[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
藤田允
ふじたまこと
1925.8.29~2005.11.20
関西学院初代国際センター室長。
青森県弘前市近郊の藤崎町に生まれる。
1943年関西学院大学予科入学、48年文学部哲学科卒業。
神学部に進むが、中退。
48年11月に日本YMCA同盟学生部主事に就任し、戦後の学生YMCA運動再建に貢献。
同時に、日本学生救済会を担当し、世界からの救援物資を学生に配布する活動に従事、学生サナトリウムの建設にも取り組む。
56年、アメリカ・イーデン神学校を卒業。
64年にYMCAを辞し、日本学生奉仕団に総主事として専念。
79年、関西学院国際センターに招聘され、83年に同センター室長に就任。
海外諸大学との交流協定締結、国際セミナーの開催、アジアのキリスト教大学との交流推進に尽力したり、E.O.ライシャワー博士をはじめとする国際的著名人の招聘に当たるなど、関西学院大学の国際交流に貢献した。
84年には、イーデン神学校よりラインホルド・ニーバー賞を受賞。
91年に、関西学院を辞任後、アメリカ・ディラード大学特任教授に就任、アメリカの黒人大学として最初の日本研究講座開設に貢献した。
中曽根康弘首相の米国の黒人に対する差別発言を是正する講演旅行を行うなど、人種差別撤廃にも生涯を捧げた。
G号館の「フジタ・グローバルラウンジ」は、藤田の国際交流における貢献と学院への遺贈を顕彰して命名された。
【文献】藤田允追悼文集編集委員会編『「藤田さん」:藤田允氏追悼文集』2006;YMCA史学会編集員会編『日本YMCA人物事典』日本YMCA同盟,2013
青森県弘前市近郊の藤崎町に生まれる。
1943年関西学院大学予科入学、48年文学部哲学科卒業。
神学部に進むが、中退。
48年11月に日本YMCA同盟学生部主事に就任し、戦後の学生YMCA運動再建に貢献。
同時に、日本学生救済会を担当し、世界からの救援物資を学生に配布する活動に従事、学生サナトリウムの建設にも取り組む。
56年、アメリカ・イーデン神学校を卒業。
64年にYMCAを辞し、日本学生奉仕団に総主事として専念。
79年、関西学院国際センターに招聘され、83年に同センター室長に就任。
海外諸大学との交流協定締結、国際セミナーの開催、アジアのキリスト教大学との交流推進に尽力したり、E.O.ライシャワー博士をはじめとする国際的著名人の招聘に当たるなど、関西学院大学の国際交流に貢献した。
84年には、イーデン神学校よりラインホルド・ニーバー賞を受賞。
91年に、関西学院を辞任後、アメリカ・ディラード大学特任教授に就任、アメリカの黒人大学として最初の日本研究講座開設に貢献した。
中曽根康弘首相の米国の黒人に対する差別発言を是正する講演旅行を行うなど、人種差別撤廃にも生涯を捧げた。
G号館の「フジタ・グローバルラウンジ」は、藤田の国際交流における貢献と学院への遺贈を顕彰して命名された。
【文献】藤田允追悼文集編集委員会編『「藤田さん」:藤田允氏追悼文集』2006;YMCA史学会編集員会編『日本YMCA人物事典』日本YMCA同盟,2013