[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
理工科
(1944-1946)
関西学院専門学校理工科は、第2次世界大戦下の1943年10月22日に発令された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に基づき、44年4月に開設された関西学院最初の理科系高等教育機関である。
航空機科100名、合成化学科50名、製薬工業科50名の3科で構成され、3年制で、大学商経学部(旧制)の建物(現、経済学部の建物)が校舎として使用された。
理工科長には、東京工業大学教授で同窓の大住吾八が就任した。
当時の社会情勢を反映して入学志願者は多く、44年度は3,104名、45年度は1,946名であった。
しかし、戦時下に急遽設置された教育機関であったため基盤が弱く、戦後その存続をめぐって多くの問題を抱えていくことになる。
戦後、日本では航空機の製造が禁止になったため、航空機科は45年11月に工業経営科に改編された。
さらに、46年4月には理工科は理工専門部に改組された。
【参照】Ⅰ 595;Ⅱ183
航空機科100名、合成化学科50名、製薬工業科50名の3科で構成され、3年制で、大学商経学部(旧制)の建物(現、経済学部の建物)が校舎として使用された。
理工科長には、東京工業大学教授で同窓の大住吾八が就任した。
当時の社会情勢を反映して入学志願者は多く、44年度は3,104名、45年度は1,946名であった。
しかし、戦時下に急遽設置された教育機関であったため基盤が弱く、戦後その存続をめぐって多くの問題を抱えていくことになる。
戦後、日本では航空機の製造が禁止になったため、航空機科は45年11月に工業経営科に改編された。
さらに、46年4月には理工科は理工専門部に改組された。
【参照】Ⅰ 595;Ⅱ183