[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
1881.4.16~1944.12.4
理事。
早稲田大学教授、政治家。
金沢市に生まれる。
1897年、同志社中学校第3学年に入学。
98年の同校のストライキに参加。
ユニテリアンであった安部磯雄教頭の配慮で自主退学。
その後、99年に関西学院普通学部へ入学。
同年、神戸美以教会で最初の演説「病的日本の内科的治療」を行う。
1901年に受洗、9月に東京専門学校へ入学。
同校が早稲田大学と改称した翌年に政経学部に在籍。
在学中、足尾銅山被害民救済会や早稲田大学雄弁会で活躍。
04年「産業保護政策に就て」を演説して大隈重信に認められる。
05年、卒業。
06年、ユニテリアン団体の推薦で奨学金を得、オックスフォードにあったマンチェスター・カレッジに留学、09年に帰国して早稲田大学教授となり、社会政策、植民地政策を講義。
20年には衆議院議員に当選(当選8回)、憲政会に入党。
31年には立憲民政党幹事長。
斎藤実、近衛文麿(第1次)、安部信行各内閣で拓務大臣(1932)、逓信大臣(1937)、逓信大臣兼鉄道大臣(1939)となる。
議員として普通選挙法、電力国家管理法、大日本育英法の通過に尽力した。
著書に『社会問題と植民問題』(1912)、『植民原論』(1921)、『永井柳太郎氏大演説集』(1924)、戯曲『大隅重信』(1932)などがある。
1944年9月、大東亜中央病院(現、聖路加国際病院)に入院。
最後に身内以外で永井が会ったのは級友神崎驥一だけであった。
永井は関西学院について「日本で門のない学校は関西学院だけであった」と語り、その影響について「オクスフォードは我に世界を紹介し、早稲田は日本を、関西学院は我に人世をしらしめた」(「母校今昔物語」)と語った。
また、普通学部を中学部に改称する際、その認可には、関西学院の卒業生であり当時早稲田大学の教授であった永井と大隈の人脈は、文部省との交渉役としてその働きは大きかった。
さらに、1929年の40周年記念式で「敬天愛人敬神興国」を主唱したり、31年、財団法人関西学院の設立時より死去する44年まで理事を務めた。
また、32年7月の訪問で、旧制中学部のスクール・モットー「大心海」(中学部所蔵)と「公明正大」(高等部所蔵)を揮筆するなど、絶えず関西学院とのつながりを大切にした。
永井の伝記には、同志社の自主退学、早稲田騒動での追放、民政党からの脱党を踏まえ、「永井自ら、『僕には叛逆の血が流れている』などといったことがあるが、関西学院だけは終始一貫、強い因縁の糸に結ばれていたのである」と書かれている。
京都大学助教授、東京工業大学教授、朝日新聞論説委員を経て、三木武夫内閣文部大臣、上智大学、国連大学長顧問となった永井道雄の父である。
【参照】Ⅰ 165,415,455,590;Ⅱ 36【文献】『中学時報』(23)1932;『永井柳太郎』1959;中村賢二郎「母校今昔物語(1)」『母校通信』(9, 11-12)1952;土屋博政『ユニテリアンと福沢諭吉』2004;土屋博政「日本のユニテリアンの盛衰の歴史を語る」『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学』(47)2005
早稲田大学教授、政治家。
金沢市に生まれる。
1897年、同志社中学校第3学年に入学。
98年の同校のストライキに参加。
ユニテリアンであった安部磯雄教頭の配慮で自主退学。
その後、99年に関西学院普通学部へ入学。
同年、神戸美以教会で最初の演説「病的日本の内科的治療」を行う。
1901年に受洗、9月に東京専門学校へ入学。
同校が早稲田大学と改称した翌年に政経学部に在籍。
在学中、足尾銅山被害民救済会や早稲田大学雄弁会で活躍。
04年「産業保護政策に就て」を演説して大隈重信に認められる。
05年、卒業。
06年、ユニテリアン団体の推薦で奨学金を得、オックスフォードにあったマンチェスター・カレッジに留学、09年に帰国して早稲田大学教授となり、社会政策、植民地政策を講義。
20年には衆議院議員に当選(当選8回)、憲政会に入党。
31年には立憲民政党幹事長。
斎藤実、近衛文麿(第1次)、安部信行各内閣で拓務大臣(1932)、逓信大臣(1937)、逓信大臣兼鉄道大臣(1939)となる。
議員として普通選挙法、電力国家管理法、大日本育英法の通過に尽力した。
著書に『社会問題と植民問題』(1912)、『植民原論』(1921)、『永井柳太郎氏大演説集』(1924)、戯曲『大隅重信』(1932)などがある。
1944年9月、大東亜中央病院(現、聖路加国際病院)に入院。
最後に身内以外で永井が会ったのは級友神崎驥一だけであった。
永井は関西学院について「日本で門のない学校は関西学院だけであった」と語り、その影響について「オクスフォードは我に世界を紹介し、早稲田は日本を、関西学院は我に人世をしらしめた」(「母校今昔物語」)と語った。
また、普通学部を中学部に改称する際、その認可には、関西学院の卒業生であり当時早稲田大学の教授であった永井と大隈の人脈は、文部省との交渉役としてその働きは大きかった。
さらに、1929年の40周年記念式で「敬天愛人敬神興国」を主唱したり、31年、財団法人関西学院の設立時より死去する44年まで理事を務めた。
また、32年7月の訪問で、旧制中学部のスクール・モットー「大心海」(中学部所蔵)と「公明正大」(高等部所蔵)を揮筆するなど、絶えず関西学院とのつながりを大切にした。
永井の伝記には、同志社の自主退学、早稲田騒動での追放、民政党からの脱党を踏まえ、「永井自ら、『僕には叛逆の血が流れている』などといったことがあるが、関西学院だけは終始一貫、強い因縁の糸に結ばれていたのである」と書かれている。
京都大学助教授、東京工業大学教授、朝日新聞論説委員を経て、三木武夫内閣文部大臣、上智大学、国連大学長顧問となった永井道雄の父である。
【参照】Ⅰ 165,415,455,590;Ⅱ 36【文献】『中学時報』(23)1932;『永井柳太郎』1959;中村賢二郎「母校今昔物語(1)」『母校通信』(9, 11-12)1952;土屋博政『ユニテリアンと福沢諭吉』2004;土屋博政「日本のユニテリアンの盛衰の歴史を語る」『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学』(47)2005