランバス監督によって創立されました。しかし、それを今日の姿にしたのはニュートン先生です。それゆえ、前者を実の父、後者をすばらしい学びの場に作り上げた、育ての父と呼びたいと私は思います。日本の古い諺に『産みの親より育ての親』と言います。ですから、私は個人的に、ニュートン先生を一層敬愛し、大切に思うのです。」と、『学生会時報』第7号は伝えた。
上ケ原キャンパスの3院長(1940年?)-79歳?-
ベーツ第4代院長は、太平洋戦争勃発前の1940年に院長・学長を辞任し、"Keep this holy fire burning"という言葉を残してカナダに帰った。上ケ原キャンパスで撮影されたこの写真は、その少し前に撮られたものであろう。左端は、吉岡の女婿でベーツのあとを継いで第5代院長を務めた神崎驥一。
終戦後の1948年 2月26日、吉岡は「附添う夫人はじめ家人一人々々に別れの言葉をのべ、最後に、学院のために、と特に感謝の祈祷を捧げ」た後、85歳で息を引き取った。