[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
原田の森の建物群
原田の森キャンパスの校舎群の建築は、大きく3期に分けて行われた。
第1期は関西学院創立時のもので、1889年に木造2階建て第一校舎兼寄宿舎(後の南寮)および木造平屋建て付属棟、翌年第二校舎(後の北寮)、94年に本館(1908年に3階建てに改装、やがて旧館とされる)、04年にブランチ・メモリアル・チャペル、さらに日本人教員住宅や外国人宣教師館などが建てられている。
最初の2棟の校舎は当初、1階が教室で2階が寄宿舎であったが、本館完成後はもっぱら寮として使用され、南寮は神学部生、北寮は普通学部生のものとされた。
本館は大分県竹田出身の柳原翆蔵の監督のもとに建てられ、木造2階建て(建坪144坪:約475㎡)で教室や図書室をもち、ようやく本格的な校舎としての体裁が整えられた。
チャペルの建設は、それまで学院が専用礼拝堂をもたなかったことからも強く求められたもので、02年にS.H.ウェンライトが訪米し、建設資金獲得に奔走した。
そのために一少年が手にしたコインを捧げたというエピソードも残されているが、原田の森キャンパス土地購入に際して資金を提供したT.ブランチ(Thomas Branch)の息子J.Pブランチ(John Patteson Branch, 1830-1915)がチャペル建設資金提供を申し出たことから、彼の名がチャペルに冠せられた。
設計はイギリス人のM.ウィグノールで、初期英国風ゴシック・スタイルによる煉瓦造りで、04年10月に献堂された。
22年に中央講堂で礼拝が行われるようになってからは、図書閲覧室と書庫として使われた。
さらに08年、普通学部生徒の増加や高等学部開設への動きの中で本館の拡充が行われ、3階建てとして改装し、院長室、学部長室、教員室、教室などが充実された。
第2期はカナダ・メソヂスト教会の経営参加、高等学部設置という経過の中で、本格的なキャンパス拡充が行われた時期で、1910年からの拡充計画によるものであった。
まず学院校地の東および東北の1万坪(約3万3,000㎡)の土地を購入し、そこに校舎が建てられていった。
その一連の設計を行ったのがW.M.ヴォーリズで、以後彼は長く学院キャンパスの設計を担当することになった。
最初の建物は神学館で、12年3月竣工、煉瓦造り2階建て、一部3階建て、建坪98坪(約323㎡)で、教室、小講堂(チャペル)、図書閲覧室、宗教博物館室などを備え、正面玄関の[マグサ、木ヘンに眉]には「真理将使爾得自主」の文字が刻まれていた。
次いでそれまで本館で高等学部校舎を共用してきた普通学部のための専用校舎が建設された。
全体がE字型で600人の生徒を十分に収容できる規模であった。
木造2階建て下見板張りの外壁の一部にハーフティンバーデザインを用いた独特の建物で13年3月に竣工している。
しかしこの校舎は完成4年後に焼失した。
さらにこの期間に、学生寮として12年に木造2階建ての神学部生用の寮である成全寮、啓明寮(1916)、自修寮(1919)が建てられ、また、木造コロニアル・スタイルによる宣教師館(マシュース邸、ベーツ邸、西住宅、ウッズウォース邸、クラッグ邸)なども建設されている。
14年、校地西側道路に沿って塀が設けられ、その道路と本館とブランチ・メモリアル・チャペルの間の道路が出会う場所にヴォーリズ建築事務所設計の正門が建てられた。
原田の森キャンパス校舎建設の第3期は1917年以後の校地拡充計画によるもので、普通学部校舎の焼失という不幸な事件を踏まえて耐火性の面でも注意が払われた。
最初は普通学部(中学部)校舎の再建で、19年に完成した。
煉瓦および鉄筋コンクリート3階建て、建坪369坪(約1,217㎡)であった。
しかしこの校舎にはチャペルは含まれず、その機能は次いで建築された中央講堂に委ねられた。
中央講堂は22年4月に竣工、正面にペディメント(三角形の切妻破風)およびドリス式付柱を配した古典的デザインで、建坪238坪(約785㎡)、ギャラリーも含めて内部に1,600席をもつ講堂で礼拝や学院行事に利用された。
また、この講堂は、院長室、秘書課、礼拝主事室、社交室、食堂などを備え、学院行政の中央機能をあわせもっていた。
当時、神戸市東部付近にこのような講堂はなく、市民の文化的な行事の拠点ともなった。
その後、高等学部用校舎が順次建築された。
まず文学部校舎が22年11月に献堂された。
スレート葺き煉瓦造り2階建て、地上地下合わせた総建坪が約290坪(約957㎡)、背面には曲線デザインを配していた。
最後に、学生数の急増のため仮校舎で教育が行われていた高等商業学部校舎が23年3月に完成した。
文学部と同じくスレート葺き煉瓦造り2階建て、総建坪約454坪(約1,498㎡)の本格的な校舎であった。
また、日本メソヂスト教会日曜学校局との合意によって18年にハミル館が完成している。
これらの建築でキャンパス整備は一応終わり、17年の建築計画にあった図書館だけが、ブランチ・メモリアル・チャペルを仮図書館として使用されることで建設に至らなかった。
関西学院の上ケ原移転後、これらの校舎は順次取り壊され、唯一残されたブランチ・メモリアル・チャペルが神戸市によって修復復元、市民ギャラリーとして活用され、2006年神戸ゆかりの文学についての展示を公開する「神戸文学館」として開館した。
さらに正門とハミル館は上ケ原キャンパスに移築されている。
原田の森キャンパスには、本館の南側(現在の原田の森ギャラリー付近)と中学部校舎の南側の2箇所にグラウンドがあった。
どちらも運動部の活動拠点として利用され、特に、中学部校舎南側のグラウンドでは、学院の運動会が開催され、学生をはじめ多くの近隣の方の楽しみの一つとなった。
上ケ原移転前の最後の運動会では、約3万人の観衆があったといわれている。
今では、グラウンドの形をそのままに残して神戸市立王子動物園の遊園地として多くの来園者に親しまれている。
創立125周年記念事業として作られた原田の森キャンパスの模型は、大学博物館で常設展示されている。
【参照】Ⅰ 94,301
第1期は関西学院創立時のもので、1889年に木造2階建て第一校舎兼寄宿舎(後の南寮)および木造平屋建て付属棟、翌年第二校舎(後の北寮)、94年に本館(1908年に3階建てに改装、やがて旧館とされる)、04年にブランチ・メモリアル・チャペル、さらに日本人教員住宅や外国人宣教師館などが建てられている。
最初の2棟の校舎は当初、1階が教室で2階が寄宿舎であったが、本館完成後はもっぱら寮として使用され、南寮は神学部生、北寮は普通学部生のものとされた。
本館は大分県竹田出身の柳原翆蔵の監督のもとに建てられ、木造2階建て(建坪144坪:約475㎡)で教室や図書室をもち、ようやく本格的な校舎としての体裁が整えられた。
チャペルの建設は、それまで学院が専用礼拝堂をもたなかったことからも強く求められたもので、02年にS.H.ウェンライトが訪米し、建設資金獲得に奔走した。
そのために一少年が手にしたコインを捧げたというエピソードも残されているが、原田の森キャンパス土地購入に際して資金を提供したT.ブランチ(Thomas Branch)の息子J.Pブランチ(John Patteson Branch, 1830-1915)がチャペル建設資金提供を申し出たことから、彼の名がチャペルに冠せられた。
設計はイギリス人のM.ウィグノールで、初期英国風ゴシック・スタイルによる煉瓦造りで、04年10月に献堂された。
22年に中央講堂で礼拝が行われるようになってからは、図書閲覧室と書庫として使われた。
さらに08年、普通学部生徒の増加や高等学部開設への動きの中で本館の拡充が行われ、3階建てとして改装し、院長室、学部長室、教員室、教室などが充実された。
第2期はカナダ・メソヂスト教会の経営参加、高等学部設置という経過の中で、本格的なキャンパス拡充が行われた時期で、1910年からの拡充計画によるものであった。
まず学院校地の東および東北の1万坪(約3万3,000㎡)の土地を購入し、そこに校舎が建てられていった。
その一連の設計を行ったのがW.M.ヴォーリズで、以後彼は長く学院キャンパスの設計を担当することになった。
最初の建物は神学館で、12年3月竣工、煉瓦造り2階建て、一部3階建て、建坪98坪(約323㎡)で、教室、小講堂(チャペル)、図書閲覧室、宗教博物館室などを備え、正面玄関の[マグサ、木ヘンに眉]には「真理将使爾得自主」の文字が刻まれていた。
次いでそれまで本館で高等学部校舎を共用してきた普通学部のための専用校舎が建設された。
全体がE字型で600人の生徒を十分に収容できる規模であった。
木造2階建て下見板張りの外壁の一部にハーフティンバーデザインを用いた独特の建物で13年3月に竣工している。
しかしこの校舎は完成4年後に焼失した。
さらにこの期間に、学生寮として12年に木造2階建ての神学部生用の寮である成全寮、啓明寮(1916)、自修寮(1919)が建てられ、また、木造コロニアル・スタイルによる宣教師館(マシュース邸、ベーツ邸、西住宅、ウッズウォース邸、クラッグ邸)なども建設されている。
14年、校地西側道路に沿って塀が設けられ、その道路と本館とブランチ・メモリアル・チャペルの間の道路が出会う場所にヴォーリズ建築事務所設計の正門が建てられた。
原田の森キャンパス校舎建設の第3期は1917年以後の校地拡充計画によるもので、普通学部校舎の焼失という不幸な事件を踏まえて耐火性の面でも注意が払われた。
最初は普通学部(中学部)校舎の再建で、19年に完成した。
煉瓦および鉄筋コンクリート3階建て、建坪369坪(約1,217㎡)であった。
しかしこの校舎にはチャペルは含まれず、その機能は次いで建築された中央講堂に委ねられた。
中央講堂は22年4月に竣工、正面にペディメント(三角形の切妻破風)およびドリス式付柱を配した古典的デザインで、建坪238坪(約785㎡)、ギャラリーも含めて内部に1,600席をもつ講堂で礼拝や学院行事に利用された。
また、この講堂は、院長室、秘書課、礼拝主事室、社交室、食堂などを備え、学院行政の中央機能をあわせもっていた。
当時、神戸市東部付近にこのような講堂はなく、市民の文化的な行事の拠点ともなった。
その後、高等学部用校舎が順次建築された。
まず文学部校舎が22年11月に献堂された。
スレート葺き煉瓦造り2階建て、地上地下合わせた総建坪が約290坪(約957㎡)、背面には曲線デザインを配していた。
最後に、学生数の急増のため仮校舎で教育が行われていた高等商業学部校舎が23年3月に完成した。
文学部と同じくスレート葺き煉瓦造り2階建て、総建坪約454坪(約1,498㎡)の本格的な校舎であった。
また、日本メソヂスト教会日曜学校局との合意によって18年にハミル館が完成している。
これらの建築でキャンパス整備は一応終わり、17年の建築計画にあった図書館だけが、ブランチ・メモリアル・チャペルを仮図書館として使用されることで建設に至らなかった。
関西学院の上ケ原移転後、これらの校舎は順次取り壊され、唯一残されたブランチ・メモリアル・チャペルが神戸市によって修復復元、市民ギャラリーとして活用され、2006年神戸ゆかりの文学についての展示を公開する「神戸文学館」として開館した。
さらに正門とハミル館は上ケ原キャンパスに移築されている。
原田の森キャンパスには、本館の南側(現在の原田の森ギャラリー付近)と中学部校舎の南側の2箇所にグラウンドがあった。
どちらも運動部の活動拠点として利用され、特に、中学部校舎南側のグラウンドでは、学院の運動会が開催され、学生をはじめ多くの近隣の方の楽しみの一つとなった。
上ケ原移転前の最後の運動会では、約3万人の観衆があったといわれている。
今では、グラウンドの形をそのままに残して神戸市立王子動物園の遊園地として多くの来園者に親しまれている。
創立125周年記念事業として作られた原田の森キャンパスの模型は、大学博物館で常設展示されている。
【参照】Ⅰ 94,301