[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
学校法人聖和大学
学校法人聖和大学の起源は1880年にさかのぼるが、「聖和」の名は、1941年にアメリカン・ボード(会衆派)の神戸女子神学校とアメリカ・南メソヂスト・ミッションのランバス女学院が合併して成立した聖和女子学院に由来し、「聖なる和合(Holy Union)」を意味する。
このランバス女学院は、神戸にあったランバス記念伝道女学校と広島女学校保姆師範科を統合して、21年、大阪に設立された学校であった。
すなわち、学校法人聖和大学は、神戸女子神学校、ランバス記念伝道女学校、広島女学校保姆師範科をその起源としている。
神戸女子神学校は、アメリカン・ボードの宣教師で神戸英和女学校の教師であったJ.E.ダッドレーとM.J.バローズが1880年10月、神戸の花隈の借間で始めた日本初の女性伝道者養成のための聖書学校を起源とする。
この年を神戸女子神学校および学校法人聖和大学は創立の年とした。
81年、この聖書学校は中断を余儀なくされたが、84年11月、ダッドレーとバローズは、神戸の中山手通6丁目番外1、通称59番において、神戸女子伝道学校として再開した。
1908年、校舎が新築され、日本語の校名が神戸女子神学校となった。
26年、アメリカン・ボードの婦人伝道会の事情から補助金が激減。
女子神学校の経営は困難となった。
頌栄保姆伝習所や神戸女学院との合同案や閉校案が検討されたが、30年、移転と存続が決まった。
その決定に基づいて、岡田山の神戸女学院の隣接地1,280余坪(約4,224㎡)を取得。
従来の神学科に新たに社会事業科を加え32年10月に移転した。
この校地を中心として41年、聖和女子学院が成立。
現在は関西学院西宮聖和キャンパスの一部となっている。
ランバス記念伝道女学校は、アメリカ・南メソヂスト監督教会の宣教師でJ.W.ランバスの妻、関西学院の創立者W.R.ランバスの母であるM.I.ランバスが自身の住居であった神戸の山二番館で日本人女性を対象に始めた婦人学舎が発展して、1888年9月、彼女を校長とする女性伝道者養成のための学校として正式に発足したことを起源とする。
伝道者志望の生徒が減少し、手芸学校となった期間の後、98年、中山手通4丁目に新校舎が完成し、伝道者養成課程が復活。
1900年、ランバス記念伝道女学校と称せられるようになった。
広島女学校保姆師範科は、アメリカ・南メソヂスト監督教会の宣教師で広島英和女学校の初代校長であったN.B.ゲーンズが1895年に始めた同校の保姆養成科を起源とする。
それに先立つ91年、ゲーンズは幼稚園を開園した。
この幼稚園は現在の聖和幼稚園の起源である。
1908年、保姆養成科は保姆師範科に改組された。
後の学校法人聖和大学のモットーの一つ、Head,Heart,Handと校章は、広島女学校保姆養成科に由来する。
大正時代を迎え広島女学校は発展し、その再編が課題となり1918年、ゲーンズは広島女学校再編案の検討をミッションとW.R.ランバス監督に依頼した。
翌19年、広島女学校とランバス記念伝道女学校の再編案を検討する委員会が設置され、ゲーンズも委員の一人となった。
同年、アメリカ・南メソヂスト・ミッションの年会において、広島女学校保姆師範科とランバス記念伝道女学校を統合し、クリスチャン・ワーカー養成のための新しい学校を大阪に設立することが決まった。
ランバス女学院は、この決定に基づいて設立された学校であった。
大阪の上本町6丁目、通称上六の大阪電気軌道のターミナルの近く(現在の近鉄大阪上本町駅の北)に約1,191坪(約3,930㎡)を取得。
1921年、その土地にあった歯ブラシ工場の建物を利用し、ランバス女学院保育専修部を開校。
22年には幼稚園を開園した。
同年、新校舎の建設が始まり、翌23年完成。
それに伴って神戸より神学部が合流し、日本語の校名をランバス女学院とし、英語の校名をLambuth Training School for Christian Workersとした。
W.M.ヴォーリズ設計の新校舎は、中庭を持つコの字形で鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上4階で、建坪245余坪(約808㎡)、延べ床873余坪(約2,880㎡)、全館暖房給湯設備、水洗トイレを備え、幼稚園もこの建物の一部に収まった。
後の学校法人聖和大学のスクール・モットー、“All for Christ”は、ランバス女学院のスクール・モットーを受け継いだものであった。
1933年、ランバス女学院は、大阪毎日新聞社が31年に大阪市東成区猪飼野町(現在の生野区桃谷5丁目)で始めていたセツルメント内に開設された大毎保育学園の教育を担うことになった。
37年、大阪毎日がこのセツルメント事業から撤退。
その後、この保育事業は鶴橋学園として継続されたが、45年、空襲によって園舎が焼失した。
49年、鶴橋学園は聖和女子学院附属鶴橋学園となった。
現在は、社会福祉法人聖和共働福祉会のもとで、聖和社会館および大阪聖和保育園となっている。
1940年、ランバス女学院は愛国婦人会の圧力を受け、同年12月、土地建物を同会に譲渡することを決定。
直ちに交流があった神戸女子神学校に合同の可能性を打診し、前向きの回答を得、同月、譲渡の覚書に調印。
学校の土地建物を無償譲渡し、金一封50万円を受け取った。
これ以降、両校は集中的に会合を重ね、1941年3月、合併後の校名を「聖なる和合(Holy Union)」を意味する聖和女子学院と決定し、ランバス女学院院長廣瀬ハマコを院長に選出した。
ランバス女学院には土地建物の譲渡という緊急の問題があったが、世界恐慌、日米関係の悪化、日本の戦時体制等のために、両校とも単独での存続が困難な状況にあった。
ランバス女学院は、西宮の河原町48番地の旧西宮子供ホームの土地1,600坪(約5,280㎡)と建物を取得した。
これを寄宿舎とし、旧神戸女子神学校の校舎と寄宿舎をそれぞれ第一校舎、第二校舎として、聖和女子学院が成立した。
届出上は、神戸女子神学校の校名および学則の変更となり、ランバス女学院は廃校となった。
1941年5月27日、聖和女子学院は開校式を挙行。
後の学校法人聖和大学は、この日を創立記念日とした。
聖和女子学院は当初、保育学部、神学部、社会事業部の3学部となる予定だったが、保育学部と神学部のみの開講となった。
同年、軍国主義政府の統制によりプロテスタント各派は合同し、日本基督教団が成立。
それに伴って、プロテスタント各派の女子神学校を、東京に新設される日本女子神学校に一本化することとなり、43年3月をもって神学部は閉部。
4人の在学生は日本女子神学校に編入となった。
同年4月、社会事業部が開設されたがその年度をもって廃止となり、在学生は保育学部へ編入となった。
1945年8月終戦。
学生、教職員、校舎、寄宿舎は無事だった。
46年7月、アメリカン・ボードから、聖和女子学院が神学部を失って保育学部のみとなっていることは合同条件に対して違法であるという異議申し立てがあった。
翌47年8月、アメリカン・ボード側の求めによって会合が持たれ、神学部を失ったことは最善を尽くした結果であり、やむを得ないことであったとの理解が得られた。
このことを受け、神学部に代わるものとして、新しい宗教教育指導者養成の学科設立への道を模索することとなった。
1949年8月、戦後の学制改革の中で、短期大学の設置基準が決定され、聖和女子学院は同年10月、短期大学設置申請書を提出した。
同年、隣接地6,567㎡を取得。
翌50年3月、保育科と宗教教育科から成る聖和女子短期大学の設置認可。
同年4月、開学。
51年、財団法人から学校法人聖和女子短期大学への変更が認可された。
52年、新校舎完成。
55年、講堂完成。
58年、山川道子が聖和女子短期大学第3代学長に就任。
その後、隣接地を順次取得。
61年、『聖和八十年史』刊行。
63年3月、宗教教育科の卒業生6名が日本基督教団より日本初のキリスト教教育主事に認定された。
同年、4年制大学設置を目指して、調査・研究を開始。
同年9月、申請書類を提出。
翌64年、学校法人聖和女子大学が認可された。
聖和女子短期大学は、その後も存続し、聖和短期大学、聖和大学短期大学部を経て、学校法人関西学院聖和短期大学となっている。
1964年4月、キリスト教教育学科と幼児教育学科から成る教育学部を持つ聖和女子大学が開学した。
この幼児教育学科は日本初の幼児教育の4年制大学課程であった。
初代学長は山川道子。
校舎やグラウンドの整備が進められた。
4年制大学課程の設置を目指した当初より、幼児教育学の研究と幼児教育者の養成のためには、大学院が必要であるとの認識があった。
1972年、大学院設置申請書を提出。
翌73年3月、日本初の教育学研究科幼児教育学専攻修士課程の設置が認可された。
1970年、創立90周年を記念して乳幼児センターの設立を目指すことを決定。
72年、社会福祉法人聖和福祉会認可。
73年4月、社会福祉法人聖和福祉会乳幼児保育センターが開所され、現在に至っている。
1980年、創立100周年を記念して、阪田寛夫作詞、大中恩作曲による校歌「新しき歌」(現、聖和短期大学学歌)が制定された。
81年、学校法人聖和大学認可。
初代理事長山川道子、初代学長松永晋一。
同年、聖和大学大学院が共学となり、翌82年、教育学部が共学となった。
1986年、生きた英語力を持つ有用な女性の養成を目的として、短期大学に英語科を新設。
92年、教育学研究科幼児教育学専攻博士課程が開設された。
94年12月、教育学部キリスト教教育学科を改組したキリスト教学科と新設の英米文化学科から成る人文学部の設置が認可された。
1995年1月、阪神・淡路大震災が発生した。
園児1名が死亡、学生4名が負傷、物的被害の査定額は12億3,500万円であった。
同年4月、人文学部開設。
2002年3月をもって短期大学部英語科を廃止。
同年4月より、人文学部英米文化学科をグローバル・コミュニケーション学科に名称変更。
2007年3月、学校法人聖和大学の茂純子理事長は、学校法人関西学院の山内一郎理事長とともに法人合併協定書に調印。
それに基づいて09年4月、学校法人聖和大学は学校法人関西学院と合併し解散した。
これに伴って聖和大学短期大学部は学校法人関西学院聖和短期大学となり、聖和大学附属聖和幼稚園は学校法人関西学院聖和幼稚園となった。
合併後の4年間は、学校法人関西学院のもとで聖和大学が存続したが、13年3月、在学生がすべて卒業し聖和大学は廃止された。
【文献】『聖和八十年史』1961;『聖和保育史』1985