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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

神崎驥一

かんざききいち

1884.8.10~1959.4.16

第5代院長、理事長、学長。
東京麹町に生まれる。
1901年、関西学院普通学部を卒業、英語専修科に在学した後、カリフォルニア大学に留学。
同大学院に進学、歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。
吉岡美国第2代院長の女婿となり、21年、高等学部が2学部に分離するに当たり、高等商業学部長就任のために帰国。
その後、前年就任した第4代C.J.L.ベーツ院長が第2次世界大戦前夜に離日するまで、関西学院の上ケ原移転、大学設立という大事業敢行の片腕として、院長を補佐した。
大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部と大学商経学部教授でもあったが、主に学校行政に終始尽力した。
ベーツ院長の離日後、40年から50年の10年間、第5代院長を務め、一時期、大学長、専門学校長も兼ねて、戦中、戦後の混乱期の関西学院の舵取りをした。

 戦後、学院民主化の波から退陣を決意したが、理事会の強い要請で学院民主化の推進にも当たった。
戦時中の権限集中体制を解き、学長、専門学校長から離れ、それぞれの公選制に道を開き、院長公選、学校法人への移行に道をつけて、1950年、院長を定年によって退職した。
その間、多くの新制大学認可より1年早く48年の新制関西学院大学の認可に尽力した。

 また神崎はミッション・スクールの代表として教育改革にも関わり、専門学校の新制度としてジュニア・カレッジ構想を示し、短期大学の設立に寄与した。
その他、大学設置委員会常任委員、大学基準協会、私立学校連盟、基督教教育同盟会、内外協力会の各理事を務めた。

 学院退職後、1951年第2代帝塚山学院長兼第2代短期大学学長に就任、56年大阪市教育委員会委員長も務めた。
C.J.L.ベーツ、H.W.アウターブリッヂに続いて、59年に名誉博士号を受けた。

【参照】Ⅰ 373,564;Ⅱ 34,103,170【文献】『帝塚山学院年譜』1996

神崎驥一

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