[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
神学部
【沿革】
神学部の歴史は、世界精神史においては、1世紀にイエス・キリストが弟子たちを召し、宣教の使命を与えた時に由来し、キリスト教史においては、J.ウエスレーの信仰と思想を受け継ぐ伝統の流れに属し、日本教育史においては、1889年9月、神戸の地で関西学院の設立とともに始まり、関西学院の歴史においては、その最初期から現在に至るまで建学の精神を具体化する歩みである。
神学部の使命、神と人に仕える伝道者養成はイエスから託されたものであると同時に、関西学院創立の目的でもある。
ウエスレーは、聖書と伝道と教育と社会奉仕を重んじたが、これは関西学院の建学の精神とスクール・モットーに取り入れられており、特に神学部はいつの時代もその実現のために努力を続けてきた。
学院創立の1年前、すなわち1888年に、アメリカ・南メソヂスト監督教会は北メソヂストとカナダ・メソヂスト教会が合同で経営していた東京のフィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校にJ.C.C.ニュートンを教授として、また諸教会から将来の伝道師として7名の学生を派遣した。
翌年、関西学院が創立されると、ニュートンは神学部長および教授に就任し、学生たちも神学部に入学した。
初代の神学部長ニュートンをはじめ、初代院長W.R.ランバスを含む3名の教授陣はいずれも南メソヂスト監督教会の宣教師であり、神学部には正規の学生が5名、予備学生が数名いた。
当初は修業年限3年の英語科のみであったが、1891年に邦語神学科が併設されている。
同年6月には英語神学科の最初の卒業生3名が卒業しているが、その中の一人に後の日本メソヂスト教会第3代監督となる鵜崎庚午郎がいた。
96年に信徒伝道者養成のために神学簡易科が開設されている。
草創期には学科の改変が続き、1904年に本科と伝道科に改組されたのをはじめ、4年後には本科、専攻科、別科と分けられた。
1908年に文部省の専門学校令により私立関西学院神学校が認可され、さらに2年後、カナダ・メソヂスト教会が学院の経営および教育に共同参与してから、神学部は新たな発展段階を迎えた。
専門学校令による認可によって神学部は日本の社会に市民権を得、後者によって神学部の施設面、および教育・研究面が飛躍的に充実、展開した。
施設面の充実としては、12年に念願であった専用校舎、神学館が完成し、寄宿舎成全寮が落成したことが挙げられる。
教育・研究面の展開としては、13年に通信教授部が開設され、伝道者・信徒のための巡回文庫が設置され、また14年に青山学院神学部と共同で『神学評論』(1941休刊)を創刊し、15年には関西学院教会が設立、さらに18年には日本メソヂスト教会委託によるハミル日曜学校教師養成所が開設されたことが挙げられる。
この時期活躍した学生には、神学界に貢献した蘆田慶治、日本メソヂスト教会第5代監督となった釘宮辰生などがあげられる。
また学生の動向として、1918年に神学部学生会誕生を契機に全国各地へ伝道旅行を実施し、また高野山大学との交換講演会や夏季学校なども開催された。
16年に視覚障がい者が、25年には女性が初めて卒業(12名中1名)しているのは注目すべきことである。
関西学院は29年に上ケ原に移転するが、33年に専門部神学部となり、予科2年、本科3年、専攻科1年と制度を改めた(教師数23名、学生数63名、朝鮮人数名を含む)。
その後、第2次世界大戦時には、神学部も厳しい試練の時を迎えることになる。
41年に日本基督教団が成立し、戦時体制における教師養成機関の再編が打ち出され、43年5月をもって神学部が閉鎖され、同じ場所に日本西部神学校が開校された。
さらに44年3月、日本基督教神学専門学校に統合されるため閉鎖され、関西学院における神学部の歴史は一時中断を余儀なくされた。
戦後、1948年新制大学において神学部は文学部の神学科として復活し、52年には神学部として独立すると同時に、大学院修士課程神学研究科聖書神学専攻が設置された。
博士課程は54年に設置された。
神学部開設直後の学生数は、学部44名、うち女性7名、大学院生4名、うち女性1名であった。
なお同時に、戦時中の41年に諸教派が余儀なく合併されて成立した日本基督教団から教団の教師養成のための認可神学校としての要請を受けた結果、メソヂスト教会によって創立された神学部が日本の合同教会に参加することになる。
大学の神学部として再出発した神学部は、教会との関係に変化はあったものの、学院内外における本来の使命は堅持し、伝道者養成のため新たに出発し、教師陣を充実させ、行き届いたカリキュラムに基づき、神学の研究と教育に励む。
1953年には学術誌『神学研究』を創刊し、また自由になった外国との学問的交流を盛んにし、同時に国内の他大学神学部との教師・学生間の交流も親密にしていった。
神学部の歴史は、世界精神史においては、1世紀にイエス・キリストが弟子たちを召し、宣教の使命を与えた時に由来し、キリスト教史においては、J.ウエスレーの信仰と思想を受け継ぐ伝統の流れに属し、日本教育史においては、1889年9月、神戸の地で関西学院の設立とともに始まり、関西学院の歴史においては、その最初期から現在に至るまで建学の精神を具体化する歩みである。
神学部の使命、神と人に仕える伝道者養成はイエスから託されたものであると同時に、関西学院創立の目的でもある。
ウエスレーは、聖書と伝道と教育と社会奉仕を重んじたが、これは関西学院の建学の精神とスクール・モットーに取り入れられており、特に神学部はいつの時代もその実現のために努力を続けてきた。
学院創立の1年前、すなわち1888年に、アメリカ・南メソヂスト監督教会は北メソヂストとカナダ・メソヂスト教会が合同で経営していた東京のフィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校にJ.C.C.ニュートンを教授として、また諸教会から将来の伝道師として7名の学生を派遣した。
翌年、関西学院が創立されると、ニュートンは神学部長および教授に就任し、学生たちも神学部に入学した。
初代の神学部長ニュートンをはじめ、初代院長W.R.ランバスを含む3名の教授陣はいずれも南メソヂスト監督教会の宣教師であり、神学部には正規の学生が5名、予備学生が数名いた。
当初は修業年限3年の英語科のみであったが、1891年に邦語神学科が併設されている。
同年6月には英語神学科の最初の卒業生3名が卒業しているが、その中の一人に後の日本メソヂスト教会第3代監督となる鵜崎庚午郎がいた。
96年に信徒伝道者養成のために神学簡易科が開設されている。
草創期には学科の改変が続き、1904年に本科と伝道科に改組されたのをはじめ、4年後には本科、専攻科、別科と分けられた。
1908年に文部省の専門学校令により私立関西学院神学校が認可され、さらに2年後、カナダ・メソヂスト教会が学院の経営および教育に共同参与してから、神学部は新たな発展段階を迎えた。
専門学校令による認可によって神学部は日本の社会に市民権を得、後者によって神学部の施設面、および教育・研究面が飛躍的に充実、展開した。
施設面の充実としては、12年に念願であった専用校舎、神学館が完成し、寄宿舎成全寮が落成したことが挙げられる。
教育・研究面の展開としては、13年に通信教授部が開設され、伝道者・信徒のための巡回文庫が設置され、また14年に青山学院神学部と共同で『神学評論』(1941休刊)を創刊し、15年には関西学院教会が設立、さらに18年には日本メソヂスト教会委託によるハミル日曜学校教師養成所が開設されたことが挙げられる。
この時期活躍した学生には、神学界に貢献した蘆田慶治、日本メソヂスト教会第5代監督となった釘宮辰生などがあげられる。
また学生の動向として、1918年に神学部学生会誕生を契機に全国各地へ伝道旅行を実施し、また高野山大学との交換講演会や夏季学校なども開催された。
16年に視覚障がい者が、25年には女性が初めて卒業(12名中1名)しているのは注目すべきことである。
関西学院は29年に上ケ原に移転するが、33年に専門部神学部となり、予科2年、本科3年、専攻科1年と制度を改めた(教師数23名、学生数63名、朝鮮人数名を含む)。
その後、第2次世界大戦時には、神学部も厳しい試練の時を迎えることになる。
41年に日本基督教団が成立し、戦時体制における教師養成機関の再編が打ち出され、43年5月をもって神学部が閉鎖され、同じ場所に日本西部神学校が開校された。
さらに44年3月、日本基督教神学専門学校に統合されるため閉鎖され、関西学院における神学部の歴史は一時中断を余儀なくされた。
戦後、1948年新制大学において神学部は文学部の神学科として復活し、52年には神学部として独立すると同時に、大学院修士課程神学研究科聖書神学専攻が設置された。
博士課程は54年に設置された。
神学部開設直後の学生数は、学部44名、うち女性7名、大学院生4名、うち女性1名であった。
なお同時に、戦時中の41年に諸教派が余儀なく合併されて成立した日本基督教団から教団の教師養成のための認可神学校としての要請を受けた結果、メソヂスト教会によって創立された神学部が日本の合同教会に参加することになる。
大学の神学部として再出発した神学部は、教会との関係に変化はあったものの、学院内外における本来の使命は堅持し、伝道者養成のため新たに出発し、教師陣を充実させ、行き届いたカリキュラムに基づき、神学の研究と教育に励む。
1953年には学術誌『神学研究』を創刊し、また自由になった外国との学問的交流を盛んにし、同時に国内の他大学神学部との教師・学生間の交流も親密にしていった。
関西学院大学で1967年末ごろから始まった大学紛争は、69年神学部にも波及し、1月28日学部が閉鎖されたため、学部は入試を中学部校舎で、新入生オリエンテーションを東梅田教会で行い、学生は成全会主催の自主セミナーを中山寺で開いた。
神学部学生会と教授会との間に交渉と対立がほぼ1年間続き、また学内で紛争を巡り、いろいろな立場からの活動が活発になる。
75年に再び紛争が起こり、2月17日から3月13日まで神学部も閉鎖された。
これらの経験をふまえ、神学部は学生たちの教会派遣制度の見直しなど、いくつかの改革を行った。
教授会と卒業生とが「教職セミナー」を再開し、さらに「教会と神学部の集い」を新たに始め、ともに共通の目的である宣教と奉仕の業のために学び、話し合い、協力し合う体制を作り上げ、神学部の歴史に新たな展開をもたらした。
また後援会活動も活発になり、将来伝道者を志す神学生への奨学金制度が充実した。
神学部大学院研究科は1952年以来、専攻は聖書神学一つであり、そこに特色を有していたが、教会と社会の要求と学問の多様化に応じて、97年4月、専攻名を神学専攻と改め、研究領域を拡大した。
それに対応して、聖書神学だけでなく、歴史神学、組織神学、実践神学なども専攻できるようにカリキュラムを新たに編成しなおし、教育・研究体制を整えた。
さらに、新制大学神学部開設50周年に当たる2002年には、それまでの神学教育の歩みを検証しつつ、今後の神学教育の在り方を展望し、多彩な記念事業を実施した。
そして04年度より、神学部将来構想「充実と新たな展開」に基づき、新カリキュラムによるコース制(「キリスト教神学・伝道者コース」「キリスト教思想・文化コース」)の実施、複数分野専攻制(MS)プログラム提供、神学部奨学金制度の改変など諸改革を推進し、充実と新たな展開に一歩を踏み出した。
また06年には、吉岡記念館が竣工し、神学部校舎から神学部長室、教務学生主任室、事務室が移転し、さらに国際交流関係では、学部間交流協定として、スイスのベルン大学神学部(1996)および韓国の監理教神学大学(2005)と締結した。
2008年には、それまでの改革を検証・評価する中で第2次将来構想の答申をまとめた。
その内容は、伝道者養成―実践教育・フィールドワークの充実、学部における教育体系の再構築、大学院の充実、国際交流、キリスト教主義教育への貢献の課題の明確化であり、それ以降それらの課題の実現に向けて教育・研究等の諸活動を推進してきた。
【現状】
神学部は専任教員13名、学生数は学部1学年定員30名、全体で140名、大学院前期課程定員10名、在籍者総数20名、後期課程定員2名、学生数5名である(2014年5月1日現在)。
卒業生は国の内外で、また社会の多方面で活躍しているが、特に教会関係(日本基督教団以外の教派の教会も含む)、学校関係、社会福祉関係、病院関係なども多く、毎年、伝道者として生涯を神に捧げ、人々に愛をもって仕えるために巣立っており、この伝統は途切れることなく続いている。
学会関係では、独自に神学研究会(毎月の定例研究会と毎年学会誌『神学研究』を発行、現在第60号)を主催しているほか、これまで日本基督教学会の本部事務局を置いたり、日本宗教学会、キリスト教史学会、日本新約学会、中世哲学会、宗教倫理学会、日本宣教学会、実践神学の会など、多くの全国的な学会に関わり、研究活動に参加すると同時に、しばしば事務局や学会開催または世話役を引き受けている。
また、今日における神学、教会、宣教の課題を多様な視点から共に考えることをテーマとして神学セミナーの講演を収録し、『関西学院大学神学部ブックレット』(キリスト新聞社)を、シリーズとして刊行してきた。
関西学院神学部は現在メソジストの伝統をくむ総合大学の中で、神学部としては唯一であり、その存在は極めて貴重である。
学院の内外で、キリスト教精神を教育と研究と奉仕に生かしていくための人材を信仰的、人間的、学問的に育成していこうとする、その働きと使命はますます重要性を増している。
【参照】Ⅰ 143,569;Ⅱ 118,320【文献】『神学部の歩み1969年』1970;『神学部略年表』『神学研究』(28)1980;『神学研究』(31,37)1983,1990;『新制大学関西学院大学神学部五十年史(資料編)』2003
神学部学生会と教授会との間に交渉と対立がほぼ1年間続き、また学内で紛争を巡り、いろいろな立場からの活動が活発になる。
75年に再び紛争が起こり、2月17日から3月13日まで神学部も閉鎖された。
これらの経験をふまえ、神学部は学生たちの教会派遣制度の見直しなど、いくつかの改革を行った。
教授会と卒業生とが「教職セミナー」を再開し、さらに「教会と神学部の集い」を新たに始め、ともに共通の目的である宣教と奉仕の業のために学び、話し合い、協力し合う体制を作り上げ、神学部の歴史に新たな展開をもたらした。
また後援会活動も活発になり、将来伝道者を志す神学生への奨学金制度が充実した。
神学部大学院研究科は1952年以来、専攻は聖書神学一つであり、そこに特色を有していたが、教会と社会の要求と学問の多様化に応じて、97年4月、専攻名を神学専攻と改め、研究領域を拡大した。
それに対応して、聖書神学だけでなく、歴史神学、組織神学、実践神学なども専攻できるようにカリキュラムを新たに編成しなおし、教育・研究体制を整えた。
さらに、新制大学神学部開設50周年に当たる2002年には、それまでの神学教育の歩みを検証しつつ、今後の神学教育の在り方を展望し、多彩な記念事業を実施した。
そして04年度より、神学部将来構想「充実と新たな展開」に基づき、新カリキュラムによるコース制(「キリスト教神学・伝道者コース」「キリスト教思想・文化コース」)の実施、複数分野専攻制(MS)プログラム提供、神学部奨学金制度の改変など諸改革を推進し、充実と新たな展開に一歩を踏み出した。
また06年には、吉岡記念館が竣工し、神学部校舎から神学部長室、教務学生主任室、事務室が移転し、さらに国際交流関係では、学部間交流協定として、スイスのベルン大学神学部(1996)および韓国の監理教神学大学(2005)と締結した。
2008年には、それまでの改革を検証・評価する中で第2次将来構想の答申をまとめた。
その内容は、伝道者養成―実践教育・フィールドワークの充実、学部における教育体系の再構築、大学院の充実、国際交流、キリスト教主義教育への貢献の課題の明確化であり、それ以降それらの課題の実現に向けて教育・研究等の諸活動を推進してきた。
【現状】
神学部は専任教員13名、学生数は学部1学年定員30名、全体で140名、大学院前期課程定員10名、在籍者総数20名、後期課程定員2名、学生数5名である(2014年5月1日現在)。
卒業生は国の内外で、また社会の多方面で活躍しているが、特に教会関係(日本基督教団以外の教派の教会も含む)、学校関係、社会福祉関係、病院関係なども多く、毎年、伝道者として生涯を神に捧げ、人々に愛をもって仕えるために巣立っており、この伝統は途切れることなく続いている。
学会関係では、独自に神学研究会(毎月の定例研究会と毎年学会誌『神学研究』を発行、現在第60号)を主催しているほか、これまで日本基督教学会の本部事務局を置いたり、日本宗教学会、キリスト教史学会、日本新約学会、中世哲学会、宗教倫理学会、日本宣教学会、実践神学の会など、多くの全国的な学会に関わり、研究活動に参加すると同時に、しばしば事務局や学会開催または世話役を引き受けている。
また、今日における神学、教会、宣教の課題を多様な視点から共に考えることをテーマとして神学セミナーの講演を収録し、『関西学院大学神学部ブックレット』(キリスト新聞社)を、シリーズとして刊行してきた。
関西学院神学部は現在メソジストの伝統をくむ総合大学の中で、神学部としては唯一であり、その存在は極めて貴重である。
学院の内外で、キリスト教精神を教育と研究と奉仕に生かしていくための人材を信仰的、人間的、学問的に育成していこうとする、その働きと使命はますます重要性を増している。
【参照】Ⅰ 143,569;Ⅱ 118,320【文献】『神学部の歩み1969年』1970;『神学部略年表』『神学研究』(28)1980;『神学研究』(31,37)1983,1990;『新制大学関西学院大学神学部五十年史(資料編)』2003