[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
矢内正一
やないまさいち
1900.2.1~1984.3.26
理事長、新制中学部初代部長、名誉中学部長。
兵庫県佐用郡に生まれる。
1918年、姫路中学校、24年、関西学院高等商業学部を卒業。
同年、関西学院中学部教諭に就任、英語を教える。
32年、高等商業学部教授、44年、中学部教頭、47年、新制中学部初代部長。
65年、定年退職。
69年から74年まで理事長を務める。
18年間、中学部長として中学部教育に携わり、その教育理念は現在も中学部の指針となっている。
矢内は私学をプロテスト・スクールであると定義づけ、中学部が「キリスト教的な価値観を身につけさせる場、自己鍛錬の場」でありたいと願った。
イギリスのパブリックスクールに教育の理想を求め、学問と同時に、宗教的精神・運動家精神の涵養を重視した矢内は、キャンプ、始業前の駆け足、甲陽学院中学校との定期戦等の実施という形で、それを実践していった。
これらの行事は、形は変わったものの現在も中学部の伝統として続いている。
退職後、西宮市教育委員長、箕面自由学園高等学校・中学校・小学校・幼稚園長、神戸女学院理事、聖和女子大学理事などを歴任した。
著書に『一隅の教育』(1965)、『人間の幸福と人間の教育』(1980)がある。
【参照】Ⅱ 84,92,300,386,483,491【文献】『関西学院高中部百年史』1989
兵庫県佐用郡に生まれる。
1918年、姫路中学校、24年、関西学院高等商業学部を卒業。
同年、関西学院中学部教諭に就任、英語を教える。
32年、高等商業学部教授、44年、中学部教頭、47年、新制中学部初代部長。
65年、定年退職。
69年から74年まで理事長を務める。
18年間、中学部長として中学部教育に携わり、その教育理念は現在も中学部の指針となっている。
矢内は私学をプロテスト・スクールであると定義づけ、中学部が「キリスト教的な価値観を身につけさせる場、自己鍛錬の場」でありたいと願った。
イギリスのパブリックスクールに教育の理想を求め、学問と同時に、宗教的精神・運動家精神の涵養を重視した矢内は、キャンプ、始業前の駆け足、甲陽学院中学校との定期戦等の実施という形で、それを実践していった。
これらの行事は、形は変わったものの現在も中学部の伝統として続いている。
退職後、西宮市教育委員長、箕面自由学園高等学校・中学校・小学校・幼稚園長、神戸女学院理事、聖和女子大学理事などを歴任した。
著書に『一隅の教育』(1965)、『人間の幸福と人間の教育』(1980)がある。
【参照】Ⅱ 84,92,300,386,483,491【文献】『関西学院高中部百年史』1989