[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
相撲部
相撲は日本の国技であり、関西学院創立の翌年1890年ごろには学院内でもすぐに有志が集まり、相撲部が創部されていたようである。
原田の森キャンパスのグラウンド近くに土俵があったことが1914年の土俵開きの写真から確認される。
その後、17年に運動部に正式に加入した。
19年に始まった全国相撲選手権大会では団体優勝5回(31、41、46、50、51年)、個人優勝(学生横綱)6回(井口義明 40、41年の2回、中村富次 46年、有光一 48、50、51年の3回)という輝かしい戦績を今日まで残している。
また、25年に始まった西日本学生相撲選手権大会では、団体優勝 21回、個人優勝22回を誇る。
その強さは、1936年「大阪毎日新聞」の第4回関西選抜八校相撲大会記事、「大会創始以来連続覇権を独占する関学が依然名を為すか、各校の宿望『打倒関学』が成るか」などに明らかであろう。
翌年、学生相撲のハワイ遠征のメンバー「木村君は関西一と謳わるゝ角技練達の選士」(1937年「日布時事」)とは、後年の関西学院同窓会長として活躍した木村正春であった。
さらに、戦前、部の発展に情熱を傾け、部員に心より慕われた北野大吉教授(顧問)の名を忘れることもできない。
1960年代の大学紛争の頃より相撲部はしばらくの低迷期を迎えるが、やがて高校での相撲経験者が多く入学することによって、次第に往時の勢いを取り戻してきている。
75年より始まった全国個人体重別選手権大会では、2005年10月に75kg未満級で初めて田中正幸が優勝(当時田中はレスリング部員)、11年9月には宇良和輝が65kg未満級で優勝、12年9月には渋谷暢秀が75kg未満級で優勝する。
近年、相撲のグローバル化に伴って、13年10月、第2回世界コンバットゲームス(於・ロシア、サンクトペテルブルク市)で宇良和輝が相撲・軽量級で金メダリストとなり、相撲部初の世界チャンピオンを輩出した。
【文献】『学生相撲百年の歩み』西日本学生相撲連盟,1982;『関西学院相撲部百年史』1990
原田の森キャンパスのグラウンド近くに土俵があったことが1914年の土俵開きの写真から確認される。
その後、17年に運動部に正式に加入した。
19年に始まった全国相撲選手権大会では団体優勝5回(31、41、46、50、51年)、個人優勝(学生横綱)6回(井口義明 40、41年の2回、中村富次 46年、有光一 48、50、51年の3回)という輝かしい戦績を今日まで残している。
また、25年に始まった西日本学生相撲選手権大会では、団体優勝 21回、個人優勝22回を誇る。
その強さは、1936年「大阪毎日新聞」の第4回関西選抜八校相撲大会記事、「大会創始以来連続覇権を独占する関学が依然名を為すか、各校の宿望『打倒関学』が成るか」などに明らかであろう。
翌年、学生相撲のハワイ遠征のメンバー「木村君は関西一と謳わるゝ角技練達の選士」(1937年「日布時事」)とは、後年の関西学院同窓会長として活躍した木村正春であった。
さらに、戦前、部の発展に情熱を傾け、部員に心より慕われた北野大吉教授(顧問)の名を忘れることもできない。
1960年代の大学紛争の頃より相撲部はしばらくの低迷期を迎えるが、やがて高校での相撲経験者が多く入学することによって、次第に往時の勢いを取り戻してきている。
75年より始まった全国個人体重別選手権大会では、2005年10月に75kg未満級で初めて田中正幸が優勝(当時田中はレスリング部員)、11年9月には宇良和輝が65kg未満級で優勝、12年9月には渋谷暢秀が75kg未満級で優勝する。
近年、相撲のグローバル化に伴って、13年10月、第2回世界コンバットゲームス(於・ロシア、サンクトペテルブルク市)で宇良和輝が相撲・軽量級で金メダリストとなり、相撲部初の世界チャンピオンを輩出した。
【文献】『学生相撲百年の歩み』西日本学生相撲連盟,1982;『関西学院相撲部百年史』1990