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学院史編纂室便り

No. 9
1999年7月1日
関西学院学院史編纂室

No.9 (1999.7.1)

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『関学歴史サロン』の開催—5月13日 講師:海老坂 武教授

まもなく創立111周年を迎える本学の歴史に対して、少しでも多くの方に興味を持ってもらいたいとの主旨から、今年度より時計台の2階で、教職員・学生・一般の方を対象に、『関学歴史サロン』を開催することになりました。今年度のテーマを「『関西学院百年史』を読む」とし、その第1回目が5月13日(木)に行われました。
当日は午後2時過ぎに時計台2階をオープンし、リードオルガンの美しい音色の中、約30名の来場者には、バニラティーとお菓子がふるまわれました。2時50分の講演開始までの一時、オルガン演奏や数々のパネルと今までに発行された年史の展示により、本学の歴史を感じ取っていただけたのではないかと思います。
2時50分、山本栄一室長より、当日の講師、文学部フランス文学科の海老坂武教授が紹介され、4時20分まで「大学と私」というタイトルで講演いただきました。
講演は『関西学院百年史』の感想、講師の学生時代の想い出を交えての時代分析、フランス留学時代の話と進められました。東京ご出身で、3年前に本学に赴任された同教授の本学の歴史に対する切り口は、ユニークで歯切れが良く、『関西学院百年史』に対する興味と理解が一層深まったことと思います。内容は、今年度末に発行予定の『関西学院史紀要』に再録致します。
『関学歴史サロン』は、秋学期にも時計台2階で開催する予定です。日程等決まりましたら、掲示、ホームページ等でご案内しますので、今回聞き逃された方もぜひご参加ください。

『関西学院百年史通史編索引』の刊行—3月20日

1989年に創立百周年を迎えた関西学院の正史である『関西学院百年史』全4巻は、8年の歳月を経て、1998年3月に完結しましたが、この度、通史編の索引を発行致しました。
索引は「人名」と「事項」からできています。「人名」については、学院関係者だけでなく、時代の中で触れられている直接関係のない方々についても、ほぼ網羅しています。「事項」は、できるだけ、機構の変化や時代の流れの中での名称の変化が明らかになるよう考慮して拾い上げています。
過去に『百年史通史編』を申し込まれた方には『索引』をお送りしています。まだ受け取っておられない方は、学院史資料室までお申し出ください。

ポーランド・ウッジ大学に故梅田良忠教授(文学部)にちなんだ部屋が—田中 敦助教授

5月9日から23日まで、共同研究と講義のためポーランドのウッジ大学を訪れていた田中 敦助教授(経済学部)から、同大学博物館に「梅田ルーム」が設けられるとの報告があり、関係のメダルが学院史資料室に寄贈されました。部屋の名前となる故梅田良忠教授は、1955年に本学文学部史学科に就任されましたが、在職中の61年に病気のため他界されています。同教授は1922年にワルシャワ大学入学後、東欧にて活躍され、45年に帰国されてからは日本に数少ない東欧通として著名でした。殊にポーランドの言語・文学については第一人者であり、葬儀は東京の聖アンセルモ教会においてポーランド人司祭ユスチノ神父により執り行われています。詳細は、今年度末に発行予定の『関西学院史紀要』に掲載する予定です。

関西学院西宮上ケ原キャンパス歴史マップ

今年は、関学が1929年に原田の森(現阪急神戸線王子公園駅西北)から上ケ原に移転して、ちょうど70年になります。今の上ケ原キャンパスの中で、移転当時の面影や移転後70年の歴史が感じられる物を中心にまとめました。 学内散策の折りに、本学の長い歴史に思いを馳せてください。
(マップ略:必要な方は学院史資料室までお申し出ください。)

ここに木が繁り、芝生も出来て道も美しくなってくれば、又どれだけその落ち着きは増すことだろう。なんと言っても今では未だ落ち着かない。(略)
まず商学部校舎の裏から講堂の横、消費組合の前にかけては未だに凸凹田園のままだ。雑草生い繁りそのままである。同窓会の寄附によって出来たという正門もあるにはあるがこれに続く塀はない。扉を作って閉めてみても横からフリーだと言う。現金なもので未だ扉は出来てない。最もおかしく名物なのは針のない時計台。大阪毎日の紙上に迄阪神七不思議の一となって載ったとか。出来る筈であったのがさて時計台が出来てしまってから二千円かかるからとか三千円だとか、要するに金がないのでつけられないんだそうである。いいかげんな予算を作ったもんだし、今更言っても愚痴ではあるが、とにかく困った時計台である。スタンドのない運動場も一時問題を起こしかけたが要る程の人も来ないだろうというわけで沙汰やみとなり(略)。図書館裏の池は村民の飲料水になるんだそうだが、夏中ここは選手に非[ざ]る河童連のとびこむ處。「この池で水泳する者は必ず水泳着を着用せられたし 院長」の立て札が立ててあるというのも新学院風景でなければならない。

<『文学部回顧』(1931年1月1日発行)より抜粋>

移転時の上ケ原キャンパスのレイアウトについては、『関西学院百年史 通史編Ⅰ』にわかりやすい説明があります。

そのレイアウトには、基本的には甲山山頂の三角点とキャンパスの前に広がる芝川農園(果樹園)を抜ける道路を結ぶ直線をキャンパスの基本的軸線として設定し、その左右に対照的に学園機能を振り分けて配置するという特徴的なアイデアを採用している。まずこの軸線上に、キャンパスのかなめとなる機能を持つ建築物が置かれた。キャンパスの入り口としての正門と、学問の府に必須とされる図書館である。(略)正門を入ると右側に宗教館が置かれ、左側には総務館が宗教館に向かい合っていた。つまり軸線の右手には学院の精神的・霊的な基盤となる役割を持つ建物があり、左手には現実の学院経営の中枢となる機能が配置されている。軸線を挟んで精神的な機能と現実的な機能を左右に置くレイアウトは、さらに中央芝生を挟んで、右手に神学部、文学部(後に大学法文学部)、左手に中央講堂、高等商業学部(後に大学商経学部)という学部棟の配置にも当てはまる。もう一つ軸線を挟んだ対称関係は、原田の森より引き継がれた学生・教職員の生活の場としてのキャンパスの意味を継承するように、上ケ原校地の右手には10棟の宣教師館と6棟の日本人住宅、左手奥には成全、啓明、静修の3学生寮が置かれていた。

また、第7代院長アウターブリッジ先生(H.W.Outerbridge「私は外橋英一でございます」との自己紹介で有名)は、上ケ原移転にまつわるエピソードとして次のような想い出を書いています。

新キャンパスに関してもうひとつおもしろい話があります。この話は、一般には、少なくとも学校関係者以外には知られていません。私達が新キャンパスの場所を確保した1928年より数年前、新首都建設にふさわしい場所を検討し、推薦するため、政府の委員が任命されたと聞きました。1923年の恐ろしい地震が東京のあまりに多くの部分を破壊したので、政府の中枢を再建するために、もっと安全な場所をさがすべきであるいうことになったのです。その委員会によって推薦された場所が、今、関西学院がある場所なのです。私はこの話をいくらか躊躇しながらお話ししています。と言うのは、それを証明することは困難だからです。移転話はあまり進展しなかったようです。東京で国の商業や金融活動を支配している団体や人々の力は、そのような考えを実行するには強すぎました。しかしながら、この場所が新首都にとってすばらしい場所-大阪湾を見渡せる、日本の最も重要な2都市の間-であったことは疑いようがありません。色々な意味で、東京以上の発展を遂げたことでしょう。
<“Kwansei Gakuin Memories” by H. W. Outerbridge『関西学院七十年史』(1959年10月30日発行)より抜粋(原文は英語)>

 

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