[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
校歌「空の翼」
大学開設を目指した関西学院は、将来の発展にそなえて、1929年3月、神戸市に隣接した原田の森から西宮の上ケ原に移転した。
そして32年3月、待望の関西学院大学の設立が認可され、4月には大学予科が開設された。
十余年にわたる学生会の大学昇格運動や教職員・宣教師たちの熱意と努力がようやくここに結実したのであった。
上ケ原の新しい空気は新しい校歌作成の機運を生んだ。
当時は英語の歌詞による"Old Kwansei"が校歌として歌われていた。
1900年に初めて歌われたというから、日本の大学の校歌のうちでももっとも古いものに属する。
格調の高い調べと重厚なハーモニーをもつこの歌は、アメリカ東部の名門校プリンストン大学のカレッジ・ソング“Old Nassau”(H.P.Peck作詞、K.A.Langlotz作曲)の歌詞と旋律を一部改編したものであった。
「我等の校歌を」と、新しい土地にふさわしい日本語の校歌を求めた33年度の学生会は、応援歌をかねた新校歌の作成を企画した。
学生会長菅沼安人は、吉岡美国名誉院長の紹介状を携え、当時大阪に滞在していた日本の代表的な作曲家で学院同窓の山田耕筰を訪ね、校歌の作曲を委嘱し、山田の推薦で詩人の北原白秋が作詞を引き受けた。
その年の初夏に、山田耕筰と北原白秋が関西学院を訪れた。
中央講堂では、学生が万雷の拍手で2人を迎えた。
詩人白秋は、緑の甲山を背景にした学舎の美しさ、きれいな水が校内を流れるキャンパスの風景をしきりに嘆賞したと言われ、第一節で「清明ここに道ありわが丘」と上ケ原への道行を示し、二節で「眉にかざす清き甲」と中央芝生から甲山を見上げる光景を、そして三節で「旗は勇む武庫の平野」と時計台2階から眼前に広がる大阪平野への眺望をうたい、学院にとって新しいキャンパスそのものの景観を彷彿させるものとなっている。
新校歌「空の翼」は9月に完成し、作曲者の山田耕筰を関西学院に迎え、山田自らタクトを振って全学生の大合唱を指揮して発表会が行われた。
ただし第2次大戦中には「輝く自由」 "Mastery for Service" などの表現が時局にそぐわないということで公式に歌われることが控えられた時期があったが、戦後再び学院を代表する校歌としてさまざまな式典、体育会・運動部などの試合や文化活動等を通じて歌い続けられている。
【参照】Ⅰ 530-531【文献】「関西学院新聞」1933.6.20,1933.9.20
そして32年3月、待望の関西学院大学の設立が認可され、4月には大学予科が開設された。
十余年にわたる学生会の大学昇格運動や教職員・宣教師たちの熱意と努力がようやくここに結実したのであった。
上ケ原の新しい空気は新しい校歌作成の機運を生んだ。
当時は英語の歌詞による"Old Kwansei"が校歌として歌われていた。
1900年に初めて歌われたというから、日本の大学の校歌のうちでももっとも古いものに属する。
格調の高い調べと重厚なハーモニーをもつこの歌は、アメリカ東部の名門校プリンストン大学のカレッジ・ソング“Old Nassau”(H.P.Peck作詞、K.A.Langlotz作曲)の歌詞と旋律を一部改編したものであった。
「我等の校歌を」と、新しい土地にふさわしい日本語の校歌を求めた33年度の学生会は、応援歌をかねた新校歌の作成を企画した。
学生会長菅沼安人は、吉岡美国名誉院長の紹介状を携え、当時大阪に滞在していた日本の代表的な作曲家で学院同窓の山田耕筰を訪ね、校歌の作曲を委嘱し、山田の推薦で詩人の北原白秋が作詞を引き受けた。
その年の初夏に、山田耕筰と北原白秋が関西学院を訪れた。
中央講堂では、学生が万雷の拍手で2人を迎えた。
詩人白秋は、緑の甲山を背景にした学舎の美しさ、きれいな水が校内を流れるキャンパスの風景をしきりに嘆賞したと言われ、第一節で「清明ここに道ありわが丘」と上ケ原への道行を示し、二節で「眉にかざす清き甲」と中央芝生から甲山を見上げる光景を、そして三節で「旗は勇む武庫の平野」と時計台2階から眼前に広がる大阪平野への眺望をうたい、学院にとって新しいキャンパスそのものの景観を彷彿させるものとなっている。
新校歌「空の翼」は9月に完成し、作曲者の山田耕筰を関西学院に迎え、山田自らタクトを振って全学生の大合唱を指揮して発表会が行われた。
ただし第2次大戦中には「輝く自由」 "Mastery for Service" などの表現が時局にそぐわないということで公式に歌われることが控えられた時期があったが、戦後再び学院を代表する校歌としてさまざまな式典、体育会・運動部などの試合や文化活動等を通じて歌い続けられている。
【参照】Ⅰ 530-531【文献】「関西学院新聞」1933.6.20,1933.9.20