[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
高等部運動総部
【アメリカンフットボール部】1948年、高等部発足と同時にタッチフットボール部として創部、49年5月、初の対外試合で大阪府立豊中高等学校に勝利。
51~62年には204連勝(当時のアマチュア記録)を樹立、ホワイトベアー賞を受賞した。
70年にアメリカンフットボール部に名称変更。
2014年現在、全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会において優勝16回を誇っている。
1971年には高等学校単独チームとしては初の海外遠征(アメリカ・ハワイ島)をした。
これまで12回の海外遠征を行い、13勝11敗の成績を収めている。
【剣道部】旧制中学部剣道部にさかのぼる長い伝統を持ち、戦後の空白期を経て、1958年に発足した。
60年に師範に伊地知清臣を迎え、その後活発な活動を続ける。
後の高中部長中島貞夫が長く顧問を務めた。
86年、伊地知師範勇退後、山口精介を、2012年には浦和人を師範に迎え、現在に至っている。
1966年には坂下正明が個人で全国高等学校総合体育大会(インターハイ)に出場した。
その後、阪神大会などでは優勝があったが、再び飛躍期に入ったのは98年からである。
この年、兵庫県大会でベスト4に入賞、それ以降常に近畿大会に出場し、2000年には眞開巧が兵庫県大会で個人優勝、インターハイでもベスト8となった。
また同年、兵庫県新人大会では団体として初優勝をおさめ、全国選抜大会に出場した。
その後09年、10年、12年にも兵庫県新人大会に優勝し、全国選抜大会(11年は東日本大震災のため中止)に出場した。
【ゴルフ部】1986年同好会として発足し、88年、中迫周一監督、水崎巌顧問、千刈カンツリー倶楽部の尽力によりゴルフ部に昇格した。
2013年現在、団体戦では全国高等学校ゴルフ選手権出場の常連校となり、個人においても、12年には第80回記念関西アマチュアゴルフ選手権で史上最年少の優勝者を出すなど、黎明期から現在に至るまで多くの部員が輝かしい成績を残している。
【サッカー部】1948年、高等部発足と同時に創部。
これまでに兵庫県大会レベル優勝23回、近畿大会レベル優勝2回、準優勝3回、57年国民体育大会3位、61年には全国高等学校サッカー選手権大会3位と輝かしい戦績を残してきた。
県大会レベルでは、70年以降決勝には進出するものの勝利から遠ざかっていたが、2013年兵庫県高等学校新人サッカー大会において、久しぶりの優勝を果たした。
1957年前後の黄金時代の中心メンバーであった継谷昌三は、日本代表として64年の東京オリンピックにも出場した。
【水泳部】1948年、高等部発足と同時に創部。
兵庫県高等学校選手権水泳競技大会では、48年の第1回大会から第9回大会までの間に団体として6度優勝。
近年は強豪のひしめく兵庫県下で、団体として常に上位入賞を果たしており、また、個人種目、リレー種目ともに毎年インターハイの出場者を出している。
【卓球部】高等部が発足した3年後の1951年に創部。
77年までは旧高等部校舎西側にあった雨天練習場(現、テニスコート)で活動。
卓球台は2台という少なさで、練習時間より待ち時間が多いという状態であったが、この時期インターハイに何人もの選手を送り出している。
77年には高等部用体育館を増築した総合体育館が完成し、1階に卓球場も設置され、卓球台も7台と増えた。
【テニス部】高等部が発足した2年後の1950年に創部。
1920年秋に当時の畑歓三庭球部長(高等学部教授)が唱えた“NOBLE STUBBORNNESS”(ノーブル・スタボネス)をモットーとし、礼儀作法、時間厳守を部の心得として日々精進している。
これまで、全国高等学校総合体育大会には、団体として11回出場、ベスト8(2002)などの成績を収め、個人戦にも多数活躍している。
また、春の全国選抜高校テニス大会には14回出場(2001年~10年には10年連続)し、3位(2006)、ベスト8(2004)、ベスト16(2003)などの成績を収めている。
【バスケットボール部】旧制中学部時代の1927年創部。
高等部発足当時にはすでに活動をしていた。
これまでに、兵庫県新人大会優勝3回、兵庫県総合体育大会優勝4回、兵庫県民体育大会優勝4回、全国大会には総合体育大会、選抜大会合わせて出場9回を誇っている。
長い歴史の中で低迷した時期もあったが、近年は兵庫県内の大会ではベスト4の常連であり、2013年度までに近畿総合体育大会第3位、全国選抜大会ベスト16という成績を残している。
【バレーボール部】高等部が発足した3年後の1951年創部。
発足時より屋外で9人制チームとして活動していたが、63年に6人制チームに切り替わった。
その頃から屋内での活動が徐々に増え、77年の高等部用体育館を増築した総合体育館完成により、完全に屋内競技として活動するようになった。
近畿総合体育大会には60年の初出場以来、これまでに14回出場を果たしている。
また、近畿私学大会に20回、全国私学大会に5回出場している。
兵庫県大会では、2000年の兵庫県総合体育大会第3位、1997年、98年、2001年の県新人大会ベスト8、1998年、2001年、04年、07年、08年の選抜優勝大会兵庫県予選ベスト8が最高成績である。
【野球部】旧制中学部の野球部を引き継ぎ、新制高等部発足と同時に創部。
旧制中学部時代には春(1928)、夏(1920)共に全国制覇の経験を持ち、また夏の全国大会予選には第1回大会より参加を続ける高校野球界屈指の名門である。
1998年、春の選抜大会出場、2009年には70年ぶりに夏の全国大会に出場して1回戦勝利、甲子園球場に「空の翼」の大合唱が轟き渡った。
近年は「文武両道、全員野球」をモットーに兵庫県有数の強豪校として名を馳せている。
【ラグビー部】1948年、高等部発足と同時に創部。
65年、第45回全国高等学校ラグビーフットボール大会に初出場。
2002年の兵庫県高等学校総合体育大会準優勝を経て、03年には38年ぶりに全国大会出場(2回戦進出)。
05年は兵庫県総体決勝で報徳学園と両校優勝も、抽選で全国大会出場はならず。
07年には初めて全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会に出場し、ベスト8。
同年の兵庫県総体決勝は再び報徳学園と両校優勝となるが、抽選で全国大会出場。
10年には高等部ラグビー部史上初の県3連覇(兵庫県新人戦・兵庫県民体育大会・兵庫県総合体育大会)を達成し、全国大会ではBシードに選ばれ、準決勝で優勝校の福岡東高校に敗れるも、全国3位。
11年にも2年連続で全国大会出場を果たしている。
【陸上競技部】1948年、高等部発足と同時に創部。
その年に小谷稔が走高跳、三段跳で兵庫県高等学校選手権大会を制覇。
その後部活動を一時中断していた時期もあるが、52年に正式な部として再発足。
55年、坂本州範が兵庫県私学大会の砲丸投げで14m58の日本高校新記録を樹立。
77年、78年、合田浩二が全国高等学校総合体育大会(インターハイ)5,000mで2年連続優勝、78年には同大会で1,500mでも3位に入賞。
2004年のインターハイには4×100m・4×400mの両リレーで出場を果たし、個人では楊井祐輝緒が100mで入賞。
その後、05、06、10、11、12年に同大会で出場者が出ている。
【文献】『関西学院高中部百年史』1989
51~62年には204連勝(当時のアマチュア記録)を樹立、ホワイトベアー賞を受賞した。
70年にアメリカンフットボール部に名称変更。
2014年現在、全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会において優勝16回を誇っている。
1971年には高等学校単独チームとしては初の海外遠征(アメリカ・ハワイ島)をした。
これまで12回の海外遠征を行い、13勝11敗の成績を収めている。
【剣道部】旧制中学部剣道部にさかのぼる長い伝統を持ち、戦後の空白期を経て、1958年に発足した。
60年に師範に伊地知清臣を迎え、その後活発な活動を続ける。
後の高中部長中島貞夫が長く顧問を務めた。
86年、伊地知師範勇退後、山口精介を、2012年には浦和人を師範に迎え、現在に至っている。
1966年には坂下正明が個人で全国高等学校総合体育大会(インターハイ)に出場した。
その後、阪神大会などでは優勝があったが、再び飛躍期に入ったのは98年からである。
この年、兵庫県大会でベスト4に入賞、それ以降常に近畿大会に出場し、2000年には眞開巧が兵庫県大会で個人優勝、インターハイでもベスト8となった。
また同年、兵庫県新人大会では団体として初優勝をおさめ、全国選抜大会に出場した。
その後09年、10年、12年にも兵庫県新人大会に優勝し、全国選抜大会(11年は東日本大震災のため中止)に出場した。
【ゴルフ部】1986年同好会として発足し、88年、中迫周一監督、水崎巌顧問、千刈カンツリー倶楽部の尽力によりゴルフ部に昇格した。
2013年現在、団体戦では全国高等学校ゴルフ選手権出場の常連校となり、個人においても、12年には第80回記念関西アマチュアゴルフ選手権で史上最年少の優勝者を出すなど、黎明期から現在に至るまで多くの部員が輝かしい成績を残している。
【サッカー部】1948年、高等部発足と同時に創部。
これまでに兵庫県大会レベル優勝23回、近畿大会レベル優勝2回、準優勝3回、57年国民体育大会3位、61年には全国高等学校サッカー選手権大会3位と輝かしい戦績を残してきた。
県大会レベルでは、70年以降決勝には進出するものの勝利から遠ざかっていたが、2013年兵庫県高等学校新人サッカー大会において、久しぶりの優勝を果たした。
1957年前後の黄金時代の中心メンバーであった継谷昌三は、日本代表として64年の東京オリンピックにも出場した。
【水泳部】1948年、高等部発足と同時に創部。
兵庫県高等学校選手権水泳競技大会では、48年の第1回大会から第9回大会までの間に団体として6度優勝。
近年は強豪のひしめく兵庫県下で、団体として常に上位入賞を果たしており、また、個人種目、リレー種目ともに毎年インターハイの出場者を出している。
【卓球部】高等部が発足した3年後の1951年に創部。
77年までは旧高等部校舎西側にあった雨天練習場(現、テニスコート)で活動。
卓球台は2台という少なさで、練習時間より待ち時間が多いという状態であったが、この時期インターハイに何人もの選手を送り出している。
77年には高等部用体育館を増築した総合体育館が完成し、1階に卓球場も設置され、卓球台も7台と増えた。
【テニス部】高等部が発足した2年後の1950年に創部。
1920年秋に当時の畑歓三庭球部長(高等学部教授)が唱えた“NOBLE STUBBORNNESS”(ノーブル・スタボネス)をモットーとし、礼儀作法、時間厳守を部の心得として日々精進している。
これまで、全国高等学校総合体育大会には、団体として11回出場、ベスト8(2002)などの成績を収め、個人戦にも多数活躍している。
また、春の全国選抜高校テニス大会には14回出場(2001年~10年には10年連続)し、3位(2006)、ベスト8(2004)、ベスト16(2003)などの成績を収めている。
【バスケットボール部】旧制中学部時代の1927年創部。
高等部発足当時にはすでに活動をしていた。
これまでに、兵庫県新人大会優勝3回、兵庫県総合体育大会優勝4回、兵庫県民体育大会優勝4回、全国大会には総合体育大会、選抜大会合わせて出場9回を誇っている。
長い歴史の中で低迷した時期もあったが、近年は兵庫県内の大会ではベスト4の常連であり、2013年度までに近畿総合体育大会第3位、全国選抜大会ベスト16という成績を残している。
【バレーボール部】高等部が発足した3年後の1951年創部。
発足時より屋外で9人制チームとして活動していたが、63年に6人制チームに切り替わった。
その頃から屋内での活動が徐々に増え、77年の高等部用体育館を増築した総合体育館完成により、完全に屋内競技として活動するようになった。
近畿総合体育大会には60年の初出場以来、これまでに14回出場を果たしている。
また、近畿私学大会に20回、全国私学大会に5回出場している。
兵庫県大会では、2000年の兵庫県総合体育大会第3位、1997年、98年、2001年の県新人大会ベスト8、1998年、2001年、04年、07年、08年の選抜優勝大会兵庫県予選ベスト8が最高成績である。
【野球部】旧制中学部の野球部を引き継ぎ、新制高等部発足と同時に創部。
旧制中学部時代には春(1928)、夏(1920)共に全国制覇の経験を持ち、また夏の全国大会予選には第1回大会より参加を続ける高校野球界屈指の名門である。
1998年、春の選抜大会出場、2009年には70年ぶりに夏の全国大会に出場して1回戦勝利、甲子園球場に「空の翼」の大合唱が轟き渡った。
近年は「文武両道、全員野球」をモットーに兵庫県有数の強豪校として名を馳せている。
【ラグビー部】1948年、高等部発足と同時に創部。
65年、第45回全国高等学校ラグビーフットボール大会に初出場。
2002年の兵庫県高等学校総合体育大会準優勝を経て、03年には38年ぶりに全国大会出場(2回戦進出)。
05年は兵庫県総体決勝で報徳学園と両校優勝も、抽選で全国大会出場はならず。
07年には初めて全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会に出場し、ベスト8。
同年の兵庫県総体決勝は再び報徳学園と両校優勝となるが、抽選で全国大会出場。
10年には高等部ラグビー部史上初の県3連覇(兵庫県新人戦・兵庫県民体育大会・兵庫県総合体育大会)を達成し、全国大会ではBシードに選ばれ、準決勝で優勝校の福岡東高校に敗れるも、全国3位。
11年にも2年連続で全国大会出場を果たしている。
【陸上競技部】1948年、高等部発足と同時に創部。
その年に小谷稔が走高跳、三段跳で兵庫県高等学校選手権大会を制覇。
その後部活動を一時中断していた時期もあるが、52年に正式な部として再発足。
55年、坂本州範が兵庫県私学大会の砲丸投げで14m58の日本高校新記録を樹立。
77年、78年、合田浩二が全国高等学校総合体育大会(インターハイ)5,000mで2年連続優勝、78年には同大会で1,500mでも3位に入賞。
2004年のインターハイには4×100m・4×400mの両リレーで出場を果たし、個人では楊井祐輝緒が100mで入賞。
その後、05、06、10、11、12年に同大会で出場者が出ている。
【文献】『関西学院高中部百年史』1989