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学院史編纂室便り

No. 12
2000年12月1日
関西学院学院史編纂室

No.12 (2000.12.1)

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アルマン・デメストラル氏(ベーツ第4代院長尊孫)の表敬訪問

アルマン・デメストラル氏(カナダ・マギル大学法学部教授)が、北京での国際会議と西南学院大学での集中講義の後、7月9日から12日まで本学を表敬訪問し、祖父母・母親の暮らしたベーツ館に宿泊されました。
9日は、関学会館のベーツ・チャペルで、祖父ベーツ第4代院長の思い出を語っていただき、その後同会館にて行われた、チャペル出席者との茶話会に出席されました。翌10日は、山内院長主催の昼食会の後、常務委員会で挨拶をされた他、国際交流部長、法学部長等と懇談の場をもたれました。11日は、甲山を散策された後、京都を観光され、12日朝カナダに帰国されました。

全国大学史資料協議会の開催

9月20日から22日まで神戸女学院、本学を会場として全国大学史資料協議会総会・全国研究会が開催され、全国の国私立大学から担当教職員85名が参加しました。本学では、山内一郎院長、山本栄一学院史編纂室長の挨拶の後、井上琢智氏(経済学部教授)による講演「『大学のアーカイブズ』と『大学とアーカイブズ』-利用者の立場から-」と深井純氏(総合教育研究室)による講演「デジタル画像を用いた美術品研究装置の開発」が行われました。さらに、時計台2階では専門業者による展示・実演が行われました。

『尹致昊(ユン・チホ)日記』の発見

東京都立武蔵高等学校教諭木下隆男氏からの問い合わせにより、大韓民国国史編纂委員会発行の『尹致昊日記』『尹致昊書簡集』に本学創設者ランバス親子から神崎驥一第5代院長までの名前と交流の状況が書かれていることがわかりました。
尹致昊は、中国でランバス親子と出会い、米国留学中に吉岡美国と共に学んだ、韓国の教育者・政治的指導者・宗教者(南メソヂスト監督教会による韓国最初の受洗者)で、その日記は1883年から1943年まで書き継がれています。大韓民国国史編纂委員会から全11巻が刊行されていますが、第1巻の途中までは李朝末期の朝鮮漢文とハングルで書かれており、それ以降11巻まですべて英語で書かれています。
日記の記述は詳細で、吉岡美国と米国留学中に語り合ったこと、中国でのランバス夫婦の会話、原田の森訪問時の出来事等、今まで本学関係者には知られていなかった事実が、韓国、中国、米国で教育を受けた人間の視点から綴られています。
木下氏のご好意により、本学にとって最も重要と思われる、2巻・3巻のコピーを取らせていただくことができました。今後、何とか全巻を入手したいと考えています。膨大な日記の全容を研究することにより、新たな発見があるものと期待されます。なお、木下氏には『関西学院史紀要』第7号(今年度末発行予定)への執筆を依頼しています。
第4回『関学歴史サロン』の開催(対象:教職員・学生・一般)
日 時
12月4日(月)14:50~16:20
14:15より開場しますので、講演開始まで音楽とお茶をお楽しみください
場 所
西宮上ケ原キャンパス時計台2階
講 師
福井幸男商学部教授
演 題
「商科90年の歴史と伝統を『関西学院百年史』から学ぶ」

ベーツ第4代院長より孫への手紙

~ベーツ元院長の手紙から明らかになったこと~
今回来学されたアルマン・デメストラル氏は、15歳の誕生日に祖父ベーツ元院長からもらった手紙を大切に保管されている。当時、デメストラル氏は父親の仕事の関係で英国に住んでいた。
ベーツ元院長の4人の子供の内、下の3人はほぼ同時期に結婚した。孫の誕生を心待ちにしていたベーツ元院長は、最初に子供を産んだ者に300ドルを贈ると話していたらしい。1941年になって、まず三男ロバートの所で1月5日に男の子が誕生した。その後、8月4日に次男ジョンの下に女の子が産まれ、そして11月17日に長女ルルが男の子(アルマン・デメストラル氏)を出産した。結局、300ドルは仲良く3人で分けることになったということである(デメストラル氏談)。
ベーツ元院長からかわいい孫への手紙は、愛情あふれる内容である。しかし優しいだけの手紙ではない。ベーツ・チャペルでデメストラル氏も語っておられる。「祖父はStrong manだった。関西学院の教職員・学生だけでなく、家族にも強い影響を与えた・・・」
[ベーツ元院長から孫への手紙(英文:手書き)]

Royal York Rd. S.
Toronto 18
1956年11月13日
アルマンへ
また誕生日がやってきて、おまえは15歳、ちょうど10代の真ん中になったんだね。おじいちゃんの15歳の誕生日は、はるか昔のことに思えるよ。あれからたくさんのことがあった。おじいちゃんはその頃、オンタリオ州のバンクリークヒル高校に通っていた。おばあちゃんもそうだった。おじいちゃん達の家はオタワ川のロリニャルにあって、毎週月曜日の朝、「ヒル」と呼んでいた所に馬車で行って、毎週金曜日に家に帰って来ていた。月曜から金曜まで、おじいちゃんはツィードさんの所に下宿していた。普段は、おじいちゃんのおとうさんが馬車で連れて行ってくれていたけど、時にはメソヂストの牧師さんが連れて行ってくださることもあった。牧師さんはバンクリークヒルに住んでおられたが、日曜日の夕拝に来られて、おじいちゃんの家に泊まり、月曜日の朝、おじいちゃんを学校に連れて行ってくださったんだ。イギリス人だけどアイルランド系の名前のリチャードソン・ケリー先生がおじいちゃんを送ってくださったことがあった。途中で、先生はおじいちゃんの方を向いてこう言われた。「ジョン、君はキリスト教徒ですか?」おじいちゃんは答えた。「はい、そうあろうと努めています」。それを聞いた先生はおっしゃった。「それは努力すべきことではない。信ずることだよ」。おじいちゃんは、その瞬間を忘れたことがない。それは啓示を受けた瞬間であり、新しい理解の瞬間であり、新しい人生の瞬間だった。キリスト教徒として生きることは、泳ぎを覚えることに似ている。水の中に浮かぶことを覚えればいい。信じてルールに従えば簡単なことだ。
おじいちゃんのおとうさんは、9マイルを1時間で走るいい馬を持っていた。それは65年前としてはすばらしかった。でも今ではそんなことは何でもない。ロンドン-エジンバラ間の急行は1時間に60マイルも走るんだから。今や飛行機は音速よりも速い。
ところで、スエズ問題やハンガリーをどう思いますか? おじいちゃん達は毎日、テレビで話し合いを見て、演説を聞いています。 それでは今回はこの辺で。おじいちゃん達は元気です
ベーツおじいちゃんとおばあちゃんより愛を込めて

家族への影響ということから考えると、ベーツ元院長の4人の子供の内、3人の息子はすべて牧師になっている。そして、一人娘も牧師のもとに嫁いだ。
息子達の中で、下の二人は年も近く、カナディアン・アカデミー在学中から双子のように仲が良く、優秀であったらしい。二人はともにトロント大学に進学し、聖職者への道を順調に歩んで行った。父親としてのベーツ元院長が常に頭を悩ませていたのは、長男ウィリアム・レバーのことだったと思われる。
ウィリアム・レバーは、1903年にベーツ家最初の子供として生まれ、幼少時代を甲府で過ごした後、神戸のカナディアン・アカデミーを卒業した。彼の最も特徴的な点は、そのすばらしい体格であった。ベーツ元院長のアルバムを見ても、少年の頃からウィリアム・レバーの体格は飛び抜けている。身長は190CM以上あり、肩幅もがっしりしていた。
カナダに戻ったウィリアム・レバーは、トロント大学に進み、フットボール選手として活躍した。しかし、1年半で落第し、大学を去る。その後日本に戻り、2年間神戸で働いていたが、父親の強いすすめもあり、ブリティッシュ・コロンビア大学に戻った。そこで、彼は、カナディアン・フットボールのハーフバックとして活躍し、またも落第してしまう。落胆したウィリアム・レバーは、約1年間姿をくらまし、職を転々とする。しかし、何か国際的な仕事をするようにとの父親の強い要望もあり、サンフランシスコの会社に職を見つける。
1925年にバンクーバーの女性と結婚したウィリアム・レバーは、神戸で事業を始める。貧血治療のため、カナダに帰ったベーツ元院長は、ニュートン第3代院長宛の手紙(1927年8月27日付け)に、「こちら(トロント)で妻とルルと私は一緒にいます。レバーとその妻、ジョンとロバートは神戸です」と書いている。下の息子二人を神戸に残しての帰国も長男夫妻がいたからこそであったろう。しかし、1936年になると、その事業は失敗し、結婚生活も破綻する。一人になったウィリアム・レバーは中国で新聞の編集者として働く。戦争が始まると、イギリス海軍に関わり、終戦時には海軍中佐となっていた。
除隊したウィリアム・レバーは、米国で化学会社との仕事を始め、中国との取引において過去の経験を大いに役立てる。また、戦争中、英国で知り合った女性と1942年に再婚する。再婚後、25年ぶりに妻と共に教会に通うようになったウィリアム・レバーは、聖職に就きたかったというはるか昔の夢を思い出すのである。そして、とうとう1947年、そのための試験に合格する。
彼の最初の任地は、ニューヨークのハドソン川を遡った所にあるチボリであった。その間にバード・カレッジの宗教主事を務め、そこで学位も得た。やがて、バッファローに移り、そこの教会で8年間務めた。ウィリアム・レバーがバッファローの教会に移ることについて、父親のベーツ元院長は娘ルルに宛て、次のような手紙(消印:1958年5月22日)を書いている。
「レバーはバッファローの教会に赴任することになりました。もし、彼がファーストネームを使っていたら、『バッファロー・ビル』(1846-1917年、アメリカ西部の開拓者、西部劇の伝説的英雄)とサインすることになっていたでしょう。レバーは昨夜9時半に電話してきました。10代の少年達に英文法と英作文を教えなくてすむと、とても喜んでいました。他人の個性に対して、彼がもう少し辛抱強ければと思います」。80歳の父親にとって、55歳の息子は、いつまでたっても子供のように思えたのだろう。
ウィリアム・レバーは、気腫による合併症のため、1967年に64歳で亡くなった。後には妻ドラと牧師となってから迎えた養子イアンが残された。バッファローでは、肌の色による差別をしない牧師として人々の尊敬を集めていたそうである。
(参考文献:Newcomers in a New Land,『母校通信』第31号他)

キャンパスの門標について

西宮上ケ原キャンパス、神戸三田キャンパスの正門には「関西学院」の文字が刻まれている。キャンパスの顔とも言える正門の文字は、どのようないきさつで、誰が書いたのだろうか。
神戸三田キャンパス正門の門標については、大河内敏弘秘書室課長の次の説明により明らかである。

神戸三田キャンパス正門の門標「関西学院」の文字は、現代日本書道界の、就中、かな文字の権威である宮本竹逕氏の揮亳によるものである。竹逕氏は、本キャンパスに開設された総合政策学部エントランスホール壁面に刻まれた聖句もご揮亳くださったが、格別のご厚意をもって正門にもその健筆を揮っていただいたものである。 計画当初は文字だけを門柱に刻むつもりであったが、竹逕氏の落款も頂戴し、それも門柱に記して末永くお名前を留めるべきだとの指摘が学院理事の辰馬龍雄氏からなされ、門標を書き上げていただいた後にあらためてご署名をお願いしたものである。
ご署名、落款を門柱に留めることについて竹逕氏は固辞しておられたが、ご子息の本学商学部宮本寛爾教授を通して再度のお願いをしていたところ、[1995年]2月15日に同教授を経て落款を戴くことができた。
ここに額装された門標文字及び落款は、「銅板に切り文字貼付け」仕様により新キャンパスの正門に掲げられているものの原稿である。
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部地震が発生。これによって引起こされた阪神・淡路大震災は未曾有の甚大な被害をもたらせた。本学でも学生15名を失った他、現職教職員4名、元教職員3名の死亡者を出した。「落款を頂戴せよ」と教示された辰馬龍雄氏も西宮市の自宅倒壊によってその下敷きとなり、竹逕氏のご署名を目にすることなく92歳の生涯を閉じられた。
また、本稿の額装を依頼していた神戸市灘区の渡辺松雲堂も建物が全壊し、主人渡辺全康氏は負傷、ご母堂が逝去された。一時は本稿が消滅したとの知らせであったが、その後、株式会社洋化屋(西川薫社長)ら関係者の誠意あふれる探索によって、2月22日になってようやく瓦礫の中から掘出すことができた。まったくの無傷であった。
( 1995年3月16日 大河内敏弘秘書室課長)

一方、西宮上ケ原キャンパスについては、移転時(1929年)には正門はなかった。同窓生有志の寄付によって移転の翌年4月に竣工し、6月5日に学院への献門式が挙げられた。その時の門標については写真が残っている。しかし、文字に関する記録は見あたらない。
学院史編纂室には、「関西学院」と書かれた木の板が保管されている。文字は、第5代院長神崎驥一氏が書いたと推測されている。この門標と全く同じ筆跡の書も、岡田恭太郎氏(1954年法学部卒)により、本学に寄贈された。卒業アルバムで確認すると、この門標は戦中・戦後から大学紛争時まで、正門に掲げられていたようである。
つまり、西宮上ケ原キャンパスに関しては、正門竣工時、戦中・戦後から大学紛争時、そして現在の三つの門標が存在することになる。

 

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