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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

小林一三

こばやしいちぞう

1873.1.3~1957.1.25

実業家、政治家。
山梨県韮崎に生まれる。
1892年、慶應義塾を卒業後、三井銀行に入行、大阪支店長岩下清周に私淑。
1907年、三井銀行を辞職し、阪鶴鉄道監査役となり、箕面有馬電気軌道会社の設立に参画し専務に就任する。
沿線の住宅開発で日本最初の田園都市構想を実現し、宝塚を温泉保養地、レジャー施設として開発、13年、宝塚少女歌劇団を創設、34年、阪急梅田ビル内に日本最初のターミナル・デパート、阪急百貨店を開店。
他方、28年、東京電灯の再建に当たる。
32年、東京宝塚劇場、37年、東宝映画を設立。
40年、第2次近衛文麿内閣の商工相となり、官僚の経済統制に反対する。
戦後、幣原喜重郎内閣の国務相、戦災復興院総裁に就任、公職追放されるが、解除後、東宝社長となる。

 1918年の大学令発布後、大学設置を目指した関西学院は財政的理由からそれを果たすことができなかったが、高等商業学部教授菊池七郎が実業家河鰭節の助言を受け、関西学院は神戸の都市化によって教育環境が悪化した原田の森を離れ、上ケ原に移転することとなった。
その際、原田の森キャンパスの売却と上ケ原校地の購入に貢献したのが小林であった。
1928年、土地売買契約が結ばれた。
その条件は、原田の森キャンパス(2万6,700坪)・建物の譲渡金320万円、上ケ原校地(7万坪)購入費55万円であった。
その貢献を讃えるため29年の創立40周年記念式典において、関西学院は小林に英文・和文の感謝状とカナダの著名な画家J.W.L.フォスターが描く肖像画(阪急学園池田文庫所蔵)を送った。
阪急沿線への学校誘致は関西学院だけでなく、1933年には神戸女学院が誘致された。

【参照】Ⅰ 437,443,568【文献】『小林一三翁の追想』1961;『小林一三全集』1961-62

小林一三

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