[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
短期大学
(関西学院 1950-1958)
関西学院短期大学は、1950年4月、専門学校を移行させる形で開校されたが、時代の変化によって当初の設立根拠が希薄になったとする判断のもとに58年3月に廃止された。
戦後、高等商業学部と文学専門部は大学との重複から新制大学に吸収し、理工専門部だけを何らかの形で残すという方針が立てられ、新制度が発足する1948年度には、理工専門部を除いて入学を停止することにした。
一方で文部省はGHQ民間情報教育局(CIE)との協議において、専門学校のもう一つの選択肢として、2~3年制のジュニア・カレッジ構想が浮かびあがり、当時の神崎驥一院長もこの構想の支持者として、当局による何度かの意見聴取においてその旨を述べている。
これが後に短期大学として制度化されることになるが、ジュニア・カレッジへの移行を考慮して48、49年度と高等商業学部は入学者を受け入れ、文学専門部だけが入学を停止した。
1950年4月には今田恵院長が学長を兼ねて短期大学が発足した。
高等商業学部は商科に、理工専門部は学科目の整備を行って応用化学科に移行し、改めて文学専門部も英文科として再スタートし、合計3学科であった。
歴史も浅い応用化学科は入学希望者も少なく苦難の出発であったことに加え、50年9月のジェーン台風で校舎が壊滅的な打撃を受けたことから、財政上再建のめどが立たず廃止のやむなきにいたり、翌年度の入学者は受け入れず、52年3月に卒業生を送り出して短い歴史を閉じた。
商科、英文科は比較的順調に歩み、短期大学専用校舎(後の大学本館、現、大学院1号館に建て替え)も1953年1月に竣工した。
しかし戦後の混乱期から脱却し、新制の4年制大学が増えるにつれて、短期大学の特に男子学生は大学の3年編入を希望する傾向が強まったことから、本来の短期大学の使命を失ってきた。
そのため55年度を最後に学生募集を停止し、2年後の57年3月の卒業生をもって廃止された。
ただし、残留者と専攻科の学生のためにその後1年間継続し、短期大学教員はそれぞれ大学の各学部に移籍してその歴史を終えた。
学長は今田院長兼任に次いで、在任中に院長に就任することになり発足以来商科長、英文科長を兼ねた加藤秀次郎が54年度から廃止まで務めた。
【参照】Ⅱ 173
戦後、高等商業学部と文学専門部は大学との重複から新制大学に吸収し、理工専門部だけを何らかの形で残すという方針が立てられ、新制度が発足する1948年度には、理工専門部を除いて入学を停止することにした。
一方で文部省はGHQ民間情報教育局(CIE)との協議において、専門学校のもう一つの選択肢として、2~3年制のジュニア・カレッジ構想が浮かびあがり、当時の神崎驥一院長もこの構想の支持者として、当局による何度かの意見聴取においてその旨を述べている。
これが後に短期大学として制度化されることになるが、ジュニア・カレッジへの移行を考慮して48、49年度と高等商業学部は入学者を受け入れ、文学専門部だけが入学を停止した。
1950年4月には今田恵院長が学長を兼ねて短期大学が発足した。
高等商業学部は商科に、理工専門部は学科目の整備を行って応用化学科に移行し、改めて文学専門部も英文科として再スタートし、合計3学科であった。
歴史も浅い応用化学科は入学希望者も少なく苦難の出発であったことに加え、50年9月のジェーン台風で校舎が壊滅的な打撃を受けたことから、財政上再建のめどが立たず廃止のやむなきにいたり、翌年度の入学者は受け入れず、52年3月に卒業生を送り出して短い歴史を閉じた。
商科、英文科は比較的順調に歩み、短期大学専用校舎(後の大学本館、現、大学院1号館に建て替え)も1953年1月に竣工した。
しかし戦後の混乱期から脱却し、新制の4年制大学が増えるにつれて、短期大学の特に男子学生は大学の3年編入を希望する傾向が強まったことから、本来の短期大学の使命を失ってきた。
そのため55年度を最後に学生募集を停止し、2年後の57年3月の卒業生をもって廃止された。
ただし、残留者と専攻科の学生のためにその後1年間継続し、短期大学教員はそれぞれ大学の各学部に移籍してその歴史を終えた。
学長は今田院長兼任に次いで、在任中に院長に就任することになり発足以来商科長、英文科長を兼ねた加藤秀次郎が54年度から廃止まで務めた。
【参照】Ⅱ 173