[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
上ケ原移転
1919年から始まった関西学院の大学昇格運動は大学設置(2学部)に必要な供託金60万円の捻出で行き詰まったが、24年にキャンパスの移転が具体的化した。
加えて、当時の原田の森キャンパス周辺は市街地化が進行し、もはやキャンパスとしてふさわしいものではなくなってきたことも移転の一因であった。
しかし、創立以来40年を経た原田の森キャンパスの移転に対しては、創立者の建学の精神とその発祥地を守るべきだとする主張があり、また神戸市出身の生徒が多かった中学部の移転は学校経営にとって大きな不安材料でもあった。
中学部だけでも原田の森キャンパスにとどまることが神の御旨であるという意見もあり、27年9月の理事会まで、中学部の移転を決定することはできなかった。
このような状況の中で新キャンパスの有力候補として挙がったのは、神戸大学が現在ある六甲台と上ケ原であった。
当時の神戸市長黒瀬弘志は、関西学院が神戸の地から離れることを懸念し、六甲台を推していた。
一方、上ケ原を斡旋したのは、高等商業学部教授菊池七郎の知人で実業家の河鰭節であった。
上ケ原は、阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)の開発予定地となっていた。
当初、理事会は六甲台購入を検討していたが、六甲台移転の場合には、阪神急行電鉄専務小林一三に原田の森キャンパスを購入する意思がないことが明らかになった。
三宮への阪神急行電鉄乗り入れを企図していた小林は、原田の森キャンパスを神戸市に寄贈することを考慮していたからである。
1925年夏、菊池七郎、高等商業学部長神崎驥一、文学部長H.F.ウッズウォース、理事H.W.アウターブリッヂらが上ケ原を下見した。
この間、学内では種々の計画が練られる一方、神崎と小林との間で交渉が続けられた。
27年5月の臨時理事会で、2万6,700坪(約8万8,110㎡)の原田の森キャンパスの売却と7万坪(約23万1,000㎡)の上ケ原の土地購入が決定された。
この売買に際して、神崎と小林は直接交渉し、28年2月になって販売価格320万円、購入価格55万円の条件で正式に契約を交わした。
1928年2月には上ケ原キャンパスの起工式が執行され、29年2月よりトラック、牛馬車で移転を開始し、予定どおり3月31日に完了した。
【参照】Ⅰ 436【文献】「関西学院新聞」1927.5.30
加えて、当時の原田の森キャンパス周辺は市街地化が進行し、もはやキャンパスとしてふさわしいものではなくなってきたことも移転の一因であった。
しかし、創立以来40年を経た原田の森キャンパスの移転に対しては、創立者の建学の精神とその発祥地を守るべきだとする主張があり、また神戸市出身の生徒が多かった中学部の移転は学校経営にとって大きな不安材料でもあった。
中学部だけでも原田の森キャンパスにとどまることが神の御旨であるという意見もあり、27年9月の理事会まで、中学部の移転を決定することはできなかった。
このような状況の中で新キャンパスの有力候補として挙がったのは、神戸大学が現在ある六甲台と上ケ原であった。
当時の神戸市長黒瀬弘志は、関西学院が神戸の地から離れることを懸念し、六甲台を推していた。
一方、上ケ原を斡旋したのは、高等商業学部教授菊池七郎の知人で実業家の河鰭節であった。
上ケ原は、阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)の開発予定地となっていた。
当初、理事会は六甲台購入を検討していたが、六甲台移転の場合には、阪神急行電鉄専務小林一三に原田の森キャンパスを購入する意思がないことが明らかになった。
三宮への阪神急行電鉄乗り入れを企図していた小林は、原田の森キャンパスを神戸市に寄贈することを考慮していたからである。
1925年夏、菊池七郎、高等商業学部長神崎驥一、文学部長H.F.ウッズウォース、理事H.W.アウターブリッヂらが上ケ原を下見した。
この間、学内では種々の計画が練られる一方、神崎と小林との間で交渉が続けられた。
27年5月の臨時理事会で、2万6,700坪(約8万8,110㎡)の原田の森キャンパスの売却と7万坪(約23万1,000㎡)の上ケ原の土地購入が決定された。
この売買に際して、神崎と小林は直接交渉し、28年2月になって販売価格320万円、購入価格55万円の条件で正式に契約を交わした。
1928年2月には上ケ原キャンパスの起工式が執行され、29年2月よりトラック、牛馬車で移転を開始し、予定どおり3月31日に完了した。
【参照】Ⅰ 436【文献】「関西学院新聞」1927.5.30