[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
松本益吉
まつもとますきち
明治3<1870>.8.19~1925.12.17
神学部教授。
広島市に生まれる。
1887年、J.W.ランバスから受洗。
関西学院神学部に入学したが、勉学半ばの96年に渡米、アズベリー、ヴァンダビルト、イェールの諸大学に学ぶ。
1902年、帰国と同時に関西学院神学部教授に就任し、新約釈義、聖書神学、社会学を講じる。
誠実な教育者としての生き方は多くの学生に影響を与え、「何事でも人から相談を受けた時に拒み得ない心の人であった、殊に弱い者、若い者、苦しむ者から頼まれた時に『否』と云ひ難い温情の持主であった」と語られている。
1908年、学院の20周年を機に同窓会の改革と再興が叫ばれて初代会長に選出され、学院との密接なる関係を築き同窓会発展のために貢献。
学院の機構的拡充に対応する院長職務の補佐の必要性から副院長制が導入され、20年、副院長に選出。
関西学院の要職を務めるかたわら、国際連盟協会・日米協会の幹部として国際親善にも尽力。
また23~25年には学院の礼拝主事として貢献した。
著書に『新約聖書神学』(1937)のほか、G.B.スティーヴェンス『耶蘇の教』(1907)の翻訳などがある。
【参照】Ⅰ 237,280,382,403【文献】『神学評論』(21)1934
広島市に生まれる。
1887年、J.W.ランバスから受洗。
関西学院神学部に入学したが、勉学半ばの96年に渡米、アズベリー、ヴァンダビルト、イェールの諸大学に学ぶ。
1902年、帰国と同時に関西学院神学部教授に就任し、新約釈義、聖書神学、社会学を講じる。
誠実な教育者としての生き方は多くの学生に影響を与え、「何事でも人から相談を受けた時に拒み得ない心の人であった、殊に弱い者、若い者、苦しむ者から頼まれた時に『否』と云ひ難い温情の持主であった」と語られている。
1908年、学院の20周年を機に同窓会の改革と再興が叫ばれて初代会長に選出され、学院との密接なる関係を築き同窓会発展のために貢献。
学院の機構的拡充に対応する院長職務の補佐の必要性から副院長制が導入され、20年、副院長に選出。
関西学院の要職を務めるかたわら、国際連盟協会・日米協会の幹部として国際親善にも尽力。
また23~25年には学院の礼拝主事として貢献した。
著書に『新約聖書神学』(1937)のほか、G.B.スティーヴェンス『耶蘇の教』(1907)の翻訳などがある。
【参照】Ⅰ 237,280,382,403【文献】『神学評論』(21)1934