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学院史編纂室便り

No. 10
1999年12月3日
関西学院学院史編纂室

No.10 (1999.12.3)

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『バスカム先生ご夫妻を囲む会』の開催—10月26日

1995年3月まで宣教師として経済学部で教えておられたバスカム名誉教授夫妻が、 10月22日から11月8日まで、4年半ぶりに来日されました。バスカム名誉教授は、『関西学院百年史』の編纂委員として、 特に英文資料の解読・整理の分野で大きな貢献をされました。10月26日午後3時から時計台2階にご夫妻をお迎えし、山内院長司会のもと、米国での生活の様子などを英語でお話しいただきました。 約15名の参加者からも様々な質問が飛び出し、バニラティーの甘い香りにつつまれ、和やかな雰囲気の1時間でした。

ベーツ第4代院長関係資料の調査・収集

ベーツ元院長が亡くなって36年になりますが、この度、ご遺族のアルマン・デメストラル氏(ベーツ元院長の長女の長男、モントリオール在住)、 スコット・ベーツ氏(ベーツ元院長の三男の孫、トロント在住)のご好意により、遺品を見せていただくことができました。 9月24日から10月5日まで、学院史資料室員がカナダを訪問し、関係者と懇談すると共に、遺品の確認を行いました。 遺品の中には、日記、書簡、写真等、本学にとっても貴重な資料となるものが多く含まれており、 必要なものは複写して本学にも保存しておきたいと考えています。

神戸市立小磯記念美術館特別展への協力

10月8日から11月28日まで、神戸市立小磯記念美術館にて、特別展『川西英と神戸の版画-三紅会に集った人々-』 が開催されました。その際、三紅会のメンバーだった本学oBの神原浩氏(中学部で美術を教えていたこともある)や北村今三氏の作品も展示されることになり、 高等部、中学部、学院史資料室所蔵のエッチング、関学高等商業学部同窓会報等を貸し出しました。
三紅会は、1929年に阪神間の版画家が集まって結成され、神戸における版画創作、発表、普及活動の場として大きな役割を果たしました。

第2回『関学歴史サロン』の開催について(お知らせ)
まもなく創立111周年を迎える本学の歴史について、少しでも多くの方に興味を持ってもらいたいとの主旨から、 今年度より時計台2階で、教職員・学生・一般の方を対象に、『関学歴史サロン』を開催しています。今年度のテーマは「『関西学院百年史』を読む」で、 その第2回目を次のように行いますのでぜひご参加ください。
日 時:12月8日(水)14:50~16:20
14:15より開場しますので、講演開始まで音楽とお茶をお楽しみください。
場 所:西宮上ケ原キャンパス時計台2階
講 師:藤田太寅総合政策学部教授(NHK解説委員)
演 題:「ランバスの頃のキリスト教伝道」

ベーツ第4代院長の辞任について

~ベーツ院長の手紙から明らかになったこと~

この度、ベーツ第4代院長のご遺族アルマン・デメストラル氏(ベーツ院長の長女ルルの長男)とその弟チャールズ・デメストラル氏のご好意により、 ベーツ院長がその長女夫婦に宛てた150通余りの書簡を見せていただく機会を得た。その中に院長辞任の状況を説明したものがあった。
p日本と英米の関係が急速に悪化しつつあった今から59年前の12月30日、ベーツ第4代院長は30年に及ぶ本学での生活を終え、 神戸港から妻と共にカナダへ帰国の途についた。ベーツ院長辞任の経緯については『関西学院百年史通史編Ⅰ』に次のように説明されている。

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このような国際情勢の悪化と国内キリスト教代表機関の動向は、アメリカ、カナダ、日本三国のメソヂスト教会合同経営の関西学院に重大な影響を及ぼした。殊にベーツ院長以下の外国人宣教師の立場は苦しいものになっていった。警察当局はアメリカ人やイギリス人宣教師をスパイ視し、絶えず監視していた。さらに、アメリカ人やイギリス人宣教師と親しく付き合う日本人にも疑いの目が向けられる事態となっていた。
1940(昭和15)年5月26日、ベーツ院長は院長、学長、専門部長職からの辞任を理事会に申し出た。学院在任30年間、そして院長として20年間学院を育て導き、学生・教職員に深く敬愛されていたベーツ院長の突然の辞任申し出は学院の内外に大きなショックを与えた。続いて、6月1日アウターブリッヂ法文学部長・専門部文学部長も辞表を提出した。アウターブリッヂ部長は前年2月のウッズウォース法文学部長・専門部文学部長急逝の後をうけてその職に就いていたが、それ以前にはギリシャ語と組織神学を講ずる傍ら長く学院の財政部門を担当し、上ケ原移転や大学開設に貢献した。

(略)

ベーツ院長の辞表提出をうけた理事会は、6月中旬に非公式の常務理事懇談会を開催して協議し、7月4日の臨時理事会において決定することにした。臨時理事会の冒頭、阿部義宗理事会議長が経過を報告、これをめぐって懇談がなされた。その後、ベーツ院長が出席、自ら辞表提出の理由を述べた。理事会はさらに種々討議したが、結局ベーツ院長の意思を受け入れることにした。アウターブリッヂ部長の辞表提出も同様に慎重審議の末、承認することになった。ただ、両氏とも後任が決定するまでその職にとどまることが確認された。

(略)

ベーツ院長は院長辞任後間もなく帰国することになった。1940(昭和15)年12月2日、理事会はベーツ前院長を名誉院長に推戴することを議決し 阿部議長より送辞が述べられ、同窓会は謝恩記念金を贈呈した。

(略)

ベーツ前院長夫妻は12月30日、神戸港より海路帰国の途についた。当日、神戸埠頭には多数の教職員、学生、同窓生が集まり、別れを惜しんだ。

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ベーツ院長は辞任が承認された理事会の4日後、カナダ・ケベック州に住む娘夫婦に宛て手紙を書いた。その中には、理事会の様子や、今の自分の状況これからの予定等が書かれている。そしてこの後、いつものように夏休みを高山(宮城県塩竈)で過ごした。美しい海辺で趣味の油絵を描きながら、どのような思いで最後の夏を過ごしたのだろうか。もっとも、ベーツ院長自身、この時点ではこれが最後になるとは思っていなかったのだが・・・。
手紙の文面からは、遠く離れたカナダに住む娘に余計な心配をかけまいとする親心が感じられる。と同時に、皮肉的表現を含む独特のユーモアのセンスも見受けられる。 さらにベーツ院長は、この後も数年は日本にいられるものと考えていたことがわかる。院長辞任後、最後の1~2年を東京で過ごしたいとの希望を述べている。東京は1902年に結婚後来日して最初に過ごした想い出の地なのである。ところが、日米開戦に向けて、世界情勢はベーツ院長の予測をはるかに超えるスピードで悪化していった。この手紙を書いた半年後の新年をベーツ院長はカナダに帰国する船の上で迎えることになるのである。(翻刻、英文解釈に関して、ジュディス・ニュートン文学部教授の協力を得ました。)
[ ベ ー ツ 院 長 の 手 紙 (抄 訳)]
1940年7月8日
ルルとクロードへ

(略)

7月4日に理事会が開催され、私の院長辞任とアウターブリッヂ氏の部長辞任が承認されました。それは、痛みを伴わない手術でした。私は、その間、隣の部屋で眠っていました。審議には1時間半かかりました。私は、『タイム』の最新号を読んで眠ってしまいましたが、話を聞きに来るよう呼びに来たマシューズ氏に突然起こされました。話は短く、間違いようもないものでした。「あなたの辞任は承認されました。」阿部議長によって日本語で同じ意味のことが言われました。その時その場に乾いている頬は一つもありませんでした。しかし皆を濡らしていたのは涙ではなく汗でした。何かすてきなことが話され、理事会は葬式を執り行う、あるいは遺体を運び出すことになりました。その時が来たら、それは疑いようもなくすばらしいお葬式になるでしょう。しかし、今の私は死線を超えた、彷徨えるユダのようです。古城に住む、死んでいるのにまだ埋葬されていないスコットランドの幽霊[シェイクスピアの『マクベス』より]のようです。なぜなら、後継者が見つかり、推薦され、選出され、任命され、承認され、認知され、就任するまで、私はここにとどまらなければならないからです。後継者はまだ姿も見えないのです。したがって、この残留はとても不確定なものなのです。この状態は、数ヶ月間は続くに違いありませんし、数年間続くかもしれません。私の希望は、来年の夏まではここにいて、その後、最後のお別れをするため、私達が38年前に生活を始めた東京に行き、そこで1~2年過ごすことです。

(略)

審議の中で言われた主な理由は、現在の国際的な緊張と学校の長を日本人とすることの見識です。それは私の言った理由の一つでした。その他は、年齢のことと私が最後の外国人メソヂストの校長であるという事実です。
昨日と一昨日、私は辞任すべきでないと言う学生達に取り囲まれました。アメリカ生まれの学生の1人として、「ゴショ」という名の学生が文科の学生を代表して 英語で言いました。「ベーツ先生、辞めないでください。アウターブリッヂ先生も辞めないでください。私達がそう思っていることをわかってください。」

(略)

こちらの情勢は不可解です。あなた方は私達と同じくらい、おそらくそれ以上によくわかっているでしょう。私達は、ただ待って見守ることしかできません。
そして、人々の心が変わり、神のご意志がなされることを望み、祈るだけです。
父より

 

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