メニュー

関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

ランバス,W.R.

Lambuth,Walter Russell Thornton

1854.11.10~1921.9.26

初代院長。
南美以神戸教会初代牧師。
アメリカ・南メソヂスト監督教会(MECS)ジャパン・ミッションの創立者J.W.ランバスとM.I.ランバスの息子。
父の中国伝道開始の年、上海に生まれる。
ヴァンダビルト大学で神学と医学を修める。
1876年、MECSテネシー年会の執事に任じられ、ウッドバイン教会の初代スチューデント・パスターを務めた後、翌77年、長老の按手を受ける。
同年8月2日、中国・南メソヂスト宣教師の娘であったD.ケリー(Daisy Kelley,1858-1923)と結婚、11月に上海へ渡り、医療伝道を開始。
81年一時帰米し、ニューヨーク・ベルビュー大学病院にて東洋医学を研究、同病院より学位取得、翌年上海に帰任。
86年11月24日、MECSジャパン・ミッションの総理として神戸へ着任し、南美以神戸教会初代牧師に就任。
88年、関西学院創立に着手、アメリカ・南メソヂスト監督教会の命を受け、89年、無一文の中、神戸の地で関西学院創立を目指した。
巨額の費用を要する事業だったが、ランバスの祈りが通じ、当時の外国為替業務を取り扱っていた香港上海銀行(略称HSBC、香港の有力英商が1865年に設立)神戸支店(居留地2番地、現、農業会館)から無担保の2,000円の融資、またアメリカの銀行家T.ブランチ(Thomas Branch)らの献金を呼んで実現する。
なお、HSBCの経営手法は、その後に設立された横浜正金銀行(現、三菱東京UFJ銀行)のモデルとなった。

 ランバスの背後にあった思いは「祈りを建設的な力とするためには、明確な目標をもった祈りである限り大胆でなければならない」との信念であった。
翌年9月28日の関西学院創立に伴い初代院長に就任。

 1890年12月16日、妻の病のため離日、本国伝道局において活躍し、1910年、海外ミッション担当の監督に選任される。
21年、さらなる世界伝道のためシベリアから中国、朝鮮を回り、8月末に日本を再訪するが発病し、9月26日、横浜にて病没する。
最後の言葉は "I shall be constantly watching." だった。
ランバス家の故郷ミシシッピー州の一家の働きを記念する碑に刻まれる彼の人生を表した言葉 "World Citizen" は、今日関西学院の教育目的の一つとなっている。
著書にWinning the World for Christ, 1915, Side Lights of the Orient for Young Readers, 1908がある。

【参照】Ⅰ 44,115【文献】W.W.Pinson, Walter Russell Lambuth:prophet and pioneer,1924;『神戸栄光教会七十年史』1958;『関西学院創立者ランバス伝』1959;山崎治夫『地の果てまで:ランバス博士の生涯』1967;W.W.ピンソン、半田一吉訳『ウォルターラッセルランバス:prophet and pioneer』2004

ランバス,W.R.

TOP