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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

農学部設置計画

 文科系中心の関西学院にあって、第2次世界大戦後すぐに理事会が自然科学系教育機関の設立に熱心に取り組んだにもかかわらず、この計画が結局実現しなかったことはほとんど知られていない。
この間の経緯は、当時の理事会記録にわずかに痕跡を残すのみである。

 1946年1月19日および30日の理事会で、神崎驥一院長は、学院の将来の発展と農科の増設などを考慮して、旧陸軍連隊跡地や旧航空隊飛行場跡地などの払い下げを文部省、大蔵省、第2復員省、兵庫県などと折衝していることを報告した。
特に30日の理事会で、院長は、関西学院大学は人文・社会科学分野には進出しているが、自然科学分野を欠いている点を指摘し、農学部、医学部の2学部を設置し、総合大学として発展を計ることが必要であることを提唱した。
学院には、42年から43年にかけて、卒業生の間で農学部設置の運動があったといわれている。
第2次世界大戦直後の日本政府内には、不要となった陸軍用地を教育機関に払い下げる動きがあり、これが、理事会が学院の拡充を考えるに際して、陸軍跡地を視野にいれた理由であろう。
戦後の深刻な食糧危機のさなか、農学部設置は自然な考えであったと言える。

 旧陸軍跡地は篠山や福知山連隊跡地など数箇所について調査したが、1947年4月12日の理事会において、加古川の尾ノ上村飛行場跡地の払い下げ案が進展し、陸軍通信隊、陸軍病院、飛行練習地の土地80万坪(約264万㎡)、建物11,000坪(約36万3,000㎡)の譲渡を請願中であることが報告された。
前日11日には常務理事5名が現地視察を行っている。

 自然科学系学部の設置については、同年5月の理事会で、古武弥四郎、山本五郎、H.W.アウターブリッヂ、R.スミス、木村蓬伍、丹羽俊彦、原田脩一、神崎驥一の8名を委員とする「関西学院総合大学設立準備委員会」が設けられ、理科系統学部新設案(農科、医科)の具体化が始まった。
また、設立費用として、医科7,500万円、農科5,000万円の計1億2,500万円(うち2,500万円国内募金、1億円外国募金)が計画された。

 1947年10月の準備委員会で、医学部、農学部の併設は最も希望するところであるが、財政その他の点を考慮し、さしあたり農学部の開設より着手することが決められた。
農学部には、農学科、畜産科、農業経営科を置き、水産科については県当局の意見を聞いた上で決定する。
農学部とあわせて栄養研究所または食品化学研究所、製薬研究所および病院を設置する。
開設の時期は49年、場所は尾ノ上村を予定地とし、畜産科ならびに果樹園のために、必要な場合は青野ケ原の一部を追加することが決められた。

 さらにこのとき、農学部設置計画を「国際基督教総合大学設立計画」に関連づけることが提案された。
この全国規模のキリスト教主義総合大学設立構想は、1947年頃に、日米のキリスト教関係機関の間で浮上してきたものである。
関西学院のキリスト教関係者の間では、キリスト教主義総合大学を東京に集中して設置することに反対する考え方が強く、既設のキリスト教学校と何らかの形でつながりを持つように設立すべきであるとする意見が強かった。
理事会は、関西学院の農学部計画を、キリスト教主義総合大学設立計画の一環として推し進めることを考え、49年2月の理事会で、神崎驥一、H.W.アウターブリッヂ、古武弥四郎、山本五郎、丹羽俊彦の5名の特別委員を選び、検討が続けられた。
加古川の陸軍用地跡を土地・建物合計240万円で買収する交渉を進めるとともに、農学部設置計画の具体案作成を京都大学名誉教授菊池秋雄に依頼した。

 しかし、結局、新キリスト教主義総合大学は国際基督教大学という名称で既設のキリスト教大学とは独立して、東京三鷹に設立されることになった。
それとともに、1950年2月に、計画の強力な推進者であった神崎驥一院長が退任したこともあり、関西学院に農学部を設置する動きは立ち消えとなった。

【参照】Ⅱ 28,199
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