[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
谷本清
たにもときよし
1909.6.27~1986.9.28
牧師。
ヒロシマ・ピース・センター設立者。
香川県坂出市に生まれる。
1928年に香川県立坂出商業学校在学中に受洗し、同校を卒業。
29年関西学院神学部に入学し、学生時代に大阪築港教会の伝道師となり、卒業後、渡米して40年にアメリカ・エモリー大学大学院を修了した。
41年帰国、日本メソヂスト教会の牧師として、鹿児島県国分、加治木の諸教会、さらに日本基督教団の成立後には那覇中央、広島流川の諸教会の責任を負い、伝道者としての生涯を歩んだ。
特に、関西学院の創設者W.R.ランバス宣教師によって設立された広島流川教会においては、39年間牧師として働いた。
谷本の生涯において最も大きな出来事は、1945年8月6日の広島での被爆経験であったと言えるが、その被爆経験の中から1950年「ピース・センター」を設立し、原爆孤児の精神養子運動や原爆乙女の渡米治療などの活動を通して、反核・平和運動を一貫して担った。
その平和運動の拠点となったピース・センターの「趣意書」の中で、谷本は、広島の悲劇を二度と繰り返してはならないという強い願いを表明し、世界平和に向けての具体的な構想を提唱した。
このような谷本の平和の取り組みに対して、66年にアメリカのルイス・アンド・クラーク大学より、また86年には関西学院大学との協定校でもあるアメリカのエモリー大学より、それぞれ名誉神学博士の称号が授与された。
谷本が死去した翌87年に「谷本清平和賞」が設けられ、平和・愛・奉仕に多大の功績を残した人びとに贈られている。
【文献】『関西学院史紀要』(9)2003
ヒロシマ・ピース・センター設立者。
香川県坂出市に生まれる。
1928年に香川県立坂出商業学校在学中に受洗し、同校を卒業。
29年関西学院神学部に入学し、学生時代に大阪築港教会の伝道師となり、卒業後、渡米して40年にアメリカ・エモリー大学大学院を修了した。
41年帰国、日本メソヂスト教会の牧師として、鹿児島県国分、加治木の諸教会、さらに日本基督教団の成立後には那覇中央、広島流川の諸教会の責任を負い、伝道者としての生涯を歩んだ。
特に、関西学院の創設者W.R.ランバス宣教師によって設立された広島流川教会においては、39年間牧師として働いた。
谷本の生涯において最も大きな出来事は、1945年8月6日の広島での被爆経験であったと言えるが、その被爆経験の中から1950年「ピース・センター」を設立し、原爆孤児の精神養子運動や原爆乙女の渡米治療などの活動を通して、反核・平和運動を一貫して担った。
その平和運動の拠点となったピース・センターの「趣意書」の中で、谷本は、広島の悲劇を二度と繰り返してはならないという強い願いを表明し、世界平和に向けての具体的な構想を提唱した。
このような谷本の平和の取り組みに対して、66年にアメリカのルイス・アンド・クラーク大学より、また86年には関西学院大学との協定校でもあるアメリカのエモリー大学より、それぞれ名誉神学博士の称号が授与された。
谷本が死去した翌87年に「谷本清平和賞」が設けられ、平和・愛・奉仕に多大の功績を残した人びとに贈られている。
【文献】『関西学院史紀要』(9)2003