[ 編集者:学院史編纂室 2019年12月3日 更新 ]
将棋部
「将棋を楽しみたい」という一念で同好会からスタートした。
1955年ごろ、林康男や木津圭市らの尽力により将棋部として正式に創部を果たした。
関西学生将棋連盟に所属し、62年春季に初めて部長の田中武彦や高山同を中心にA級団体戦優勝を成し遂げた。
東西優勝戦では中央大学と対戦し惜敗した。
また、田中は戦績優秀で62年秋にプロ対抗戦に出場し、土井春左右3段と対局した。
74年秋に増井高一、喜田勝、池田昌幸らが中心となり2度目のA級団体優勝、全国大会に進み、3位となった。同時期、増井は個人戦(学生十傑戦)でも全国3位となった。
さらに池田は76年に関西学生名人となった。
このことは部員に大きな希望を与え、平野真三、村上太志もこれに続いた。
97年春季・秋季、98年春季と3季連続でA級残留を果たした。
A級連続2期以上の残留は二十数年ぶりの快挙であった。
この間、個人戦でも優秀な成績が続き、97年秋季には湯川豪が4位、98年秋季には村上大樹が3位になり、全国大会にも出場した。
1955年ごろ、林康男や木津圭市らの尽力により将棋部として正式に創部を果たした。
関西学生将棋連盟に所属し、62年春季に初めて部長の田中武彦や高山同を中心にA級団体戦優勝を成し遂げた。
東西優勝戦では中央大学と対戦し惜敗した。
また、田中は戦績優秀で62年秋にプロ対抗戦に出場し、土井春左右3段と対局した。
74年秋に増井高一、喜田勝、池田昌幸らが中心となり2度目のA級団体優勝、全国大会に進み、3位となった。同時期、増井は個人戦(学生十傑戦)でも全国3位となった。
さらに池田は76年に関西学生名人となった。
このことは部員に大きな希望を与え、平野真三、村上太志もこれに続いた。
97年春季・秋季、98年春季と3季連続でA級残留を果たした。
A級連続2期以上の残留は二十数年ぶりの快挙であった。
この間、個人戦でも優秀な成績が続き、97年秋季には湯川豪が4位、98年秋季には村上大樹が3位になり、全国大会にも出場した。