メニュー

学院史編纂室便り

No. 15
2002年5月20日
関西学院学院史編纂室

No.15 (2002.5.20)

  • Facebook
  • X
  • LINE

『関西学院史紀要』第8号の刊行

3月25日に 『関西学院史紀要』第8号 を発行しました。バックナンバーを含め、当紀要をご希望の方は学院史編纂室までご連絡ください。

アルマン・デメストラル氏への名誉博士学位授与

法学部客員教授として来学されていたアルマン・デメストラル氏に対する名誉博士学位授与式が、昨年12月20日、ランバス記念礼拝堂で行われました。名誉学位第1号は、42年前に同氏の祖父C. J. L. ベーツ第4代院長に授与されており、この度、ベーツ元院長の親友の息子に当たる今田寛学長からその孫に、29番目の名誉学位が授与されたことになります。なお、同氏が授与式で着用されたガウンは、かつてベーツ第4代院長が着用されていたもので、普段は学院史編纂室にて保管されています。

「関学歴史サロン」、「関西学院史研究月例会」の開催

年2回開催している「関学歴史サロン」の他、今年度より「関西学院史研究月例会」を開催することになりました。同窓や元教職員の方に在学中、在職中の想い出を語っていただいたり、『関西学院史紀要』執筆者に原稿には書けなかった内容や、ウラ話を披露していただきたいと考えています。場所は全て西宮上ケ原キャンパスです。学内外を問わず、関心をお持ちの方はどうぞご参加ください
第1回関西学院史研究月例会—-4月23日(火)14:50~16:20
大谷晃一「戦中、戦後を関西学院の学生として過ごして」於:時計台2階
第2回関西学院史研究月例会—-5月28日(火)14:50~16:20
小寺武四郎「原田の森と上ケ原で学んで」於:時計台2階
第7回関学歴史サロン ———-7月 3日(水)13:10~14:40
武久 堅「キリスト教主義教育の関西学院よ 何処へ」於経済学部会議室

2002年度学院史編纂室研究テーマ

2000年4月に学院史編纂室と改組されてから、当室は将来の学院史編纂の調査・研究機能を持つようになりました。 今年度の研究テーマは「院長研究-ベーツ-」と「関西学院の戦前・戦中・戦後」 です。

ベーツ第4代院長宛の手紙

~戦後の混乱期を生きた人々について~
アルマン・デメストラル氏が今回お持ちくださったベーツ第4代院長の資料の中に、戦後、本学関係者がカナダのベーツ元院長に書き送った手紙が多数あった。それらは、神崎驥一院長をリーダーに、やっとの思いで厳しい苦難の時期を生き延びてきた関西学院の戦後の混乱の様子を生々しく物語るものであった。
授業は順次再開されたものの、校舎の大半が海軍施設や軍需工場に徴用されていたため、破損が甚だしく、校舎不足は大きな問題だった。また、「交通問題や食糧不足は学生の修学を困難にしていた」(1)。さらに、勤労動員による学力低下、事態の急変による精神的混乱も深刻であった。そんな中、宣教師の復帰について、アメリカ・メソヂスト教会の「ムーア監督やカナダのベーツ元院長を通じて然るべく人物の派遣の可能性が打診され」(2)たのだった。
1946年になって、まずJ.B.カッブ夫妻が赴任してきた。翌47年には、H.W.アウターブリッヂ夫妻、A.P.マッケンジー夫妻、ロイ・スミス、E.M.クラーク、W.H.H.ノルマン夫妻がやって来た。しかし、ベーツ院長の力強いリーダーシップのもと、一致団結していた戦前の学院を知る宣教師にとって、神崎が院長を務める終戦直後の学院は違和感のあるものだったようである。その状況をカナダのベーツ元院長に伝える、おそらくカナダ人宣教師が書いたと思われる(詳細後述)手紙が残されている。その内容(部分)は次の通りである。

ヴォーリズの訪問は、神崎の無鉄砲な考えを食い止めようとしているアウターブリッヂ側に対する攻撃でした。神崎はあと2~3年くらいしか院長でいられないでしょう。だから、何か自分自身を記念するものを残したいと考えています。それで、かつて飛行機の離着陸場だった、神戸の西に当たる加古川の土地を買おうとしています—-農学部と医学部のために。(略)土地は砂地で、水道もありません。建物を—-バラックであることはさておき—-教室としてふさわしいものにするには数百万円かかるでしょう。とにかく、建物のほとんどは飛行機の格納庫なのです。そして、コンクリートの滑走路が何本かあります。o〔アウターブリッヂ〕は、ほぼ神崎の操り人形と化している理事会で戦っています。K〔神崎〕は独裁者のタイプです。部長達とうまくやって行けたためしがありません。その計画が馬鹿げているという意見に、理事会〔メンバー〕は個人的には賛成するだろうが、会議の場ではそう言い出さないだろうとo〔アウターブリッヂ〕は言っています。日本の他の地域に破壊された教会が400もあり、メソヂストの学校が5校も廃墟となっている限り、理事会は一円たりとも伝道局のお金を期待することはできないと、幸いなことにカッブは、はっきりと力強く彼らに申し渡しています。
K〔神崎〕の考えのひとつは全く子供じみています。アメリカで千ドル分のチョコレートバーを買って来て、—-〔いくらか〕で売れというのです。学院の何かの機会に彼は言いました。「今、貧相なチョコレートバーが25円で売られている。私達は千ドル分のチョコレートバーを簡単に売ることができる—-」。彼がチョコレートバーをあちら側〔アメリカ・メソヂスト〕に寄付させようとしていることは明らかです。アーサー〔・マッケンジー〕とハワードは学校当局の施しものを求める態度にほとんど半狂乱になっています。
もうひとつの元気の出ない理由—-金曜夜の集会の時、宣教師達は皆大層老けて見えました。—-以前も日本にいたことのある人間は。もちろん、皆が年をとっているわけではありません。(略)—-しかし、どういうわけか栄光と活気は、宣教師の身体から消えてしまったように思われます—-今こそ熱意でいっぱいであるはずの時なのに。もちろん、これは単に印象上のことです。実際、戻って来たのは献身的な人間です。(略)
この頃、私はアーサーのことを気の毒に思います。彼がどんなによく働くかあなたはご存じでしょう。しかし、一人の人間が何もかもすることはできません。彼はこちらの状況にかなり希望をなくしていると思います。関西学院が高水準の英語教育で有名だったことをご存じでしょう。神崎はその評判を回復し、今まで以上にしたいと思っています。しかし、今スタッフを増強する予定はありません。それはほとんど絶望的です。(略)学院のスタッフとして来る人は誰もいないように思われます。その上、神崎はキャンパスでリーダーシップを発揮することができません。彼は戦時中、学校を独裁していました。今、彼は理事会に彼自身のおとりを飼っています。彼はスタッフに尊敬されていません。あなたは、教員達が一致団結して良く働き、鉄を熱い内に打っているという印象を受けることはできないでしょう。研究水準は戦前に比べるとはるかに低くなっています。(略)
その上、宣教師の活動には死にかけたような雰囲気が漂っています。4~5年しかいないことが明らかなのは誰でしょうか? ロイ・スミスは58歳です。本来の仕事は以前やっていた農村での仕事であると自認しているクラークは、週2~3回農村に行っていて、大学では4時間しか教えていません。しかも英語は全く教えていません。カッブ夫人は、少しも聖人ぶったところのない非常に高徳な女性です。彼女は中学部で20時間教えています。しかし、カッブ〔夫〕はメソヂスト伝道を大切にしており、6人委員会の一人で、ここでは一切教えていません—-彼は、少なくとも月に1度、時にはもっと頻繁に東京に行っています。とにかく、彼らはアルミニウムのプレハブの建物ができて、神戸に移るのを心待ちにしています。そうすれば、カッブ夫人のここでの教鞭は中止されるでしょう。古い時代は終わった、関西学院に再び10人の白人スタッフを得ることはもはや期待できないと、先日、私はアーサーに言いました。ロイ・スミスは、彼ら〔アメリカ・メソヂスト〕が関西学院に本当に任命した唯一の人間です。私達の方〔カナダ・メソヂスト〕には3人の男性がいます。アメリカ・メソヂストは関西学院を重視していません。ロイ・スミスは半分神戸経済大学〔後の神戸大学、戦前は神戸高等商業学校、1929年より神戸商業大学〕で教えています。かつて彼はそこでフルタイムで教えており、もちろん帰ってきてほしいと懇願されたのです。
関西学院について、アーサーは私以上にひどいと感じています。なぜなら、彼は以前の関西学院を覚えているからです。私はここに新しくやって来ました。だから物事をなるにまかせています。とにかく、私は物事の宗教的側面により多くの関心を持っています。説教を頼まれてとてもうれしく思います。さらに、年齢による違いがあります。それは大きな違いです。私にははるかに多くの回復力があります。(略)<原文:英文タイプ>

この手紙がベーツ元院長宛に書かれたということは間違いないと思われるが、日付や差出人の部分が切り取られているため、いつだれが書いたかを知ることはできない。本文も切り分けられ、内容により3種類に分類されている。そして、それぞれにベーツ元院長の字で「Leadership, Personnel」、「Economic」、「Social」とタイトルが付けられている。ここで紹介した文章は、「Leadership, Personnel」の中の一部である。
手紙を書いた人物とその時期を特定するために本文を見直してみると、幸いなことにいくつかのヒントがあることに気付く。まず、日付に関して大きな手がかりになると思われるのは、「カッブ夫妻はアルミニウムのプレハブの建物ができて、神戸に移るのを心待ちにしている」という記述である。なぜなら、これは米国メソヂスト伝道局の寄贈により1948年3月に完成した、神戸のパルモア学院の「組立式ジュラルミンの事務所および校舎」(3)のことを指していると思われるからである。
また、アメリカ・メソヂストのことを「彼ら」と書き、非難していることから、カナダ人宣教師が書いたものであることがわかる。この時点で学院にいるカナダ人宣教師は、アウターブリッヂ夫妻、マッケンジー夫妻、ノルマン夫妻である。これは文中の「私達の方には3人の男性がいる」という記述とも合致する。3組の中で、アウターブリッヂ、マッケンジーは戦前も学院で教鞭をとっているので、「ここに新しくやって来た」と言えるのはノルマン夫妻だけであろう。
さらに、「年齢による違いがある」との記述から、書き手の年齢が少なくともマッケンジーより若いことが推測できる。当時アウターブリッヂ夫妻は60歳、マッケンジー夫妻も50代後半であるのに対して、ノルマン夫妻は40歳前後の若さである。
最後に、文中に出てくるハワードについて考えてみると、ハワードという名を持つのはアウターブリッヂとノルマンである。しかし、アウターブリッヂは文中に姓で出てきているためこれはノルマンのことを指す可能性が高い。したがって、この手紙を書いたのがハワード・ノルマンであると仮定すると、自分のことをハワードと書いていることになってしまう。文中のハワードがアウターブリッヂを指すと考えても、同じ人物をある時は姓で、ある時は名で書いているという矛盾が生じる。反対に、この手紙を書いたのがノルマン夫人(グエン)だとすれば、ハワード・アウターブリッヂのことをアウターブリッヂと書き、夫ハワード・ノルマンのことをハワードと書くのは当然のことと納得できる。
どちらが書いたにせよ、ノルマン夫妻の神崎院長に対する批判的なまなざしは、後年夫妻共著で出版されたOne Hundred Years in Japan 1873-1973にも共通するものである。そこには次のような記述がある。「部長や教授達は、1939年のベーツ博士の辞任(4)以来、院長の職に就いていた神崎のことが不満だった。今日院長は英語では”chancellor”と呼ばれ、中・高、大学も含めた学院の全てを率いる。大学の長は「学長」と呼ばれ、文部省は学長が大学学部のこと以外にかかわらないよう求めている。アウターブリッヂは、キャンパスに足を踏み入れるとほとんど同時に、学長に任命された。最初、自分の役割は主に神崎と部長や教授達との間の仲介役であると思ったと彼は言っていた」(5)。
このカナダ人宣教師による手紙は、時の神崎院長、神崎体制を激しく批判(6)するだけでなく、学院のアカデミックな水準の低下、および英語の教育体制の不備を嘆いている。また、戦前の宣教師が持っていたパワーの欠如を指摘している。かなり感情的になっていることは文面からも、またミスタイプの多さからも伺える。一文字ずれたままタイプされているため、キーボードを見て暗号文のようにアルファベットを当てはめつつ解読しなければならない部分が数カ所あるほどである。しかし、大きな怒り、嘆きの裏側には、関西学院に対する深い愛情が感じられる。公式文書からはうかがい知ることのできない、当時の学院の一面を赤裸々に伝える手紙であると言えるだろう。
ところで、ベーツ元院長はこの手紙の中で非難の対象となっている当の神崎院長からも手紙を受け取っている。神崎院長は、手紙を郵送せず、北米に向かう人物に託していた。戦後初の手紙は1945年9月に書かれたようだが、その内容は不明である。ここでは、現院長から前院長宛の戦後2通目の手紙(1946年3月24日付)を紹介する。

(略)まず、第一にお話ししたいのは、1月30日に理事会が開かれ、両ミッションボードに対して、戦前と同様それぞれ6名ずつの宣教師の派遣要請をすることが決議されたことです。(略)関西学院はいまだかつてないほど、米加両教会の援助と協力を熱望しています。なぜなら、今こそ日本に神の国を打ち建てるまたとない機会であることを充分に承知しているからです。関西学院は、日本の理想的再建と共に進まなければならない大きな責任があると私達は強く認識しています。しかし、私達の責任を遂行するためにはカナダとアメリカの教会の強力なサポートが必要です。教会のサポートは、(1)神学部の再開、(2)農学部と医学部を含む大学レベルの自然科学系学部の増設、(3)アメリカ研究所〔の設置〕、のために緊急に求められています。(略)カナダとアメリカの友人達の協力の結集に関してご尽力くださいますようお願い申し上げます。(略)
主として戦後の国の混乱のため、新たなそして困難な問題が多々あります。日本はまさに危機的な時期です。日本の運命は、私達がどのようにこの危機的な状況から脱出するかにかかっています。この点から、未来の日本の運命は、キリスト教徒の手にあると私は確信して言うことができます。この確信をもって、学内のキリスト教徒の力を強力にするべく最大限の努力をしています。かつての神学部の卒業生達の多くは、それぞれの仕事のため学校に戻ってきています。(略)各学部にはキリスト教研究を恒常的に提供する特定の宗教担当者を一人おくつもりです。一時的に中断されていたチャペルサービスは復活しました。日本語賛美歌集の不足は、宗教活動の実施に際してかなり不便です。英語の賛美歌集があれば、学生達のチャペル参加にとって大いに力になるでしょう。カッブやボットを含めて、何人かの宣教師が来月、日本に帰って来られるということを私は最近聞きました。マッケンジー教授のような宣教師の先生方は、いつ関西学院にお戻りになるのでしょうか。(略)<原文:英文手書き>

戦後の復興のため、米加両教会の強力な支援を求めているこの手紙は、カナダ合同教会内で大きな力を持つ前院長宛てに書かれた公式文書と言えるだろう。したがって、内容的には既に『関西学院百年史』通史編Ⅱ等で紹介されており、目新しい記述は特に見当たらない。
新制度移行に向けて、だれもかれもが神崎院長に反発していたわけではない。その大きな目標のため、神崎院長をサポートしていた人間もいる。新制度の確立に大きく貢献したことで知られる寿岳文章教授もその一人であった。カナダ人宣教師がベーツ元院長に学院の状況を生々しく伝えていた1947年度は、新制度への切り替え準備のため、学院が多忙を極めた1年だった。「神崎院長、原田学監はじめ各部長に各部の教授会を代表する教授を加えた委員は会合に次ぐ会合でほとんど寸暇もない有様であった」(7)。その頃、ベーツ元院長の教え子(8)である寿岳教授がカナダの恩師に宛てた手紙(1947年7月9日付け)が残されている。それは、美しい和紙にタイプされ、和紙で作られた封筒に入れられている。封筒には占領軍により開封され検閲を受けた印が残されている。

(略)戦争中、お二人〔ベーツ先生ご夫妻〕のことを思わない日は一日としてありませんでした。夏休みが始まり、今朝私は初めて先生にお手紙を認(したた)めています。私がどんなに多忙であるか先生にはご理解いただけないのではないかと思います。畑先生が中学部長の職を辞し、四国の松山に去りました。私は文学部長に加えて、畑先生の後任も務めざるを得なくなりました! しかし、文学部と中学部は、来春合併して新制大学と高等部になります。神崎氏は、委員会に次ぐ委員会を招集するのが大変お好きで、新制度に関するどんな委員会にも私を呼び忘れるということがありません。10年前にはこのような災難に巻き込まれる—-神崎氏のブレーンの一人として学校行政にちょっかいを出すという意味です—-とは思ってもいませんでした。ご存じのように、私は明らかにマリア派であり、マルタ派ではありません〔ルカによる福音書10章38-42節〕。ですから、夏休みの開始と共に、私は「静かにささやく声を聞きながら」〔列王記上19章12節〕、俗世間を離れた仕事に没頭し始めました。それなのに、今なお神崎氏はしばしば私を呼び出すのです!
畑先生はここ数カ月間かなり失望されていたように思われます。その根本的な原因は、彼と神崎氏はうまくやって行くことができないということにあると私は思います。畑氏は生まれ故郷で外国語学校の教師の一人として余生を過ごす決心をされました。大藤〔豊〕氏は戦時中学校を去り、生まれた村に帰って、典型的な農夫として忙しい日々を送っておられます。戦前、彼は食糧難から温かく私達を守ってくれていました。そして、彼の予言は現実のものとなりました。やや頑固者で、偏執狂的ではありますが、正直で勇気あるキリスト教徒として、私はいつも彼のことを高く評価しています。(略)大月〔直治〕氏と私だけが以前の文学部の日本人教員です。しかし、芥川〔潤〕氏、遠藤〔貞吉〕氏、松沢〔兼人〕氏、深山〔盈二〕氏は皆元気で、政治の道で、あるいは教育界でそれぞれの仕事に励んでいます。(略)<原文:英文タイプ>

この中で語られている畑氏は、現在体育会全体のモットーとなっている”Noble Stubbornness”という標語を与えたことで知られる畑歓三教授のことである。米国留学中は、普通科の2年後輩にあたる神崎院長と共に生活した(9)ほどの親しい関係でありながら、学院の経営に当たっては意見が合わなかったようである。1890年代の学院で学び、1917年以来長年にわたり、主として学院の英語教育に尽くし、学生にも慕われていたことで知られる畑教授の辞任は、学院にとって大きな損失であったと思われる。
畑教授に限らず、誰もが遅かれ早かれ学院を去って行く。今回紹介した人達が学院を去ったいきさつもまた興味深いものである。3組のカナダ人宣教師の中で最初に学院を去ったのは、親子2代にわたって学院に貢献したマッケンジーであった。中学部の英語の教科書を作る(10)など、英語教育に力を注いだマッケンジーは、1952年に国際基督教大学の招聘を受け転出した(11)。一番若いノルマン夫妻は、1959年に突如辞任し、後に長野県で塩尻アイオナ教会を創設している。ノルマンの父ダニエルも長年学院の理事を務めており(12)、親子2代にわたり学院に関わった宣教師をまたも失ったことになる。辞任の理由のひとつとして、後年、ノルマンはアメリカ人宣教師との確執をあげている(13)が、冒頭の手紙がノルマン夫妻のものだとすると、既にその時点で、教育よりも教会活動に強い関心を抱いていたことが読み取れ注目される。また、忍耐強く新しい学院の力になろうと努力していた様子のうかがえるアウターブリッヂは、神学部の再興に力を尽くし、1954年に第7代院長に選出された。そして宣教師の定年まで学院に留まった。アウターブリッヂは、院長に選出された時、「今頃外人が院長になるのは時代錯誤だ」と言って「固辞された」と伝えられている(14)。
一方、学内外から「ワンマン独裁体制」との批判を受けていた神崎院長は、戦時中の権限集中体制を解き、院長公選、学校法人への移行に道をつけた後の1950年、定年により退職した。神崎元院長が死の直前に語った言葉が『関西学院七十年史』に掲載されている(15)。「右のように、回想談を述べてくると、私の頭のうちは、あたかも走馬燈のように、次から次へといろいろな当時の情景がうかんで来る。その中でも、戦時中の学院財政の危機を切り抜けられたこと、川西航空へ外人住宅を売り払おうとしてその寸前で、これを止めたこと、さらには、終戦後のキリスト教大学の問題など実にいろいろな問題が、次から次へとおこった。かれこれ回想してくると実に私は萬感交々至るのである。私は学院を熱愛した。そして、今も学院を熱愛している。若し私が死んだら、私が学院に対して何をしていたかが、はっきりわかるときが来るであろう」。
神崎院長のブレーンの一人であったと自認していた寿岳文章教授は、神崎院長退任の2年後、辞職の理由を口にすることなく学院を去った(16)。寿岳教授は、1951年の『母校通信』6号に「近況と心境」と題して、次の文を寄せている(17)。「私にとって、何となく息のつまるような空気が濃くなって参りました。この感じは日ましに強くなってゆくようです。こうしたことになろうとは、まったく私も予期しなかったのですが、しかし考えて見ると、どこで教壇に立つにしても、私の教育理想には変りはないのですから。ある意味で、学院がそれだけ外延を増す結果になるとも言えましょう。誠心誠意、私をひきとめようとされる学内学外の同窓先輩には、そう申し上げて、私のわがまゝを許してもらうつもりです。書けば限りのない心境ですが、それは全く私の個人の問題なので、これ以上に深入りすることはさしひかえます。近懐一句。わが歩みたゞ秋風の吹くまゝに」。また、1970年に行われた小宮第9代院長との対談(18)の中では次のように語っている。「それまでの学院はメソジスト教会の庇護があって自主性がなかったけれども、神崎先生の力でその自主性が目覚めたとも言えますね。私は大体文科だったので、ベーツ先生、アウタブリッジ先生、ウッヅウォース先生などとはよくおつきあいしましたが、どうも神崎先生とは合わなかったような気がしました」。
様々な立場の人間からの手紙を受けて、誠実なベーツ元院長が返事を書かなかったとは考えられない。しかし、その返事は残されていない。意見の相違、対立は、戦後の混乱期を生きた人々が、関西学院にとって最善の道を必死になって探っていたことの証でもある。そのことはベーツ元院長にもよくわかっていたことだろう。なぜなら、ベーツ元院長が赴任してきたのは、それまでアメリカ・南メソヂスト監督教会の単独経営であった学院がカナダ・メソヂスト教会との合同経営を開始した、やはり大きな変革の時だったからである。
戦前、学院を去るに当たってベーツ元院長は”Keep this holy fire burning”という言葉を残した。さらに、ある学生から送られた、心のこもった院長辞任慰留の手紙に対して、理事会で説明した辞任の理由(19)を述べた後、次のような言葉を書き送っている(20)。

50年間、関西学院をお導きくださった神に祈りましょう。これからも今までと同じように、私達の愛する学院を導くのにふさわしい人間を主のみ名によってお遣わしくださいますように。神が関西学院の真の頭(Head)であり、自分は主の僕(Servant)であることを私はいつも忘れないようにしてきました。そのことを決して忘れないようにしましょう。そうすれば、全てうまくいくはずです。<原文:英文手書き>
本稿執筆に当たり、文学部のジュディス・メイ・ニュートン教授と経済学部の竹本洋教授より、数々のアドバイスをいただきました。ありがとうございました
(注)
『関西学院百年史』通史編Ⅱ、1998年、9頁。
前掲書、20頁
A Special Edition of The Palmore Messenger, The Palmore Alumni Association, 1986, p. 35.
ベーツ院長の辞任は、正しくは1940年。
Howard Norman, One Hundred Years in Japan 1873-1973, Part II, 1981, p. 454
神崎院長の最初の妻は、吉岡美国第2代院長の長女美津である。美津死亡後、その妹美知枝と再婚したが、再び死別している。宣教師側には、神崎院長が実の姉妹を妻としたことに対する不快感もあったものと推察される。
『関西学院七十年史』1959年、207頁。
ベーツ元院長は、その時のクラスのことを「少人数だがとてもすぐれた能力を持ったクラスだった」と晩年なつかしく回想している(1962年12月2日付け、帰山雅子さん宛ベーツ元院長書簡)。 『関西学院事典』2001年、258頁。
『大学とは何か 世界の大学・日本の大学・関西学院』関西学院を考えるシリーズ第1集、1975年、426頁
『関西学院事典』2001年、297頁。
ノルマン一家と関西学院との関わりについては、竹本洋「ノーマン家の人々の生と挫折-『関西学院百年史』外伝-」(『関西学院史紀要』8号、2002年)参照。
ダグラス・モリルのカナディアン・アカデミーへの転出について、毎週開催されていた宣教師会に諮る前に小宮院長に相談したということで、アメリカ人宣教師の非難を浴びたことが辞任の理由のひとつであるとハワード・ノルマンは述懐している(『母校通信』68号、1982年9月、34頁)。この他の理由として、マッカーシー旋風に巻き込まれた、弟ハーバートの衝撃的な自死も考えられるが、今のところそれを明らかにする直接的な資料は発見されていない。
前掲書『大学とは何か』、390頁、428頁。
『関西学院七十年史』、1959年、552頁。
寿岳教授の辞職は『関西学院新聞』でも大きく取り扱われた。当時新聞部員だった学生は、その時の想い出を次のように述懐している。「その日、教授は次の講義が、多年に亘る学院での最後の時間になるかも知れないという意味を述べられた。たしか文学概論の時間であったと思う。一瞬、教室を不気味な程の静けさが襲った。(略)学問の自由と大学の自治ということについて、教授は、おだやかだったが、常に不変の信念を持って私共に語っておられた。その教授がいなくなる-。それは学院のポプラ並木の大木が1本抜けるかの如く、学院にポッカリと大穴があいたような寂しさであった。最後の講義が始まったとき、そこ、ここでかすかに”オエツ”の声がもれた。教室はまさに立錐の余地もなかった。それはただ文学部の学生のみではなかった。法学部の学生もいた。経済学部の学生もいたのだ」(寺岡正瑞「寿岳教授去る」『関西学院新聞部四十年』1963年、関西学院新聞縦の会)。
『母校通信』6号、1951年5月、13頁。
この対談は、小宮第9代院長退任後の1970年8月27日、ホテル阪神(大阪)でおこなわれたもので、「同窓と密着せよ 今後の学院に期待 小宮前院長退任のことば 寿岳文章氏と対談」との見出しで『母校通信』44号(1970年10月)に掲載されている。
ベーツ院長は院長辞任の理由として次の三つを挙げている。①63歳という自分自身の年齢、②国内のキリスト教学校の中で自分が唯一の外国人院長であること、③国際関係の困難な時代にあっては日本人の院長の方が好ましいと思われること。
ベーツ院長の辞任を聞いた安枝修三氏(当時高等商業学校3年、ESS所属)が出した手紙に対して、ベーツ院長は1940年7月31日付けで返事を書いた。その中で、「私は世界の何よりも学生の愛情をありがたく思います。あなたがたは、私が自分の息子達と同じように愛する大切な子供達です」と語っている。安枝氏は『母校通信』109号(2002年3月)の「ベーツ先生と日本の孫娘」の記事を読んで、このベーツ院長からの手紙(コピー)を学院史編纂室にご寄贈くださった。安枝氏の説明には「英語の字引を片手に、ベーツ院長の疎開〔避暑〕先へ『もっと頑張ってほしい。我々在学生のためにも』と、下手な英文を書いて送ったのに対して頂いた返信が同封のものです。まさか返事が来るとは思はなかったので、大変に驚きました」とある。

 

TOP