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学院史編纂室便り

No.16
2002年11月20日
関西学院学院史編纂室

No.16(2002.11.20)

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J. C. C.ニュートン第3代院長の子孫訪問

山内一郎院長はこの夏渡米されましたが、その目的のひとつは、ニュートン第3代院長(1848~1931年、院長在任:1916~20年)の曾孫にあたるエモリー・アンダーウッド氏にお目にかかることでした。 7月30日、ノースキャロライナ州ダーラムのヒルトンホテルで、同氏ご夫妻とそのご子息ジョン・ニュートン・アンダーウッド氏ご夫妻をお招きして院長主催の夕食会が開かれました。この夕食会が実現に至ったきっかけは、大学図書館からの依頼を受けて、学院史編纂室がニュートン院長の子孫を調査したことによります。 夕食会には、調査に当たった同室池田裕子副主査も同席しました。席上、創立百周年記念式典の際、ニュートン院長関係者をご招待できなかったことをお詫びすると共に、3年前大学図書館にJ. C. C. ニュートン賞が設けられたことを伝え、近い将来アンダーウッド氏を関西学院にご招待したい旨の意思表明がなされました。
翌31日から約2週間、同副主査はニュートン院長に関する資料調査のため、ノースキャロライナ州、サウスキャロライナ州、ジョージア州、ヴァージニア州を回りました。その過程で、チャペルヒル近くのカーボロでお会いしたアマンダ・シールズさん(エモリー・アンダーウッド氏の姪)より、ニュートン院長愛用のシルクハットをご寄贈いただきました。シルクハットは専用のホルダーに入れて保管されていたため、驚くほど美しい状態に保たれています。学院史編纂室には、このシルクハットを手にしたニュートン院長(撮影時は神学部長)の写真が保管されています。
また、モントリートにあるエモリー・アンダーウッド氏のお宅では、ニュートン院長の遺品を拝見し、1923年に帰国されたニュートン院長が数々の浮世絵、陶磁器、漆器等を持ち帰られたことが明らかになりました。調査の詳細は、今年度末発行の『関 西学院史紀要』第9号に掲載される予定です。

デューク大学パーク・ランバス・シェレルツ家コレクション

今夏の訪米の際に立ち寄ったデューク大学(ノースキャロライナ州ダーラム)アーカイブズに、本学創立者W. R. ランバスの妹の孫に当たるオリーブ・ランハムさんが寄贈されたランバス家の資料を集めたコレクションがあることが判明しました 〔詳細〕

C. J. L. ベーツ第4代院長来日百年記念植樹

今年はベーツ第4代院長が来日されてちょうど百年になります。来日百年の記念植樹について、ご令孫アルマン・デメストラル氏からのお申し出とご寄付を受け、去る11月3日午前10時40分より、ベーツ館庭にて植樹式が執り行われました 〔詳細〕
*****第8回「関学歴史サロン」開催のお知らせ*****
12月4日(水)13:10~14:40 経済学部会議室(2階)
「関西学院と中国」 小玉新次郎名誉教授

ベーツ第4代院長の手紙と写真と油彩画

~高山国際村(宮城県)での調査~
Takayamaと聞くと、多くの人は「飛騨高山」を連想するだろう。しかし、ベーツ第4代院長にとってTakayamaと言えば「宮城県の高山(現宮城郡七ヶ浜町花渕浜の高山国際村)」のことであった。ベーツ院長一家が毎夏訪れていた高山は宣教師のための避暑地で、そこには現在も宣教師が所有するコテージが点在する。
戦前の宣教師は、毎年夏の2カ月間、その任地を離れ避暑地で過ごすのが通例であった。宣教師により避暑地として開発されたのは、軽井沢、野尻湖(1)、高山で、これらは「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と呼ばれていた。
関西学院で働く宣教師にとって、避暑地での滞在は、神戸・西宮の夏の暑さから逃れるというのが第一の目的であったと思われるが、日本国中に散らばっている仲間と1年に一度集まり、情報交換することのできるまたとない機会でもあった。また、太平洋を船で横断するしか手段がなかった時代に、宣教師が本国に帰ることができるのは7年毎に巡ってくる休暇の時だけだったことを考えると、普段は日本人の中に入って生活している宣教師にとって、仲間同士で気兼ねなく暮らすことのできるコミュニティの存在は心強い支えでもあったろう。
夏の間、宣教師は避暑地でただ遊んでいたわけではない。重要な案件を集中的に話し合う場としても有効に使われていた。例えば、アメリカ南メソヂスト監督教会により設立された本学の経営に、1910(明治43)年になってカナダ・メソヂスト教会が参加するのであるが、そのことを話し合ったのは1908(明治41)年夏の軽井沢であったとベーツ院長は書き残している(2)。
ベーツ院長一家が毎夏過ごしていたのは、軽井沢でも野尻湖でもなく、高山であった。そのことは、レターヘッドにTakayama, Shiogama, Miyagi Kenと書かれた手紙が何通もあることからわかっていたのだが、3年前にモントリオールの令孫アルマン・デメストラル(Armand de Mestral)氏宅でベーツ院長が残したアルバムを拝見した時、高山で撮影された写真があることに気付いた。その内の1枚には1916(大正5)年当時の高山の家の全景が写っていた。また、高山の風景を描いたベーツ院長の手による油彩画も大切に保管されていた。
今年になって、同窓の安枝修三氏(高商昭16)がベーツ院長の手紙(3)のコピーを寄贈してくださった。幸いなことに、その手紙のレターヘッドには高山の家のフルアドレス38 Takayama, Shiogama, Miyagi Kenが記載されていた。そこで、前述の写真とこの住所を手がかりに、ベーツ院長の家を探してみようと思い立った。現在、高山には文学部のニュートン教授が家を持っておられる。そこで、9月11日から16日まで同地に滞在されるニュートン教授にお願いしたところ、12日から16日まで泊めていただけることになった。
東京から乗った東北新幹線「やまびこ17号」はわずか1時間40分で仙台に到着した。そこから仙石線の「うみかぜ快速」に乗り換えると、約15分で多賀城駅に着く。土地の人の話によると、多賀城は「北の太宰府」が置かれていたところで、ここから先はアイヌの人達が住んでいたそうである。その多賀城駅前からバスで30分程行った所に「高山」という停留所がある。「高山国際村」の入り口はすぐそこである。
「高山国際村」は、松島湾の南側に当たる七ヶ浜半島の南岸にあり、菖蒲田浜と花淵浜のちょうど中間に位置する。現在、約3万坪の面積にゆったりと日本風のコテージが53軒建てられている。コテージがあるのは松の木が群生する崖の上で、崖を下ると目の前は砂浜と海である。この美しい場所を発見したのは、1888(明治21)年に仙台からハンティングで訪れた第二高等学校のハーレル(F. W. Harrell)宣教師であった。この場所を気に入った彼は、数名の仲間と協力し、その翌年、日本人の友人の名を使って10年契約で土地を借り、コテージを建てた(4)。契約を更新する頃には、この場所のことは多くの宣教師仲間に知られるようになっていた。当初は、個々人が土地所有者と賃借契約を結んでいたが、1907(明治40)年1月、一括して999年間の地上権契約が結ばれることになった。と同時に、別荘地全体の管理運営のために高山開墾合資会社がつくられた。実際に土地を売却するよりも高い金額で地上権が設定されたため、土地の所有者達は喜んでこの契約を結んだという。
最盛期には、上海や香港からも宣教師が避暑に訪れ、300人以上の人々で賑わったそうである。しかし、やがて太平洋戦争が始まり、慌ただしく宣教師が引き上げていくと、土地の人の手により建物は日本人に売却されてしまった。戦争が終わると、日本を占領した連合軍司令部は、この売却は不当であると返還を求め、建物を接収した(5)。この場所の権利と不動産が元のように高山開墾合資会社に返却されたのは、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約発効から9年経ってからのことである。
このような高山の歴史をずっと見守って来た日本人がいる。坂本多利之丞氏とその子孫である。1888(明治21)年にハーレル宣教師に付き添って来た坂本氏は、そのまま高山に住み着いてしまった。同氏は梨の産地として有名な利府(3頁地図参照)の出身で、家業は農業であったが、身体が弱かったため宣教師の書生のようなことをしていたらしい。1890(明治23)年になると同氏は米国のバービー商会から西洋野菜の種子を買い入れ、高山でトマト、ビーツ、パセリ、ルバーブなどを作り始めた。これは、東北地方で最も早い西洋野菜栽培だと言われている。これらの野菜が宣教師の家族に大いに喜ばれたことは言うまでもない。また、宣教師の家庭料理に欠かせない牛乳は、東北学院の学生が仙台から約20キロの距離を高山まで牛を連れて来て売っていたという。
現在は3代目の坂本利夫氏が水道、ガス工事の家業のかたわら、1955(昭和30)年以降、高山で野菜や缶詰等を売る店を任されるなど、高山の管理人的存在として、宣教師のよき相談相手になっておられる。そして、76歳になった現在も毎朝高山の隅から隅まで自らの足で見回ることを日課とされている。
高山に到着した夜、早速坂本氏にベーツ院長の家と油彩画の写真を見ていただいた。同氏は、「高山国際村」は高山と遠山という二つの地域からなっていて、38番の家は遠山地区にあり、現在はズィンキー(Gilbert Zinke)氏の所有であること、戦前から建物の番号は変わっておらず、38番の家は築80年以上で外観もほぼ写真の通りであること、油彩画に描かれた風景は、高山から菖蒲田浜を見たものであること、この辺りの景色は戦前とほとんど変わりないが、松の木は松食い虫の被害を受けて大幅に減ってしまったことを教えてくださった。
翌朝、遠山の38番の家に行ってみた。そこにはモントリオールで見た写真と同じ家があった。屋根は現代風に葺き替えられているが、窓の位置や2階の小さなバルコニーなど写真の通りである。訪問したのが9月中旬であったため、雨戸は堅く閉ざされ、辺りに人気もなく、ひっそりと静まりかえっていた。
午後になって坂本氏をご自宅に訪ねると、高山の古い写真や資料を用意してくださっていた。写真や新聞の切り抜きなどほとんどお父様が集められたものだそうである。これらの資料を元に、近年完成した「七ヶ浜国際村(6)」の中に「高山国際村」の資料展示コーナーが設けられている。新聞の切り抜きを見ると、昭和初期には既に高山のことがマスコミに取り上げられていたことがわかる。最近では、「東北発見 楽園はルバーブ畑とともに~外国人避暑地と坂本家の100年~」という番組が1997(平成9)年10月11日にNHK総合テレビで放映されている。
1926(昭和元)年生まれの坂本氏は、残念ながらベーツ院長一家のことは覚えておられない。ベーツ院長の最後の高山訪問となった1940(昭和15)年には14歳だったので、当時高山の世話をしていたのは同氏のお父様である。その頃の坂本氏にとっての楽しみは、同じ年頃の宣教師の子供達と遊ぶことだったそうだ。
戦後、高山が宣教師の手に返還されるにあたり様々な手続きが必要だったが、そのほとんどを代行されたのも坂本氏である。その時に使用した宣教師の代表者の印鑑を「宝物」と言って今も大切に保管されている。また、同氏はコテージ所有者のために毎年作成されているTakayama Beach Companyという生活案内誌を見せてくださった。1960(昭和35)年以前のものが見当たらないので、作成されるようになったのはおそらく1961(昭和36)年以降だろうとのことであった。戦前にもこのような冊子が作られていたら、ベーツ院長の高山での様子がもっとよくわかるのに残念である。
避暑地での生活は、宣教師の子供達にとっても特別な想い出となっていたようである。デメストラル氏は、楽しかった高山での生活について母親から何度も聞かされたそうである。ウッズウォース(H. F. Woodsworth)初代法文学部長の避暑先は、高山でなく野尻湖であったが、やはり母親から何度も話を聞いていた令孫ボニー・キャンベル(Bonnie Campbelle)さんは、昨年初めて野尻湖を訪れ、かつてお祖父様が所有されていたコテージに滞在することができたと感激しておられた。また、ホワイティング(M. M. Whiting)宣教師(7)の娘フローレンス(Florence)さんは、その著書Why Japan – in 1912? (8)の中で、野尻湖で過ごした子供時代の夏の想い出を生き生きと描いている。
西宮に戻ってから、38番の家の現所有者であるズィンキー氏(東京都東久留米市在住)に連絡を取った。親の代から38番を所有しておられる同氏は、「1952(昭和27)年にトロントのC.ベーツ氏が38番を売却した」という書類を持っていると教えてくださった。遠山の38番がベーツ院長の家であったことに、もはや疑問の余地はない。
今からちょうど百年前の9月、ベーツ院長が来日して最初に暮らした街は東京であった。東京では何軒かの家に住んだようだが、関東大震災と空襲による被害を考えると、その家が今も残っているとは考えにくい。甲府にも派遣されているが、住んでいた家に関する情報は今のところ得られていない。高山に家を持つ前は、軽井沢で夏を過ごしていたようだが、その家はどこにあるのだろうか。関西学院に来て最初に暮らした原田の森キャンパス内の住居は既に取り壊されている。本学の院長就任前に再び短期間東京で生活していたはずだが、その家のこともわからない(9)。したがって、現在、ベーツ院長の住居として確認できるのは、西宮上ケ原キャンパスのベーツ館と、高山国際村の38番だけである。
関西から宮城県は遠い。まして飛行機も新幹線もない時代のことである。関西学院を発ったベーツ院長は東京で何日か滞在してから高山に向かっていた。東京滞在中には本郷中央会堂時代の教え子達にも会っていたことだろう。かつて東京帝国大学の学生であった教え子達は、大学卒業後、政治家や官僚となって活躍していた。ベーツ院長が築き上げた東京との太いパイプが、関西学院の発展に大いに貢献したことは周知の通りである。また、高山に家を持っていたことにより、東北地方とも強いつながりがあったことがうかがえる。仙台にはメソヂスト系の仙台五橋教会がある。東北帝国大学、東北学院、宮城女学校とはどのような人脈でつながっていたのであろうか。少なくとも、高山の開発に貢献した東北学院のシュネーダー(D. B. Schneder)第2代院長とは何らかの親しい関わりがあったことだろう。東京だけでなく、東北地方におけるベーツ院長の人間関係を調べることも今後の課題のひとつである。
もしも「高山国際村」の土地が、宣教師により愛され、999年の地上権契約が結ばれることがなかったとしたら、今頃この辺りはどうなっていたであろうか? 松の木が伐採され、コンクリート製の巨大なホテルが建てられていたかもしれない。確かに、仙台からも近く、リゾート開発の対象になって当然と思えるほどの魅力的な場所である。それが宣教師の手に委ねられたことにより、美しい自然の中に溶け込んだ百年前の姿を現在にとどめることができたとも考えられる。
高山にコテージを所有する宣教師は、夏の1カ月間はそこに住まなければならないというルールがある。日米間の移動が簡単になった現在では、引退後北米に住みながら夏だけ来日し、高山での生活を楽しむ元宣教師もいる。実際、高山に家を持ちたいという宣教師は今も多い。例えば、数年前に文学部のニュートン教授が、高山の中でそれまで持っていた大きな家を手放し、小さな家に移ろうとした時、3組の宣教師が大きな家の購入を希望したそうである。しかし、希望者が多いからといって、家を増やすとか、価格をつり上げるというようなことは決してない。後輩に安く譲るというルールが徹底しているのだ。
【注】
野尻湖を開発したのは、本学理事を長年務めたダニエル・ノルマンである。
C. J. L. Bates, “Reminiscences of Kwansei Gakuin, forty years ago and since” 『関西学院六十年史』
(1949年10月29日)。
1940年7月31日付け、C. J. L. Bates よりMr. Yasueda宛書簡
したがって、「高山国際村」ができたのは関西学院と同じ1889(明治22)年ということになる。戦前は、「高山外人部落」と表現されていたようだ。
村(日本)側は、宣教師引き上げ後に行った売却の正当性を主張したが、連合軍の理解を得ることはできなかった。
「七ヶ浜国際村」には、ホール、レストラン、ギャラリー、セミナー室等が併設されている。入り口を入ってすぐ左に建てられている「プリマスハウス」の2階に「高山国際村」の展示コーナーが設けられている。ベーツ院長が所有していた38番の表札も展示されていたが、字が薄くなっていて名前は読みとれなかった。所在地は、宮城県七ヶ浜町花渕浜字大山1。
1920年から40年まで本学中学部で教鞭をとったカナダ・メソヂスト教会宣教師
Why Japan – in 1912? My missionary parents — Melvin & Olivia Whiting — My childhood – in the land of the Shogun, Florence Metcalf, Bellevue, Washington, 1989.
カナダ・メソヂスト教会が東京に所有していた宣教師住宅の調査方法について、小林信雄名誉教授より貴重なご示唆をいただいている。実際の調査は今後の課題としたい。
* * * * *
本稿は、2002年9月12日、13日の両日、高山にて坂本利夫さん・さき子さんご夫妻から伺ったお話と次の文献、および「七ヶ浜国際村」の展示【注6】を参考に執筆しました。
Takayama Beach Company 2002
Manual of the Takayama Beach Company, August 1989
『河北新報』My Town 1997年9月6日
『りらく』第1巻12号、1999年6月28日
『東北学院の100年』1986年5月15日
なお、高山には経済学部におられたバスカム先生もコテージを持っておられましたが、現在では文学部のニュートン先生の他、高等部のデルミン先生のご両親がコテージを持っておられます。今回の調査にあたり、ニュートン先生には情報提供だけでなく、坂本さんご夫妻をご紹介いただく等、数々の便宜を図っていただきました。ご協力くださった坂本さんご夫妻、ニュートン先生に改めてお礼を申し上げます。 [池田裕子]

C. J. L. ベーツ第4代院長来日百年記念植樹

昨年秋に法学部客員教授として来学されていたご令孫アルマン・デメストラル氏(カナダ・マギル大学法学部教授)は、関西学院大学から名誉学位を受けて帰国される際、記念植樹のことを口にされました。 同氏からのご提案を受け、関西学院では春に紅い葉が芽吹き、秋にも美しく紅葉する「紅シダレモミジ」を記念樹に選び、11月3日のホームカミングデーの日にベーツ館庭にて植樹式を執り行いました。 式にはお越しいただけませんでしたが、ベーツ院長の子孫を代表して同氏からメッセージが寄せられ、式の中で紹介されました

デューク大学所蔵「パーク・ランバス・シェレルツ家コレクション」(1827-1977年)

ランバス書簡やランバス愛用の聖書をご寄贈くださるなど、いつも本学の歴史に深い関心を寄せ、その発展を祈ってくださっているオリーブ・ランハムさん(本学創立者W. R. ランバスの妹の孫、ノースキャロライナ州ダーラム在住)から山内一郎院長に宛てられた手紙(2002年4月16日付け)の中に、「家族の手紙や書類はデューク大学に、その他の書類はドゥルー大学に寄贈しつつあります」という一文がありました。したがって、今夏のダーラム訪問のもうひとつの重要な目的は、ランハムさんご夫妻にお目にかかることと、デューク大学に寄贈されたコレクションを確認することでした。
W. R. ランバスの直系の子孫が絶えてしまっている現在、兄ランバスの親友と結婚し、両親と兄が去った後も中国に残り、夫と共に長く伝道活動に携わった妹ノラ・パークの孫に当たるランハムさんからの情報はとても貴重です。ランハムさんのお話によると、本学との交流は、1980年まで神学部におられたブレイ教授の令夫人フランシス・ブレイさんからの連絡により始まったそうです。そして、今回、代々受け継がれてきた大切な品物や書類を寄贈するに当たり、全米のメソヂスト教会の資料を所蔵していることで有名なドゥルー大学(ニュージャージー州)とご夫妻の母校であるデューク大学(ノースキャロライナ州)を選ばれました。
コレクションのタイトルとなっている「パーク」は、創設者ランバスの妹ノラの結婚相手(W. R. ランバスの親友)の姓です。そしてノラの娘(ランハムさんの母上)の嫁ぎ先の姓が「シェレルツ」でした。したがって、このコレクションはW. R. ランバスの祖父の代からほぼ現在に至るまでの長い期間を対象としたものです。
7月29日と30日に、デューク大学で山内院長と共にコレクションを拝見しました。
多くの書簡、写真等の中でも特に目を引いたのはランバス家の「ファミリー・バイブル」でした。それは、1854年(W. R. ランバスの生まれた年)に出版された立派な聖書 で、旧約と新約の間に書き込みのできる紙が綴じ込まれています。そこに、家族の誕生、 結婚、死亡について記録し、代々受け継いでいくのが「ファミリー・バイブル」そうです。 ランバス家の「ファミリー・バイブル」の中には1830年から89年と1858年から 1951年の間の誕生の記録、1853年から1919年と1943年から64年までの 結婚の記録、1863年から1965年までの死亡の記録が、その時々の所有者の手によ り記入されていました。
ランハムさんの手元にはまだまだ未整理の古い資料や写真が残されています。その中から、今回W. R. ランバス直筆の手紙と写真を山内院長に託してくださいました。今後もランハムさんからデューク大学への寄贈は続くと思われますので、その状況を定期的に確認するようにしたいと思います。また、ドゥルー大学での調査も必要でしょう。
関西学院第3代院長を務めたJ. C. C. ニュートン・コレクションがデューク大学にあることは既に知られていますが、この度ランバス・コレクションも加わったことにより、同大学アーカイブズは関西学院にとって一層重要な大学となりました。山内院長の母校でもあるデューク大学と、今後も何らかの形で交流を続けていくことができますよう強く願っています。 [池田裕子]

●キャンパス点描(余録)●ふたつの「学院発祥の地記念碑」

「学院発祥の地記念碑」は、神戸原田の森旧校地のブランチ・メモリアル・チャペル建て替え時の1956年に、老朽化のため解体し、学院に保管されていました。この記念碑は、学院創立111周年記念事業として「関西学院会館」が1999年10月に上ケ原キャンパスの保健館、宗教センター北側の旧日本人教職員住宅跡地に竣工開館した機会に、会館正面ゲート横に修復、移設されました。
周知のように、この「学院発祥の地記念碑」は、学院創立70周年記念のときに学院同窓会が多くの同窓の皆様に募金を呼びかけ、原田の森の旧礼拝堂ブランチ・メモリアル・チャペル前に建立されました。その後、神戸市によって、このチャペルが、神戸大空襲で失われていた尖塔部分の復旧を含め、創建当時の姿に1993年4月復元され、市民ギャラリーとして利用されています。この記念碑も、再度学院同窓会が募金を行い、原田の森旧校地の同チャペルの前庭に、石材のみかげ石の材質を新しくして、デザイン、彫刻は記念碑原形と同じく踏襲し、1993年に修復完工されました。毎年9月には、学院創立記念式典が現地で挙行されています。
このふたつの原田の森と上ケ原キャンパスの「学院発祥の地記念碑」は、いずれも創設者ランバスの自筆サイン、吉岡美国第2代院長の自筆サインと「敬神愛人」、ニュートン第3代院長の自筆サイン、ベーツ第4代院長の自筆サインと“Mastery for Service”、さらに学院沿革の碑文が刻まれ、前面中央には旧礼拝堂階段の飾り石が配置されています。
【主要参考文献・資料】
「KG TODAY」No.208.(「追想17・関西学院会館外構造園計画(小林啓一施設課主幹)」)
「同窓会会員名簿・学院創立90周年記念版」(「同窓会小史」)
「母校通信」No.16.(‘56.5「関西学院発祥の地建碑計画/原田森記念碑建立について・竹林拙三」)、No.17.(‘56.10「原田の森記念碑建設報告」)、 No.18.(‘57.5「原田の森記念碑除幕/記念碑前に立ちて・中村賢二郎/学院発祥の地建碑後記・小野忠雄/Concerning The Founders Monument C.J.L.Bates」)、 No.89.(‘92.9「学院発祥の地石碑修復への募金のお願い」)、No.90.(‘93.4「原田の森記念碑修復募金、感謝と再度のお願い」)、No.91.(‘93.9「原田の森記念碑修復完成」)
「関学ジャーナル」No.120.(‘93.4.3「本学発祥の地に復元、ブランチ・メモリアル・チャペル、往時を偲ばせる尖塔」)、No.121.(‘93.5.20「神戸市にオープン、原田の森旧チャペルが」)、 No.122.(‘93.6.29「発祥の地に残る唯一の建造物、ブランチ・メモリアル・チャペル、神戸市が4月に復元王子市民ギャラリーに、創立記念日9月28日を中心にメモリアル・ウイーク開催が決定」)
「関学ジャーナル」No.162.(‘99.7.2「関西学院会館秋に完成、関学ファミリーの憩いの場に」)
「関西学院事典」(‘01.9「関西学院会館」)
「学院広報」No.169.(‘93.12.15「発祥の地で創立記念行事」)
「資料室便り」No.6(‘88.3「学院史資料としての金石文(武藤誠)」
[松尾繁晴]

 

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