[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
マッケンジー,A.P.
McKenzie,Arthur Pearson
1889.8.14~1960.5.6
経済学部教授、カナダ・メソヂスト教会宣教師。
在日宣教師D.R.マッケンジー夫妻の子息。
トロント・ヴィクトリア大学を卒業(B.A.)後、イギリス・ケンブリッジ大学に進みM.A.を取得。
1920年、父の意志を継いで来日し、東京、愛知、岐阜、三重でミッション活動に従事する。
32年以後、関西学院で商業英語、産業心理学、心理学特殊講義などを担当した。
41年、第2次世界大戦による国際情勢の悪化に伴い帰国。
第2次世界大戦中は、ハーバード大学のU.S.Navy Language Schoolでアメリカおよびカナダの軍人に日本語を教授、カナダ陸軍中佐となり、バンクーバーのCanadian Army Language Schoolの責任者に任命された。
47年、いち早く関西学院に帰任、新制大学発足後の経済学部を中心に教鞭をとった。
自ら浅間健児を名乗り、江戸っ子ばりの巧みな日本語による講義に加え、新制中学部の英語テキストの編纂、朝日放送「英会話」の講師など多方面で活躍した。
1952年、カナダ・ミッション・ボードの代表として国際基督教大学の招聘を受け転出したが、父子2代にわたり理事を務めるなど、関西学院と日本の伝道と教育、そしてキリスト教文化振興のために遺した足跡は大きい。
60年、トロントで死去、青山霊園外人墓地に分骨されている。
【参照】Ⅰ 492,494;Ⅱ 20
在日宣教師D.R.マッケンジー夫妻の子息。
トロント・ヴィクトリア大学を卒業(B.A.)後、イギリス・ケンブリッジ大学に進みM.A.を取得。
1920年、父の意志を継いで来日し、東京、愛知、岐阜、三重でミッション活動に従事する。
32年以後、関西学院で商業英語、産業心理学、心理学特殊講義などを担当した。
41年、第2次世界大戦による国際情勢の悪化に伴い帰国。
第2次世界大戦中は、ハーバード大学のU.S.Navy Language Schoolでアメリカおよびカナダの軍人に日本語を教授、カナダ陸軍中佐となり、バンクーバーのCanadian Army Language Schoolの責任者に任命された。
47年、いち早く関西学院に帰任、新制大学発足後の経済学部を中心に教鞭をとった。
自ら浅間健児を名乗り、江戸っ子ばりの巧みな日本語による講義に加え、新制中学部の英語テキストの編纂、朝日放送「英会話」の講師など多方面で活躍した。
1952年、カナダ・ミッション・ボードの代表として国際基督教大学の招聘を受け転出したが、父子2代にわたり理事を務めるなど、関西学院と日本の伝道と教育、そしてキリスト教文化振興のために遺した足跡は大きい。
60年、トロントで死去、青山霊園外人墓地に分骨されている。
【参照】Ⅰ 492,494;Ⅱ 20