[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
玉林憲義
たまばやしのりよし
1907.3.10~1996.7.4
文学部長。
山口県に生まれる。
1930年、京都帝国大学文学部独逸文学科を卒業し同大学院で修学。
33年、関西学院大学予科教授となり、48年文学部専任講師、同助教授(ドイツ語、ドイツ文学)を経て、51年、教授に就任。
文学部の独逸文学科設立のために尽力し、59年4月、村井勇吾、芳賀檀の各教授や荒木泰助教授らを擁して待望の独文学科を発足させた。
1954年4月から2年間文学部長を務めたのち、1年間ドイツ・テュービンゲン大学に留学。
帰国後、学生部長、教務部長、総務部長、キリスト教主義教育研究室長、院長事務取扱、理事、評議員を歴任したほか、日本ゲーテ協会理事・京阪神支部長や日本独文学会理事・阪神支部長(阪神独文学会会長)を務めた。
62年には関西学院の設立した千刈カンツリー倶楽部常務取締役にも就任し、収益事業としてのゴルフ場経営にあたった。
69年4月、混迷する大学紛争のさなか大学理念専門委員会委員として大学改革案作成の準備を進めた。
67年、兵庫県教育功労者表彰。
74年3月、定年で退職し兵庫医科大学教授となった。
【参照】Ⅰ 484;Ⅱ 69,111,284,367【文献】『関西学院大学文学部60年史』1994;『独逸文学研究』(16)1974
山口県に生まれる。
1930年、京都帝国大学文学部独逸文学科を卒業し同大学院で修学。
33年、関西学院大学予科教授となり、48年文学部専任講師、同助教授(ドイツ語、ドイツ文学)を経て、51年、教授に就任。
文学部の独逸文学科設立のために尽力し、59年4月、村井勇吾、芳賀檀の各教授や荒木泰助教授らを擁して待望の独文学科を発足させた。
1954年4月から2年間文学部長を務めたのち、1年間ドイツ・テュービンゲン大学に留学。
帰国後、学生部長、教務部長、総務部長、キリスト教主義教育研究室長、院長事務取扱、理事、評議員を歴任したほか、日本ゲーテ協会理事・京阪神支部長や日本独文学会理事・阪神支部長(阪神独文学会会長)を務めた。
62年には関西学院の設立した千刈カンツリー倶楽部常務取締役にも就任し、収益事業としてのゴルフ場経営にあたった。
69年4月、混迷する大学紛争のさなか大学理念専門委員会委員として大学改革案作成の準備を進めた。
67年、兵庫県教育功労者表彰。
74年3月、定年で退職し兵庫医科大学教授となった。
【参照】Ⅰ 484;Ⅱ 69,111,284,367【文献】『関西学院大学文学部60年史』1994;『独逸文学研究』(16)1974