吉岡美國ゆかりの品々
吉岡美國肖像画 /フォースター画 1927年油彩
肖像画の除幕式にあたり、吉岡はこう語った。「この肖像が存在する限りこれを見たならあそこに短所おゝここに欠点があったなどいふことが却って諸君の改良進歩に資することができると思ふ。感ずる所信ずる所あるも消極的に云へば欠点を再び繰り返さないでよりよき生のために見て下さってこそ私はうれしい」。
ベーツ第4代院長の依頼を受け、肖像画を描いたフォースターは、学生が学院に寄附するものと聞き、1200円の謝礼から200円しか受け取らなかった。残額は「吉岡スカラシップ・ファンド」とされたのである。
生涯の標語「敬神愛人」
吉岡は、「敬神愛人」という言葉を好んで揮毫した。「敬神愛人」は、「公明正大」と共に旧制中学部の標語であったが、吉岡自身が生涯の標語とした言葉でもあった。
この写真は、中学部本館玄関に今も掲げられている「敬神愛人」の書で、その揮毫年は不詳とされている。現在確認できる最も古い「敬神愛人」は、吉岡夫妻の銀婚式の記念品に書かれたものである(1913年)。
書を良くした吉岡は、この他にも「敬天愛人」「飢渇慕義」「信望愛」「信能勝世」等の書を残している。それらの書には、全てではないが「甲東」という号が用いられ、「甲東」と「吉岡美國」または「甲東」と「吉岡氏」の落款が押されている。
英文タイプライター
吉岡院長愛用のタイプライターは、ニューヨークのフランク・ランバートによって開発されたもので、一体型のキーボードに特徴がある。1902年に最初のモデルが発売されたが、展示品は改良が加えられた3型であると思われる。タイプライターが非常に高価であった時代に、数少ない部品から作ることのできたランバート型は価格面で需要があったのではないだろうか。
吉岡が、どこでこのタイプライターを手に入れたかは不明であるが、海外で入手したとすれば、1914年の欧米訪問時であった可能性が高い。スペイン語のラベルが貼付されている点も興味深い。
拡大鏡
「おぢい様は読書をなさることが一番お好きであった様です。・・・晩年には目がずっと悪くなられたために読むのに、大きな虫めがねで一字一字をひろい読みしていらしたものです。毎日朝食後に英字新聞を虫めがねで見ながら、流暢な発音で読んでいらした事も、おぢい様の英語と共に強く印象に残って居ます」
(岡田陽子、庄ノ敬子)
日本メソヂスト神戸中央教会創立五十年記念新約聖書
『我らの主なる救い主イエス・キリストの新約聖書改訳』第4版、英国聖書協会、1935年。
1936年3月22日、日本メソヂスト神戸中央教会(現、神戸栄光教会)の創立五十周年記念式典が行われ、吉岡は前任教職として記念品贈呈を受けた。
置時計:勤続20年以上表彰記念品
原田の森キャンパスの拡充計画がほぼ完成した1924年10月16日、関西学院の創立35周年記念式典が行われた。普通学部を卒業した永井柳太郎の講演に続き、文部大臣、兵庫県知事、神戸市長等からの祝辞があり、盛会を極めた。
この置時計は、この記念式典で、勤続20年以上の教職員(吉岡美國、松本益吉、へーデン、村上博輔、マシュース、真鍋由郎)に贈呈されたものである(写真は真鍋名誉中学部長のご遺族からご寄贈いただいたもの)。
自修寮のオルガン
原田の森キャンパス(現、神戸市灘区王子町)にあった自修寮(普通学部生のための寮)で使われていたオルガン。蓋には「愛校狂」(自修寮舎監中村賢二郎)による文章が刻まれており、生徒たちの力で購入されたオルガンであることがわかる。
関西学院草創期に普通学部で吉岡の薫陶を受けた中村は、両親の勧める結婚話にも耳を貸さず、「自修寮は我が妻である」と言い放ち、5年間にわたって舎監を務め、寮生と寝食を共にした。
関西学院名誉院長吉岡美國銅像 1928年大熊氏廣作
吉岡の胸像は、西宮上ケ原キャンパス時計台の1階に、創立者ランバス像と向かい合わせに置かれている。両者を比較すると、ランバス像の眼差しが真っ直ぐ、あるいはやや上方に向けられているのに対し、吉岡像は、静かに下方に注がれていることがわかる。それは、愛する生徒たちへの慈愛に満ちた視線で、教育者吉岡の人格を映し出したものと考えられる(詳細は、永田雄次郎「大熊氏廣『関西学院監督ランバス銅像』および『関西学院名誉院長吉岡美國銅像』について」『関西学院史紀要』第11号・学院史編纂室発行)。
日露戦争戦捷(センショウ)記念碑(1909年)-47歳-
日露戦争終結から4年後の3月10日、原田の森キャンパスに日露戦争戦捷記念碑が建立された。関西学院関係者(在学生、教職員、卒業生、中途退学者、退職教職員を含む)総数が200名にも満たなかった時代、日露戦争に出征した関学関係者は13名もいた。
この記念碑は、キャンパスの移転に伴い上ケ原に移された。現在、高中部礼拝堂の東側の道に面して置かれている扇形の石(日露戦争出征者と記念碑建立寄付者の名が刻まれている)がその一部である。
神学館定礎式(1911年)-50歳-
カナダ・メソヂスト教会が関西学院の経営に参加することになり、校舎整備計画が立案された。そこで、3年前に専門学校として認可された神学部の校舎が建てられることになった。これが、関西学院におけるヴォーリズ建築の最初である。定礎式に集まった人々の中心にいたるのが吉岡。中央の星条旗の左側にある日の丸の下には若き日のベーツの横顔も見える。
完成した神学館の玄関に掲げられたのは、神学部の創立以来のモットー「真理将使爾自主」の額であった。
欧米訪問(1914年)-52歳-
4月初旬、吉岡は、日本メソヂスト教会の代表として、南メソヂスト監督教会総会に出席するため渡米した。オクラホマでの総会の後、各地の教育事情を視察しながら懐かしいヴァンダビルト大学を訪問し、アメリカに留学中の教え子たちと再会した。これは同大学のウエスレーホール入り口で撮影された写真である。
北米訪問後は、大西洋を横断し、スコットランドのグラスゴーに向かった。英国で、第一次大戦勃発直前の不穏な動きを察知した吉岡は、パリ訪問を諦め、ベルリンに向かったが、シベリア鉄道経由の帰国が不可能となったため、ロンドンに戻り、大戦勃発後最初の帰国船に乗った。 9月28日、関西学院の教師・生徒が振帽拍手万歳で迎える中、吉岡は無事神戸港に到着した。
創立者ランバスを原田の森に迎えて(1919年)-57歳-
10月30日、関西学院を訪問したランバスは、朝9時よりチャペルで講話した。午後3時からは学生会館で歓迎会が開かれ、ランバスは、フランスやドイツやロシアの情勢について語った。この2カ月前には、神戸中央教会(現、神戸栄光教会)で説教に立ち、神戸で亡くなった父親の墓を大切に守ってくれている教会員に感謝の言葉を述べている。
これは、原田の森キャンパスで、初代院長ランバス(中央)、第2代吉岡(左)、第3代ニュートン(右)が顔を合わせた珍しい写真である。
創立者ランバスの父の墓前(1921年)-59歳-
日本訪問中に発病した関西学院の創立者ランバスは、 9月26日、横浜で亡くなった。臨終の際、"I shall be constantly watching"という言葉を残した。
10月 3日、悲しみに沈む関西学院でランバスの告別式が挙行された。4日後、吉岡の胸に抱かれたランバスの遺骨は、小野浜墓地(現、神戸市立外国人墓地)に眠る父親に別れを告げた。さらに、吉岡、ニュートン、タウソンの3人は、遺骨と共に上海に渡り、中国で伝道活動を続けていたランバスの妹夫婦に再会した。
ニュートン第3代院長の帰国(1923年)-61歳-
5月15日、40年におよぶ日本滞在を終えた第3代院長ニュートン夫妻が故国アメリカに帰国した。吉岡にとっては、創立後わずか1年数カ月で日本を去ったランバスに代わって、助け合い、苦労を共にして来た大切な仲間との別れであった。吉岡は横浜港までニュートン夫妻に同行し、別れを惜しんだ。
神戸港での見送りには2千人が集まった(当時の関西学院教職員、学生、卒業生総数3千5百名)。「周知の通り、本学は故ランバス監督によって創立されました。しかし、それを今日の姿にしたのはニュートン先生です。それゆえ、前者を実の父、後者をすばらしい学びの場に作り上げた、育ての父と呼びたいと私は思います。日本の古い諺に『産みの親より育ての親』と言います。ですから、私は個人的に、ニュートン先生を一層敬愛し、大切に思うのです。」と、『学生会時報』第7号は伝えた。
上ケ原キャンパスの3院長(1940年?)-79歳?-
ベーツ第4代院長は、太平洋戦争勃発前の1940年に院長・学長を辞任し、"Keep this holy fire burning"という言葉を残してカナダに帰った。上ケ原キャンパスで撮影されたこの写真は、その少し前に撮られたものであろう。左端は、吉岡の女婿でベーツのあとを継いで第5代院長を務めた神崎驥一。
終戦後の1948年 2月26日、吉岡は「附添う夫人はじめ家人一人々々に別れの言葉をのべ、最後に、学院のために、と特に感謝の祈祷を捧げ」た後、85歳で息を引き取った。