No. 13
2001年6月11日
関西学院学院史編纂室
No.13 (2001.6.11)
『関西学院史紀要』第7号の刊行
『尹致昊(ユン・チホ)日記』の購入
1巻:1883年~1889年 3巻:1893年~1894年 5巻:1897年~1902年
2巻:1890年~1892年 4巻:1895年~1896年 6巻:1903年~1906年7月
『2001年神戸聖書展』『明治・大正神戸生まれの芸術家たち展』への出品
また、6月10日まで神戸市立小磯記念美術館で開催された『明治・大正神戸生まれの芸術家たち展』にも当室所蔵の神原浩作エッチング「六甲山」を出品しました。本学同窓の神原氏は、戦前中学部の美術教師を務め、多くの後輩を育てたことで知られています。
第5回『関学歴史サロン』の開催
- 日 時
- 6月28日(木)14:50~16:20
14:15より開場しますので講演開始まで音楽とお茶をお楽しみください - 場 所
- 西宮上ケ原キャンパス時計台2階
- 講 師
- 竹本 洋経済学部教授(1999年度日本学士院賞受賞)
- 演 題
- 「ノーマン家人々の生と挫折-『関西学院百年史』外伝-
カナダ合同教会宣教師として、アウターブリッヂ元院長と共に、戦後の神学部復興に貢献したハワード。文学部史学科助教授を務めたその妻グエン。外交官、歴史学者として活躍しながら、不幸にも赴任先カイロで投身自殺を遂げた弟ハーバート。父親として兄弟を育て、「長野のノーマンさん」と呼ばれるほど伝道地の人々に親しまれたカナダメソヂスト教会宣教師ダニエル。本学と関係の深かったノーマン家の人々にスポットを当て、本学の歴史を振り返ります。学内外問わず、どなたでもお気軽にご参加ください。
ベーツ第4代院長の手紙
(アルフレッド・ストーンの殉死)
~ベーツ元院長の手紙から明らかになったこと~
- 台風のため、北海道の海で溺死したアルフ[レッド]・ストーンの悲劇的なニュースを聞きましたか? 船が転覆し、1100名以上の人が亡くなりました。アルフの妻ジーンは、二人の息子、ボブ16歳、ドン18歳と共にこちらにいます。私たちの日本伝道グループの中には現在9名の未亡人がいます。(原文:英文手書き)
これは、ベーツ元院長が1954年9月30日付けで、当時イギリスに住んでいた娘ルルに宛てて書いた手紙の一部である。さらに続けて、10月21日付けの手紙には次のように書かれている。
- 彼[アルフ]は9月1日に北海道に移っており、26日は「合同委員会」の会議*のため東京に向かっていました。我がミッションの若いメンバーであるドナルド・オ-スと米国YMCAの男性[ディーン・リーパー]が彼と一緒にいました。3人の中で助かったオースは、波に引き寄せられ、船から投げ出されたようです。アルフの遺体は、翌日北海道の港で発見されました。リーパーの遺体については説明がありませんが、船の中で溺死したことは明らかです。我がミッションは、戦後殉教者を出し続けています。プライス、ボット、ストーン。戦前日本にいて、今もそこにいるのはアウターブリッヂ、マッケンジー、ノーマンの3人だけです。新しく数家族が日本に行っています。北海道には3家族がいます。
*正確には、27日に東京で行われる「キリスト教児童福祉協議会」と、翌28日に軽井沢で開かれる「内外協力会」会合に出席するため東京に向かうところだった。
1954年9月26日午後6時39分、出航予定時間を大幅に遅れて、カナダ合同教会宣教師アルフレッド・ストーンを乗せた青函連絡船「洞爺丸」は、台風を避けようとする船で一杯の函館港を出港した。しかし、防波堤燈台を通過する直前、瞬間最大風速40メートルを越える南南西の強風に危険を感じた船長は、港外に出ることを思いとどまる。午後7時1分、出航のわずか22分後、「洞爺丸」は再び錨をおろし停船した。それでも、激しさを増した波風は容赦なく「洞爺丸」に襲いかかった。機関室、ボイラー室にも土砂降りのように海水が降り注いだ。「洞爺丸」は次々に緊急事態を発信する。9時25分「エンジン、ダイナモ(発電機)止まりつつあり。突風55メートル」。10時7分「主エンジン不良となる」。10時12分「両エンジン不良のため漂流中」。航行不能となった「洞爺丸」は、ついに午後10時26分、函館湾七重浜沖に座礁した。
救命胴衣着用の放送が流れると、船内は一瞬にしてパニックになった。海水が音を立てて流れ込み、子供が泣き叫んだ。2等船室にいたストーンら3人の宣教師は乗客の中に割って入り、天井ロッカーから取り出した救命胴衣を配り始めた。そして、乗客達の恐怖を静めるため、日本語と英語で話しかけ、励ました。船が沈み出す直前、ストーンはまだ救命胴衣を着けていない男子学生を見つけ、自分の救命胴衣を譲り渡す。学生は返そうとしたが、もはやそうする暇もなかった。「君は若い。日本のために役立つ機会がいくらでもある。最善をつくせ」。ストーンはこう言って、大声で学生のために祈ったという(ストーンはリーパーと共に女性に救命胴衣を譲ったとの証言もある)。
翌朝、救命胴衣を着けていないストーンの遺体が発見された。函館鉄道病院医師の死亡診断書がカナダ合同教会資料室に保管されている。「死亡の時」は、「昭和29年9月 26日推定午後11時30分」、「死亡の原因」は、「溺死、災害死」となっている。
「洞爺丸」の犠牲者は、乗客1041名、乗組員73名、その他41名の合計1155名にものぼった。生存者はわずか159名で、当時、タイタニック号に次ぐ世界第2の大きな海難事故であった(数字は1957年4月国鉄本社確定数)。
事故の知らせはすぐにトロントのカナダ合同教会本部に伝えられた。当時の本学院長アウターブリッヂが打った電文が残されている。「北海道のフェリー遭難事故によりストーン行方不明の模様、オース無事」。続けてアウターブリッヂ院長は第2報を打電している。「ストーンの遺体発見の由」。
子供と共にトロントにいたストーンの妻ジーンは、ジャネット・コーツから夫の死を知らされる。そのジャネット自身も22年前、宣教師の夫ウォルター・ジョージを日本で突然の事故のため亡くしていた。生前のストーンは、その時のことを思い出しては、「私にはあのような立派な伝道、そしてあのような殉教はとても真似できません」と、涙ながらに語っていたという。
9月29日、函館教会でささやかな葬儀が行われ、遺体は火葬された。10月6日、富士見町教会で盛大に執り行われた本葬の後、遺骨は東京の青山墓地に埋葬された。それは妻ジーンの希望だった。カナダでもいくつかの追悼会が開かれた。
1年後の9月29日午後3時、トロントのジェームズ・ボンド合同教会で、追悼記念会が行われた。そこで、日本政府を代表してオタワから参列した日本大使により弔辞が述べられた。その追悼記念会で司式を務めたのは、ベーツ元院長であった。思い起こせば30年程前、関西学院院長を務めていた頃、日本について学びたいというストーンにカナダで会い、日本に行く準備の進め方や日本の事情について説明したことがあった。神学校卒業を控えたその頃のストーンは、中国への赴任を希望していたが、希望者の多い中国をあきらめ、志望を日本に変更することを検討していたのだった。同じように中国伝道を希望しながら日本赴任の辞令を受け、当初の志望地ではない日本で活躍していたベーツ元院長の言葉は、若き日のストーンに大きな影響を与えたことだろう。
ストーンの尊い死は多くの人々に感銘を与え、作家三浦綾子のデビュー作『氷点』にも描かれている。
(参考文献:新堀邦司『海のレクイエム-宣教師A.R.ストーンの生涯』、田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』、Howard Norman, One Hundred Years in Japan Part II、UCC資料他)
- Stone, Alfred Russell (1902-1954)
日本におけるその生涯は農村伝道に捧げられた。農村指導者養成センターの結成に尽力し、農村伝道神学校(鶴川学院)の初代の校長。日野台教会の設立者。1946年から日本のカナダ合同教会の主事兼財務を担当。戦後の超教派協力体制の発展に内外協力会及び協力協議会を通じて大きな役割を果たす。死後、勲五等双光旭日章を贈られる。函館から青森に向かうフェリー洞爺丸が台風に遭い、転覆した際、命を落とす。証言者によると、嵐の最中乗客を慰め、船が沈む直前自分のライフ・ジャケットを若者に与えたという。(『来日メソジスト宣教師事典1873-1993年』より)
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学院史編纂室所蔵の本学沿革史誌(年史、クラブ史、図録等)について
本学は、創立百周年を記念して、『関西学院百年史』(全4巻・索引)、『関西学院の100年』(図録)を刊行しましたが、それ以前にも、『四十年史』『五十年史』『七十年史』が刊行されています。その他、各学部により独自に編集された『学部史』や、卒業生、学生が作成した『部(クラブ)史』があり、当室でも収集に努めています。
現在、当室に登録されている本学沿革史誌としては、次のものがあります(紙面の都合上、すべてを掲載することができませんでした)。このような年史や図録を作成された場合は、ぜひ当室にもご寄贈ください。また、作成に際してお役に立てることもあるかと思いますので、資料をお探しの場合はお問い合わせください。
関西学院百年史 資料編I 資料編II 通史編I 通史編II
関西学院七十年史 関西学院六十年史 関西学院五十年史
開校四十年記念関西学院史 関西学院目で見る70年史
新月ここに-関西学院90年- 関西学院史、年表(1888-1929)
関西学院スポーツ史の研究 Fiftieth Anniversary Kwansei Gakuin
関西学院の100年-Centenary History-: I shall be constantly watching 1889-1989
関西学院の歴史 創立から終戦まで:KEEP THIS HOLY FIRE BURNING 1889-1945
The Diamond Jubilee 1889 to 1949: Sistieth Anniversary
関西学院健やかの歴史-心とからだの教育 その流れと近未来像-
関西学院70年のあゆみ-中学生のための関西学院史-
神学部略年表(神学研究代28号抜刷
神学研究第28号-学院創立90周年、大学開設40周年記念号-
神学研究第31号-神学部開設30周年記念号
文学部回顧 文学部創立回顧
関西学院高等商業学部二十年史 関西学院高等商業学部四十年史と想い出の記
関西学院大学文学部60年史 関西学院大学社会学部30年史
関西学院大学法学部50年史
関西学院大学経済学部五十年史 関西学院大学経済学部五十年史復刻版
関西学院大学理学部20年史
関西学院高中部百年史 関西学院高等部グリークラブ40年史
開華-60周年記念誌-
にじゅうねんのあゆみ-理岳会50周年記念-
あいばいす二十年-大川研究室二十年の歩み-
あいばいす三十年-大川乾次教授の御退職を記念して-
関西学院大学吉林大学交流10周年記念誌
関西学院百年史 資料編I 資料編II 通史編I 通史編II
関西学院七十年史 関西学院六十年史 関西学院五十年史
開校四十年記念関西学院史 関西学院目で見る70年史
新月ここに-関西学院90年- 関西学院史、年表(1888-1929)
関西学院スポーツ史の研究 Fiftieth Anniversary Kwansei Gakuin
関西学院の100年-Centenary History-: I shall be constantlywatching 1889-1989
関西学院の歴史 創立から終戦まで:KEEP THIS HOLY FIRE BURNING 1889-1945
The Diamond Jubilee 1889 to 1949: Sistieth Anniversary
関西学院健やかの歴史-心とからだの教育 その流れと近未来像-
関西学院70年のあゆみ-中学生のための関西学院史-
神学部略年表(神学研究代28号抜刷)
神学研究第28号-学院創立90周年、大学開設40周年記念号-
神学研究第31号-神学部開設30周年記念号
文学部回顧 文学部創立回顧
関西学院高等商業学部二十年史 関西学院高等商業学部四十年史と想い出の記
関西学院大学文学部60年史 関西学院大学社会学部30年史
関西学院大学法学部50年史
関西学院大学経済学部五十年史 関西学院大学経済学部五十年史復刻版
関西学院大学理学部20年史
関西学院高中部百年史 関西学院高等部グリークラブ40年史
開華-60周年記念誌-
にじゅうねんのあゆみ-理岳会50周年記念-
あいばいす二十年-大川研究室二十年の歩み-
あいばいす三十年-大川乾次教授の御退職を記念して-
関西学院大学吉林大学交流10周年記念誌
関学茶道
創刊70周年記念記事と写真で綴る70年
みちしるべ-総部50周年記念誌
関西学院劇研究会10年史 関西学院新聞部40年
関西学院大学柔道部八十年史 関西学院大学剣道部七十五年誌
早関軟式庭球定期戦50回記念誌 関西学院大学軟式野球部50周年史
関西学院大学ラグビー部50年史
関西学院大学陸上部七十年史 関西学院大学陸上競技部80周年記念誌
関西学院大学蹴球五十年史 関西学院大学サッカー部七十年史
関西学院大学卓球物語(第1部、第2部)
関西学院庭球部70年史 関西学院大学ヨット部50周年記念誌
関西学院大学英語研究部(ESS)100年史
関西学院グリークラブ部史1940年 関西学院グリークラブ八十年史
関西学院大学応援団総部の50年
国際問題研究部30年史上巻
空の翼-K.G.ローバーのあゆみ-1975-1980
ポプラは羽ばたく-創刊65周年記念文集-
関学フットボール戦績と名簿-総部三十周年記念誌-
Fight on Kwansei-関西学院大学アメリカンフットボール部50年史-
白球に書けた青春譜-関西学院大学バレーボール部50周年記念-
CRESCENT 60-関西学院大学体育会バスケットボール部60年史
関西学院大学軟式庭球部誌-体育会編入三十周年記念誌-
SHINGETSUKAI the 50th Anniversary
関西学院大学マンドリンクラブ50年史
関西学院大学ユネスコ研究部20周年記念誌
長島の道-関西学院大学長島ワーク・キャンプ20年の歩み-
会員名簿(同窓会小史)-学院創立90周年記念版- 他