[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
大衆団交
1960年代後半の大学紛争当時、学生(特に全共闘の学生)と大学当局との交渉に当たって全共闘が強く求めた交渉形態に大衆団交があった。
団交とは団体交渉の略称であるから、大衆団交は本来は大衆と当局との団体交渉を意味するが、紛争当時の大衆団交は、事実上、全共闘と大学当局との交渉を意味していた。
関西学院大学の場合、学生紛争時に全共闘から大学・学院に対してしばしば大衆団交を開催するよう要求が出された。
1968年12月に全学執行委員長は8項目からなる公開質問状(11月29日付)を常務会・小宮孝院長宛てに提出し、その中で「大衆的な団体交渉」をもつことを求めた。
また、69年1月に全共闘より提出された「六項目要求」でも大衆団交が要求されていた。
いずれの場合も、大衆団交は教育の場において認めがたいとして、学院はこれを拒否している。
しかし、こうした学院の態度も一因となってその後紛争が拡大する中で、2月、紛争解決のため全学学生集会が開催され、これが結果的に関学紛争最大の大衆団交へと展開していった。
この日午後1時から新グラウンド(現、第2フィールド)で開始された全学学生集会は、学生約5,000名が参加した。
午後6時から場所を中央講堂に移し、翌朝午前1時まで続けられた。
翌日も学生約2,000名が参加して、正午から午後9時50分まで中央講堂で全学集会が開催された。
この集会は、全共闘の学生が小宮院長・学長代理に対して機動隊導入の責任を追及する糾弾集会となった。
突く、蹴るという暴力的追及の22時間を耐えた院長・学長代理に対してドクター・ストップがかけられこの集会は終了したが、小宮院長、学長代理はこの直後に職を辞した。
【参照】Ⅱ 347-360【文献】『関学闘争の記録』1969
団交とは団体交渉の略称であるから、大衆団交は本来は大衆と当局との団体交渉を意味するが、紛争当時の大衆団交は、事実上、全共闘と大学当局との交渉を意味していた。
関西学院大学の場合、学生紛争時に全共闘から大学・学院に対してしばしば大衆団交を開催するよう要求が出された。
1968年12月に全学執行委員長は8項目からなる公開質問状(11月29日付)を常務会・小宮孝院長宛てに提出し、その中で「大衆的な団体交渉」をもつことを求めた。
また、69年1月に全共闘より提出された「六項目要求」でも大衆団交が要求されていた。
いずれの場合も、大衆団交は教育の場において認めがたいとして、学院はこれを拒否している。
しかし、こうした学院の態度も一因となってその後紛争が拡大する中で、2月、紛争解決のため全学学生集会が開催され、これが結果的に関学紛争最大の大衆団交へと展開していった。
この日午後1時から新グラウンド(現、第2フィールド)で開始された全学学生集会は、学生約5,000名が参加した。
午後6時から場所を中央講堂に移し、翌朝午前1時まで続けられた。
翌日も学生約2,000名が参加して、正午から午後9時50分まで中央講堂で全学集会が開催された。
この集会は、全共闘の学生が小宮院長・学長代理に対して機動隊導入の責任を追及する糾弾集会となった。
突く、蹴るという暴力的追及の22時間を耐えた院長・学長代理に対してドクター・ストップがかけられこの集会は終了したが、小宮院長、学長代理はこの直後に職を辞した。
【参照】Ⅱ 347-360【文献】『関学闘争の記録』1969