[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
菊池七郎
きくちしちろう
1877.12.25~1958.7.19
高等学部教授、大学予科長。
静岡県富士郡須津村に生まれる。
沼津中学校校長でキリスト教徒の江原素六の伝道に接し、1887年、日本メソヂスト教会中里教会で小林光泰から受洗。
江原の創立した麻布尋常中学校へ4年編入し、98年4月、卒業、無試験入学した東京高等商業学校本科を1901年2学年で修了退学。
菊池は内村鑑三の『聖書之研究』を耽読した。
内村の呼びかけに応じて集まった角筈聖書研究会に菊池も参加するようになり、角筈12人組の一人と称されるほど、内村から影響を受ける。
02年に渡米、シカゴのムーディ神学校に入学、08年6月、イリノイ州オルトン市シャートレス大学理科を卒業し、同年9月、イリノイ州立大学大学院に入学。
父の訃報に接し、09年2月、同大学院を退学し帰国。
同年5月、萩中学校英語教師に就任。
10月、中学校教員英語科に無試験で検定合格。
11年3月、退職し、4月、上海東亜同文書院の英語教授に就任、18年3月、退職。
R.C.アームストロング高等学部長の招聘により、同年4月から関西学院高等学部教授として数学、自然科学を担当する。
1925年夏、アメリカ帰りの旧友で実業家であった河鰭節から大学昇格のための移転校地として武庫郡甲東村上ケ原に土地があることを知り、神崎驥一高等商業学部長とH.F.ウッズウォース文学部長に伝えた。
31年9月、財団法人の認可を受けた関西学院は10月に大学設立認可申請を行った。
32年3月、菊池を予科長として、予科教授会が発足した。
37年から50年まで理事。
43年3月、定年退職した。
【参照】Ⅰ 353,436-437,473,478,566;Ⅱ 35【文献】河鰭節「移転の回想」『関西学院新聞』1930.7.20;原清「忘れ得ぬ恩師―菊池七郎先生―」『母校通信』(19)1958
静岡県富士郡須津村に生まれる。
沼津中学校校長でキリスト教徒の江原素六の伝道に接し、1887年、日本メソヂスト教会中里教会で小林光泰から受洗。
江原の創立した麻布尋常中学校へ4年編入し、98年4月、卒業、無試験入学した東京高等商業学校本科を1901年2学年で修了退学。
菊池は内村鑑三の『聖書之研究』を耽読した。
内村の呼びかけに応じて集まった角筈聖書研究会に菊池も参加するようになり、角筈12人組の一人と称されるほど、内村から影響を受ける。
02年に渡米、シカゴのムーディ神学校に入学、08年6月、イリノイ州オルトン市シャートレス大学理科を卒業し、同年9月、イリノイ州立大学大学院に入学。
父の訃報に接し、09年2月、同大学院を退学し帰国。
同年5月、萩中学校英語教師に就任。
10月、中学校教員英語科に無試験で検定合格。
11年3月、退職し、4月、上海東亜同文書院の英語教授に就任、18年3月、退職。
R.C.アームストロング高等学部長の招聘により、同年4月から関西学院高等学部教授として数学、自然科学を担当する。
1925年夏、アメリカ帰りの旧友で実業家であった河鰭節から大学昇格のための移転校地として武庫郡甲東村上ケ原に土地があることを知り、神崎驥一高等商業学部長とH.F.ウッズウォース文学部長に伝えた。
31年9月、財団法人の認可を受けた関西学院は10月に大学設立認可申請を行った。
32年3月、菊池を予科長として、予科教授会が発足した。
37年から50年まで理事。
43年3月、定年退職した。
【参照】Ⅰ 353,436-437,473,478,566;Ⅱ 35【文献】河鰭節「移転の回想」『関西学院新聞』1930.7.20;原清「忘れ得ぬ恩師―菊池七郎先生―」『母校通信』(19)1958