[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
河上丈太郎
かわかみじょうたろう
1889.1.3~1965.12.3
理事、政治家。
東京に生まれる。
第一高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業。
立教大学講師を経て、1918年4月、関西学院高等学部文科(社会学科)教授に就任。
経済学、統計学、法律学を教える。
28年、第1回普通選挙に立候補し当選、29年3月に学院を辞任、無産政党の創立に尽力する。
44年12月、永井柳太郎の死去に伴い、翌45年1月から46年7月まで後任の関西学院理事に就任。
45年の日本社会党創立の中心的役割を担うが、第2次世界大戦後は公職追放となる。
51年の追放解除後、52年、右派社会党委員長に就任、社会党左右両派の統一における中心的働きをなす。
61年以降は5期連続で社会党委員長を務めた。
父河上新太郎の影響もあり銀座教会に籍を置く熱心なキリスト教徒であり、「十字架委員長」の呼称でも知られる。
【参照】Ⅰ 368,566【文献】『河上丈太郎―十字架委員長の人と生涯』1965;『河上丈太郎日記』2014
東京に生まれる。
第一高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業。
立教大学講師を経て、1918年4月、関西学院高等学部文科(社会学科)教授に就任。
経済学、統計学、法律学を教える。
28年、第1回普通選挙に立候補し当選、29年3月に学院を辞任、無産政党の創立に尽力する。
44年12月、永井柳太郎の死去に伴い、翌45年1月から46年7月まで後任の関西学院理事に就任。
45年の日本社会党創立の中心的役割を担うが、第2次世界大戦後は公職追放となる。
51年の追放解除後、52年、右派社会党委員長に就任、社会党左右両派の統一における中心的働きをなす。
61年以降は5期連続で社会党委員長を務めた。
父河上新太郎の影響もあり銀座教会に籍を置く熱心なキリスト教徒であり、「十字架委員長」の呼称でも知られる。
【参照】Ⅰ 368,566【文献】『河上丈太郎―十字架委員長の人と生涯』1965;『河上丈太郎日記』2014