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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

造園

 上ケ原キャンパスでは、キャンパス創設以来70年の歴史を経た今日でも、キャンパス再開発環境整備工事として造園工事が続けられている。
関西学院における外構造園工事は、創設期、空白期、復興期、発展期に区分できる。

 上ケ原キャンパス創設は、秀でたマスタープランナーであったW.M.ヴォーリズによってデザインされた。
ヴォーリズは学院の掲げる教育と理念を実現することができる見事なキャンパスを上ケ原台地に誕生させたのである。
建物配置、道路設定、空間構成等キャンパスの骨格がこの時期につくられた。
創設期は、キャンパス造成が開始された1928年から高等商業学部別館竣工時である37年あたりまでとされる。

 その後戦中から戦後の1953年短期大学校舎竣工時までの10余年は、造園工事は完全に中止されていた。
キャンパス管理作業は造園における空白期にあっても、戦争が激化してから戦後49年の期間を除けば常に細々と行われていたようである。

 1953年から74年まではキャンパス内に多くの新校舎が建設されたが、その間、造園計画と施工は本格的な取り組みがなされなかった。
予算等の事情もあり、学内の樹木を新築現場に移植して体裁を整えるぐらいで、それも学院職員(営繕課のちの施設課)のみによって施工されていた。
この期間は戦争と大学紛争によるキャンパス荒廃の復興期とも位置づけられるだろう。

 1974年から2000年に至る期間は、造園(再開発環境整備)に関しても名実ともに発展期と位置づけられる。
学院本部から明確な指示を受けた施設部は、その後総合体育館、法学部本館造園を皮切りに、「学生施設整備充実計画第1次案」(1978)に沿って次々と建設される建築工事と並行して造園計画を立案し、基本設計を関西学院に提出し施工を重ねてきた。
その後、造園工事は上ケ原キャンパスのみならず千刈地区、そして神戸三田キャンパスへと拡大した。
この発展期におけるキャンパス造園では、原点であるヴォーリズの設計が改めて検証され、コンセプト構築と基本設計が提出された。

 2000年から13年に至る期間は、新しいキャンパスの展開と同時にキャンパスの再開発工事が相次いで行われた。
08年、宝塚ファミリーランド跡地東端の土地を購入し初等部を開校した。
この宝塚キャンパスは、決して広くはない土地にスパニッシュ・ミッション・スタイルの建物と人工芝のグラウンドを配置するとともに、天然芝で年中緑の校庭や学習菜園・鑓水などを設けて、景観と環境に配慮した。
09年以降、聖和大学との法人合併により西宮聖和キャンパスとなり、関西学院施設課が造園管理を行うこととなった。
合併契約と相前後して山川記念館建設に取り組み、外構計画・植栽計画を施設課と日本設計で協議を重ね、幼児から大学院生までもが共有できる明るく開放的なキャンパス作りを目指した。

 2010年には、千里国際学園および大阪インターナショナルスクールとの法人合併により、千里国際キャンパスがスタートした。
合併後、千里国際学園創立20周年を記念した同窓・父兄ら関係者からの寄付により、人が集う明るく開放的な中庭を目指して改修工事に着手した。
中庭は年中緑の芝庭とし、夏芝が枯れるまでの秋に冬芝の種を播き年中緑の芝生の中庭が完成した。

 上ケ原キャンパスでは、新月池周辺再開発計画において新月池を囲む緑地景観の特色を生かした造園計画を行った。
また、2004年の山田町土地取得は、関西学院にとって再開発事業の重要な足掛かりとなり、キャンパス内にあったグラウンド諸施設を周辺土地へ移し、そのグラウンドの跡地に校舎・研究館(G号館、高中部、北西部整備計画、125周年記念事業)などの連続した建築工事を迎えることとなった。
これらの事業計画は関西学院発展の大きな一歩の踏み出しではあったが、建築面積の大型化に伴い、行政の定める第3種風致地区条例の一項で緑地面積と樹木の植栽本数の確保に苦慮することとなったが、困難な緑地面積の設定と景観を両立するため、さまざまな工夫がなされた。

 神戸三田キャンパスは開設から18年が経過し、樹々も日々成長を続けキャンパスと調和のとれた植栽空間へと成長している。
また、2002年理学部が理工学部へ改組・移転するのを皮切りにⅢ号館、第2・第3厚生棟、Ⅳ号館、Ⅴ号館、Ⅵ号館などの建設工事が相次いだ。
以後、アカデミックコモンズの建設では隣地のバスロータリーをキャンパス内に取り入れ、キャンパス整備が充実したことに伴い、植栽に関しても移設などの再整備を行った。
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