[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
フェンシング部
東京でオリンピックが開かれる予定であった1940年、三島清春、竹原治雄、久井康裕、土方国雄たちが玉林憲義教授に部長就任を要請し、関学洋剣クラブが創設された。
東京オリンピックは戦争のために幻となったが42年には総合で全国制覇を成し遂げた。
戦時下の中断の時期を経て、48年に復活。
54年、関西エペ優勝の平岡弘士、62年全日本学生個人エペ優勝の石角笙三良などの名選手を生んだ。
63年サーベル学生王座戦で団体全国制覇を遂げた。
しかし78年、関西学生1部から2部に落ち、さらに3部へと落ちた。
現在では2部に上がり1部を目指している。
2005年から10年まで「部員不足時代」に陥り07年に男子はリーグ3部に陥落した。
女子は大崎尚美、乃村真己子の活躍で一時は1部に昇格した。
大崎は後に女子エペナショナルチームに選ばれ部史初の海外遠征を果たし、部活の低迷期を支えた。
2011年には男子は5年ぶりに2部昇格、女子も4年ぶり1部復帰した。
12年、13年には男子は2部優勝を争えるチームになり、13年には男子サーブル2部優勝。
エペ団体全日本4位の女子エペと並び関学のコア種目ができた。
2013年秋の関西学生選手権では女子川島瑞月が個人フルーレ優勝、新人戦男子松下大成がサーブル優勝、団体戦では女子エペが強豪の朝日大学と優勝を争い準優勝。
団体4種目、個人15名の全日本学生選手権大会出場が決まった。
この成果は創部以来の最多出場である。
またこの年代には、体育会スポーツ功労賞を大崎(2007)、乃村(2009)、村田佐起子(2013)といずれも女子部員が受賞した。
【文献】『関西学院大学体育会OB会倶楽部会報』(9)1979;『関西学院大学フェンシング部60周年記念誌』2000;フェンシング部OB,OG会会報誌『マルシェ』(創刊号)2009
東京オリンピックは戦争のために幻となったが42年には総合で全国制覇を成し遂げた。
戦時下の中断の時期を経て、48年に復活。
54年、関西エペ優勝の平岡弘士、62年全日本学生個人エペ優勝の石角笙三良などの名選手を生んだ。
63年サーベル学生王座戦で団体全国制覇を遂げた。
しかし78年、関西学生1部から2部に落ち、さらに3部へと落ちた。
現在では2部に上がり1部を目指している。
2005年から10年まで「部員不足時代」に陥り07年に男子はリーグ3部に陥落した。
女子は大崎尚美、乃村真己子の活躍で一時は1部に昇格した。
大崎は後に女子エペナショナルチームに選ばれ部史初の海外遠征を果たし、部活の低迷期を支えた。
2011年には男子は5年ぶりに2部昇格、女子も4年ぶり1部復帰した。
12年、13年には男子は2部優勝を争えるチームになり、13年には男子サーブル2部優勝。
エペ団体全日本4位の女子エペと並び関学のコア種目ができた。
2013年秋の関西学生選手権では女子川島瑞月が個人フルーレ優勝、新人戦男子松下大成がサーブル優勝、団体戦では女子エペが強豪の朝日大学と優勝を争い準優勝。
団体4種目、個人15名の全日本学生選手権大会出場が決まった。
この成果は創部以来の最多出場である。
またこの年代には、体育会スポーツ功労賞を大崎(2007)、乃村(2009)、村田佐起子(2013)といずれも女子部員が受賞した。
【文献】『関西学院大学体育会OB会倶楽部会報』(9)1979;『関西学院大学フェンシング部60周年記念誌』2000;フェンシング部OB,OG会会報誌『マルシェ』(創刊号)2009