[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
小山東助
おやまとうすけ
1879.11.24~1919.8.25
高等学部文科長。
宮城県気仙沼に生まれる。
1896年、仙台第二高等学校入学、1900年、東京帝国大学文科哲学科入学時に大学基督教青年会寄宿舎に入舎し、さらに海老名弾正の牧会する本郷教会で教会生活を送る。
東京帝国大学卒業後、東京毎日新聞社入社、政治的な主張を紙上で展開、その後、早稲田大学講師として倫理および新聞研究科の講座を担当。
13年に、開設間もない関西学院高等学部文科に文科長として就任した。
当時の高等学部文科のカリキュラム整備に努力し、15年、同科を英文学科、哲学科および社会学科の3科制とし、新聞学、社会福祉学などの課程の充実に努めた。
かねてより強い関心を抱いていた政界での活動を志して、15年に学院を去り、衆議院議員として活躍したが、19年、肺炎により没した。
雅号を鼎浦と称し、『久遠の基督教』(1912)、『光を慕いて』(1913)などのキリスト教関係の書物を著すほか、『六合雑誌』、『新人』さらに『大学評論』、『第三帝国』などの雑誌にも盛んに投稿した。
【参照】Ⅰ 338
宮城県気仙沼に生まれる。
1896年、仙台第二高等学校入学、1900年、東京帝国大学文科哲学科入学時に大学基督教青年会寄宿舎に入舎し、さらに海老名弾正の牧会する本郷教会で教会生活を送る。
東京帝国大学卒業後、東京毎日新聞社入社、政治的な主張を紙上で展開、その後、早稲田大学講師として倫理および新聞研究科の講座を担当。
13年に、開設間もない関西学院高等学部文科に文科長として就任した。
当時の高等学部文科のカリキュラム整備に努力し、15年、同科を英文学科、哲学科および社会学科の3科制とし、新聞学、社会福祉学などの課程の充実に努めた。
かねてより強い関心を抱いていた政界での活動を志して、15年に学院を去り、衆議院議員として活躍したが、19年、肺炎により没した。
雅号を鼎浦と称し、『久遠の基督教』(1912)、『光を慕いて』(1913)などのキリスト教関係の書物を著すほか、『六合雑誌』、『新人』さらに『大学評論』、『第三帝国』などの雑誌にも盛んに投稿した。
【参照】Ⅰ 338