[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
全学共用棟
全学共用棟は、上ケ原キャンパスの新グラウンド(現、第2フィールド)に移設された陸上競技グラウンドの跡地に建設された理学部校舎で、2001年夏の理学部の神戸三田キャンパスへの移転に伴い、2001年10月から02年3月にかけて本館が大改修され、同年8月、名称を改め再利用されたものである。
理学部校舎は、先行して建設された学生会館や社会学部と同様のモダニズム様式に沿ったデザインで、大学の学部校舎としては初めての市道南側の建物であった。
当初は本館と実験棟の2棟のみで、理学研究科修士課程設置時に本館4階部分を増築し、博士課程設置に際して別館が新たに建設された。
さらに、研究設備の整備、学生・教員の増加、学生実験の質的向上など学部の内部充実に伴い、既存施設では狭隘となり、また実験施設としての危険防止などの観点から、教育施設充実計画の先陣を切って情報処理研究センターと同時期に新館が建設された。
場所は理学部本館東南部で、電気室に併設されていた蒲鉾型の屋根をした実験棟を解体した跡に建てられた。
2001年夏、理学部が神戸三田キャンパスへ移転し、同時に行われた新月池周辺の再開発(本部棟・大学院1号館・法科大学院校舎の建設)により、旧大学本館、同窓記念会館、学院本館別館、新月クラブの解体工事が始まり、入室していた入試課、AO入試課、点訳室、日本研究プログラム講義室、人権教育研究室、教務課、情報システム室(電算室)、教職教育研究センター、言語コミュニケーション文化研究科教員共同研究室、広報室が、02年8月から再開発を終える04月3月まで、全学共用棟を仮に使用した。
04年7月から05年3月にかけて再び改修が行われ、同年4月から新設された経営戦略研究科と、災害復興制度研究所が同棟を使用し、現在に至っている。
また同棟には36の教員個人研究室もある。
理学部本館は1961年4月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根4階建て、延べ床面積4,597.05㎡、竹中工務店の設計・施工。
理学部別館は、67年7月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根、延べ床面積1,190.16㎡、設計・施工は竹中工務店。
別館は改装されて2002年9月からトレーニングセンターとして使用後、13年に解体され跡地に高等部体育館が建設される(2015年2月竣工予定)。
理学部新館は81年9月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根地下1階付き4階建て塔屋2階、延べ床面積3,740.16㎡、設計は日本設計、施工は竹中工務店。
新館は、メディア・研究棟として活用されている。
【文献】『関西学院大学理学部20年史』1981
理学部校舎は、先行して建設された学生会館や社会学部と同様のモダニズム様式に沿ったデザインで、大学の学部校舎としては初めての市道南側の建物であった。
当初は本館と実験棟の2棟のみで、理学研究科修士課程設置時に本館4階部分を増築し、博士課程設置に際して別館が新たに建設された。
さらに、研究設備の整備、学生・教員の増加、学生実験の質的向上など学部の内部充実に伴い、既存施設では狭隘となり、また実験施設としての危険防止などの観点から、教育施設充実計画の先陣を切って情報処理研究センターと同時期に新館が建設された。
場所は理学部本館東南部で、電気室に併設されていた蒲鉾型の屋根をした実験棟を解体した跡に建てられた。
2001年夏、理学部が神戸三田キャンパスへ移転し、同時に行われた新月池周辺の再開発(本部棟・大学院1号館・法科大学院校舎の建設)により、旧大学本館、同窓記念会館、学院本館別館、新月クラブの解体工事が始まり、入室していた入試課、AO入試課、点訳室、日本研究プログラム講義室、人権教育研究室、教務課、情報システム室(電算室)、教職教育研究センター、言語コミュニケーション文化研究科教員共同研究室、広報室が、02年8月から再開発を終える04月3月まで、全学共用棟を仮に使用した。
04年7月から05年3月にかけて再び改修が行われ、同年4月から新設された経営戦略研究科と、災害復興制度研究所が同棟を使用し、現在に至っている。
また同棟には36の教員個人研究室もある。
理学部本館は1961年4月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根4階建て、延べ床面積4,597.05㎡、竹中工務店の設計・施工。
理学部別館は、67年7月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根、延べ床面積1,190.16㎡、設計・施工は竹中工務店。
別館は改装されて2002年9月からトレーニングセンターとして使用後、13年に解体され跡地に高等部体育館が建設される(2015年2月竣工予定)。
理学部新館は81年9月竣工、鉄筋コンクリート造り陸屋根地下1階付き4階建て塔屋2階、延べ床面積3,740.16㎡、設計は日本設計、施工は竹中工務店。
新館は、メディア・研究棟として活用されている。
【文献】『関西学院大学理学部20年史』1981