学院探訪
59. 100年の矛盾:ランバスの葬送
図録『関西学院の100年』に「ランバスの葬送/1921(T10).10.3」と題する写真が掲載されています(59頁)。関西学院創立者W. R. ランバスは、南メソヂスト監督教会監督として日本訪問中に発病し、9月26日に横浜で亡くなりました。10月3日に原田の森の関西学院で告別式が執り行われた時、J. C. C. ニュートン第3代院長は故人を「世界全体の市民」と呼び、「キリストの心をもつが故に、世界の心をもっていました」と偲びました。この長い葬列は、告別式終了後、小野浜墓地に眠る父J. W. ランバスに別れを告げに行くところでしょうか。
ところが、ここで大きな矛盾にぶつかります。1912年以降、美しい学舎が次々に建てられ、キャンパスが充実していく様子が同じ図録に紹介されているからです。それなのに、この写真で目に付くのは右端の本館(1894年竣工)と中央のブランチ・メモリアル・チャペル(1904年竣工)くらいで、1921年ならチャペルの左に見えるはずの神学館(1912年竣工)がありません。代わりに木造の北寮が見えます。北寮はランバスが亡くなる10年前に取り壊されたはずです。チャペルの右にわずかに顔を出すのは南寮(最初の校舎)でしょう。周囲にはのどかな風景が広がっています。
C. J. L. ベーツは、1910年9月の着任時、関西学院には4つの建物があったと書いています。写真の建物も4つです。つまり、これは1908年3月20日に本館3階が増築されてから、1911年7月15日に北寮が取り壊されるまでの間に撮影された写真なのです。1921年に亡くなったランバスの葬送ではありえません。そう考えて南メソヂスト監督教会の記録を調べたところ、日本訪問中のセス・ウォード監督が1909年9月20日に神戸で亡くなっていたことがわかりました。
監督の訃報が掲載されたJapan Times紙は、水曜(9月22日)午後4時から神戸のメソヂスト教会(現在の神戸栄光教会)で告別式が執り行われると伝えています。この写真は、関西学院から教会に向かうウォード監督の葬列である可能性が高いでしょう。(学院史編纂室 池田裕子;『KG TODAY』No. 310, 2021.3)
58. ジョンズ・ホプキンス大学のゼミ仲間
1876年創立のジョンズ・ホプキンス大学は、J. C. C. ニュートン第3代院長の母校です。1884年に36歳で大学院に入学したニュートンは、自分より2歳下のアダムズ准教授が主催する「歴史・政治学ゼミナール」に参加しました。ゼミでは、すべての参加者が教授、学生の区別なく、別個の研究テーマを持ち、交互に成果を報告し、批判し合ったと伝えられています。当時の履修記録を調べると、ニュートンと共にWilson, W., Sato, Otaの名があります。のちにアメリカ合衆国第28代大統領に選出されたウッドロウ・ウィルソン、北海道帝国大学初代総長を務めた佐藤昌介、5千円札の顔になった新渡戸(太田)稲造の3人は、ニュートンのゼミ仲間でした。
1886年に博士号を取得したウィルソンは、大統領として、第一次世界大戦後の国際連盟創設に尽力しました。「生みの親より育ての親」と関西学院で慕われたニュートンは、1931年にアトランタで亡くなりましたが、生前最後に受けたインタビューは国際連盟代表からのものでした。
札幌農学校でウィリアム・クラークの感化を受けた佐藤は、ニュートンの1年前に入学し、1886年に博士論文を提出して帰国しました。母校の教授となり、札幌農学校を帝国大学に昇格させ、長期にわたって総長を務めたことから、「北大育ての親」と呼ばれています。
札幌農学校で1年先輩だった佐藤に誘われ、新渡戸も1年遅れてジョンズ・ホプキンス大学に入学しました。大学院修了直前の1887年5月に官費でドイツに渡航し、そこで博士号を取得した新渡戸は、Bushido(『武士道』)の著者としてのみならず、東京女子大学学長、国際連盟事務次長を務めたことでも知られています。(学院史編纂室 池田裕子;『KG TODAY』No. 309, 2020.11)
57. 二人のニュートン
1889年に南メソヂスト監督教会宣教師W. R. ランバスにより創立された関西学院(神学部・普通学部)の始まりは、厳密に考えると、その前年に遡ります。J. C. C. ニュートンが1888年から東京のフィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校で教えていた7名の学生を連れ、移籍したのが神学部の始まりと考えられるからです。一方の普通学部は、夜間部しかなかった神戸のパルモア学院で1888年11月1日にN. W. アトレーが始めた昼間の授業に遡ることができます。当初、授業は午後だけでしたが、年明けに本格的な昼間の学校となり、翌年9月28日、兵庫県の認可を受けました。1927年以降、関西学院はこの日を創立記念日にしています。これに対し、神学部と普通学部が双子のように始業した10月11日を学校の誕生と宣教師は考えました。ニュートンとアトレーは初代神学部長、初代普通学部長に就任しました。実は、アトレーのファーストネームは「ニュートン」ですから、関西学院は二人のニュートンから生まれたことになります。
1891年9月に発行された南メソヂスト監督教会日本ミッション第5回年次総会の記録には、普通学部長をS. H. ウェインライトに託し、アトレーが急遽帰国せざるを得なくなったとの「補遺」が付いています。理由は記されていませんが、11月に開催されたメンフィス年会の記録を見ると、帰国したアトレーの病気回復を願って熱い祈りが捧げられています。2年後、アトレーは日本に戻りましたが、関西学院ではなく、大阪西部の担当になりました。1896年、今度は妻の体調不良が続き、とうとう宣教師を辞める決心をします。ケンタッキー州で法律を学んで弁護士になったアトレーは、1899年、民主党公認候補として州の上院議員に選出されました。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 308, 2020.7)
56. マッケンジーとガントレット
カナダのメソヂスト教会は1873年に日本伝道を開始しました。その第2陣として、1876年に来日したC. S. イビーは、1885年の休暇帰国の際、日本で英語教師が求められていることを学生たちに訴えました。その声に応え、1890年末までに16名の若者が日本の土を踏んだと言われています。彼らは正規の宣教師とは異なり、必要な経費を自給して活動しました。その中に、1887年に来日し、後に関西学院の理事長を務めたD. R. マッケンジーがいます。金沢の第四高等学校で英語とラテン語を教えたマッケンジーは日本語の上達が早く、1890年には正規の宣教師となるよう要請を受けました。日露戦争が始まると「金沢育児院」を開設し、戦死した兵士の家族の救済に務めました。と言うのは、金沢に司令部が置かれた第九師団は、開戦4カ月後、乃木希典率いる第三軍に編入されて旅順総攻撃に加わり、甚大な被害を受けたからです。日露戦争で石川県が受けた人的被害は、一家族当たり平均一人にもなりました。
マッケンジーと親しかったのが、イビーの求めに応じ、1890年に来日したイギリス人、エドワード・ガントレットです。パイプオルガンの名手として知られたガントレットは山田猪九子(恒子)と結婚しました。そして、第六高等学校に赴任中の1901年、恒子の弟、山田耕筰を岡山に呼び寄せ、音楽を教えました。その後、関西学院で学び、東京音楽学校に進学した耕筰は、ドイツ留学を経て、世界的作曲家になりました。音楽だけでなく、英習字、速記術、エスペラント語、卓球もガントレットから学び、「吸水紙のように、義兄の与える何でもを吸収した」と書いています。そのガントレットにエスペラント語を紹介したのは、マッケンジーでした。 (学院史編纂室 池田裕子;『KG TODAY』No. 307, 2020.4)
55. 「公明正大」とヴァンダビルト大学
「公明正大」は、創立当初から関西学院が大切にしてきた精神です。ある時、試験問題を板書した普通学部の西川玉之助はこう言いました。「若し質問が有れば、今訊きなさい。私はこれから魚釣りに出かけ、教室に居らぬから。而して答案の出来た人は私の卓の上に積んで置き静かに退席しなさい。最後になつた人は、答案を一纏めにして、私の宅へ持つて行き、妻か女中に渡して置いて下さい」。その日の豊漁に気を良くした西川は、このやり方を続けました。1899年から1901年まで普通学部で学んだ永井柳太郎(後に政界入りし、大臣を歴任)が卒業後進学した早稲田大学でこの話をした時、大ボラだと言って信じてもらえなかったそうです。
2013年10月にヴァンダビルト大学(米国テネシー州)を訪問した時、これとよく似た話を耳にしました。数学を教えていたサラット教授は、試験に際し、1年生にこう言ったそうです。「今日は二つの試験を行う。一つは三角法、もう一つは正直さ。どちらも合格してほしいが、どちらか不合格になるなら、三角法にしてほしい。三角法を落とす善人はこの世に大勢いるが、正直さの試験に通らない善人は一人もいないからである」。1875年に行われた最初の定期試験以来、ヴァンダビルト大学はこの精神を大切にしてきたそうです。同大学は、関西学院を創立したW. R. ランバスの母校です。西川も、1887年から88年にかけ、フェローとして在籍していました。
では、関西学院で試験中、不正行為が見つかった学生はどうなったでしょうか。商科教授の東晋太郎が歌を詠んでいます。「カンニング故逐ひだす子を泣きつつも『さよなら』といひし部長なりけり」。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 306, 2020.2)
54. テレビ出演
1959年秋、関西学院の創立七十周年記念式典に招かれたC. J. L. ベーツ第4代院長は19年ぶりに日本の土を踏みました。かつて船で何度も往復した太平洋を初めて飛行機で飛んだのです。羽田に降り立ったベーツは、空襲による破壊から急速に復興した日本の姿に目を見張りました。東京に向かう車中では、日本の活発な産業活動の息吹を感じ、「交通問題」という新しい日本語を覚えました。2日後、夜行列車で大阪に移動しました。懐かしい関西学院に到着した時、2,000人もの学生・生徒が正門に列をなし、歓声を上げて迎えました。ベーツは学院本部2階に上がり、10年間執務した、懐かしい院長室で一休みしました。
この時の3週間におよぶ日本滞在の想い出をベーツは”My Trip to Japan”という原稿にまとめています。加藤秀次郎第8代院長による日本語訳「再び日本を訪れて」が、『母校通信』第23号(1960年5月)に掲載されました。しかし、その中に描かれていない出来事もあります。そのひとつが大阪でのテレビ出演でした。
当時、ベーツの教え子である原清(1930年高等商業学部卒業)が朝日放送の常務取締役を務めていました。11月2日、ベーツは朝日放送第ニスタジオから放送された「ポーラ婦人ニュース」に出演しました。これは、1958年5月5日から1968年9月28日まで放送された帯番組(共同制作)で、当日の朝刊番組欄を確認すると、午後1時にベーツの名があります。信仰と生活について、稲田英子アナウンサーに身を乗り出して語る82歳のベーツの写真が学院史編纂室に残されています。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 305, 2019.10)
53. 最後の祈り
病のため半身不随となった妻ハティの車椅子を押しながらキャンパスを歩くC. J. L. ベーツ第4代院長の姿は、戦前の関西学院を彩る一つの風景でした。2人の姿を目にした教職員や学生は、心に温かいものを感じていたようです。晩年、ベーツはカナダのトロントで年金生活を送りました。そして、妻の世話ができるだけの健康と強さを自分に与えてほしいと祈りました。それが自分の存在理由だと考えていたのです。
祈りは届けられました。1962年1月20日、ハティは自宅で夫に見守られながら息を引き取りました。最愛の妻を亡くしてから、ベーツは腎臓炎の手術を受け、入退院を繰り返しました。最後の入院は、亡くなる2週間前のことでした。その時、親子2代にわたる教え子である則末牧男牧師にベーツはこう言ったそうです。「則末さん、今度は私はもうこの家に帰ってこれ(<ママ>)ないと思う。お葬式の時ヨハネ伝17章を読んでください」。
1963年12月23日、ベーツは86歳で天に召されました。ロイヤル・ヨーク・ロード合同教会で執り行われた葬儀で、則末はヨハネ伝17章4節の言葉を強調しました。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」。
その22年前の夏、故郷に帰り、墓参りをしたベーツは、日記にこう記しています。「いつの日か私はここに眠りたい。母の隣で、ハティも一緒に。墓石には、名前の他に『日本への宣教師1902−1940』と刻んでもらおう」。2012年夏、現地を訪れた私は、その願いも叶えられていたことを知りました。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 304, 2019.7)
(写真)ロイヤル・ヨーク・ロード合同教会でベーツの葬儀の司式を担当したのは、バーナード・エナルズ牧師でした。そのご子息ピーターさんは、マウント・アリソン大学教授となり、1986年と1991年に客員教授として関西学院大学で教えました。
52. ランバス一家とアメリカ文学
2013年、ミズーリ州セント・ルイスからミシシッピー川沿いに北上した時、ハンニバルという小さな町を通りました。そこは、『トム・ソーヤーの冒険』で有名なマーク・トゥエインが少年時代を過ごした故郷でした。冒険の舞台と登場人物は、この町と住人がモデルだそうです。
マーク・トゥエインと聞いて頭に浮かぶのは、1889年に関西学院を創立したウォルター・ランバスの長男ディヴィッドです。ダートマス大学で英文学を教えていたディヴィッドの外見的特徴を教え子のバッド・シュールバーグ(作家、脚本家)がこう書いていたからです。「鼻眼鏡、教授風の白髭、粋な黒ベレー、白の『マーク・トゥエイン』スーツに白い靴、黒ケープ、そして白のパッカード車」。同大学赴任前は、父親のブラジル伝道を助け、ピラシカーバ・カレッジで教えていたこともありました。ディヴィッドの妻マートルは、静かな大学街ハノーヴァーで夫以上に人目を引いていたようです。そのボーッとした風変わりな言動は「不思議の国のアリス」と評され、小説The Professor’s Wifeのモデルになったと伝えられています。
ランバス一家と縁のあるアメリカ人作家に『大地』を書いたパール・バックがいます。ウォルターの弟ロバートの娘ネティは、関西学院と同じ年に神戸で生まれました。翌年、アメリカに帰国しましたが、母親が亡くなったため日本に戻り、祖母メアリーの元で暮らしました。祖母が亡くなってからは、中国で伯母のノラに育てられました。パール・バックも、南長老教会宣教師の娘として中国で育ちました。ネティの娘ジーン・ルイスが1970年に出した初めての小説Jane and the Mandarin’s Secretに、パール・バックは言葉を寄せています。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 303, 2019.4)
51. 「財務長官」と呼ばれた男
アメリカの南メソヂスト監督教会が1889年に創立した関西学院の経営にカナダのメソヂスト教会が参画したのは1910年のことでした。その時、最初に派遣されたカナダ人宣教師は、C. J. L. ベーツとD. R. マッケンジーでした。ベーツは、2年後に開設された高等学部(文科・商科)の長に就任し、高等学部のために”Mastery for Service”を提唱しました。現在、この言葉は学院全体のモットーになっています。さらに、1920年から40年まで第4代院長を務めました。一方のマッケンジーは、関西学院の財政基盤を整えると、1913年3月に開催された日本メソヂスト教会東部年会で「中央ミッション」の任を受け、東京に移っています。しかし、20年以上にわたり、理事長、あるいは理事として関西学院を支えました。1935年に74歳で亡くなり、東京の青山霊園に眠っています。
ベーツより16歳年長のマッケンジーは、イビー自給バンドの一員として1887年に来日し、金沢の第四高等学校で英語とラテン語を教え、高い評価を得ていました。1890年に日本年会の正式メンバーとなり、日露戦争中は金沢に育児院を創立しました。数字に強く、抜群の財務能力を生かして伝道局の仕事を発展させ、「財務長官」と呼ばれました。P. G. プライスは、来日した際、マッケンジーが港に迎えに来てくれた時のことを書いています。皆がお喋りに夢中になる中、マッケンジーは荷物のあとを追い、数を確認し、正しく運ばれるのを見届けていたそうです。
アメリカの教会との合同経営を積極的に推し進めた「財務長官」マッケンジーと教育者ベーツは、関西学院にとってどちらが欠けてもならぬ車の両輪でした。
2018年12月20日、D. R. マッケンジーの娘エセルの金沢時代の着物が孫息子ポール・ウィリアムズさんから大学博物館(館長:河上繁樹文学部教授)に寄贈されました。曾祖父の生涯に関心をお持ちのポールさんは、そのあとを継ぎ、関西学院大学でカナダ研究客員教授をされています。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 302, 2019.2)
50. 昭和天皇のご引見
1959年秋、創立70周年記念式典出席のため、次男とともにカナダから19年ぶりに来日したC. J. L. ベーツ元院長は、関西学院での一連の行事を終えた後、東京に向かいました。東京では、プロテスタント宣教百年記念式典に出席し、昭和天皇のご引見を受けました。ご引見の様子は、11月4日の『昭和天皇実録』にこう記されています。「関西学院名誉院長コーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツを、謁見の間において御引見になる。なお、同名誉院長は、カナダに国生まれ、明治四十四年〔正しくは明治三十五年〕の来日以来長年にわたり日本の私学振興に尽力し、またカナダ国における在留邦人の世話を行った。この度は関西学院創立七十周年記念式典に出席のため来日した」。
ご引見には、日本到着時、羽田空港で迎えてくれたW. F. ブル駐日大使が同行しました。その時の服装が平服であったことは、ベーツにとって大きな驚きでした。天皇は大変親しみ深い態度で2人を迎え入れ、まず大使と握手してからベーツの手を握り、椅子を勧めたそうです。そして「わが国の青年の教育に長年ご尽力くださったと聞いています。お働きに感謝します」と声をかけました。「私の知る限り、陛下はもっとも誠実で謙虚な方でした。偉そうな素振りやもったいぶった様子は微塵もありませんでした」と、ベーツは記しています。
戦前の日本で20年も私立学校の院長を務めたベーツには、大喪の礼(大正天皇)参列や御真影下付の経験がありました。当時の日記からは、すべての中心に天皇を置く日本人と神を中心に考える自分たちとの共通点をベーツが探ろうとしていた様子がうかがえます。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 301, 2018.10)
49. 関西学院を有名にした小説
1910年に関西学院神学校に入学した亀徳一男は、徳冨蘆花の『思出の記』(1901年刊行、『国民新聞』連載時は「おもひ出の記」)を読み、初めて関西学院の名を知りました。「この小説を読んで関西学院を識り好きになった」と、賀川豊彦も理事会で述懐していたそうです。
関西学院を一躍有名にしたこの長編小説は、地方の旧家に生まれた菊池慎太郎が、家業の破産、父の死を経験したのち、母の期待を一身に背負って故郷を離れ、一人前になっていく姿を描いたものです。菊池は関西学院で菅亀太郎という教師に出会い、人生の進路を見出します。会議中、アメリカ人宣教師をやりこめてしまうほど英文学の素養がある教師として登場する菅には実在のモデルがいました。1894年から普通学部で英語を教えた鈴木愿太です。小説連載時、鈴木は仙台の『河北新報』主筆を務めていました。小説では、関西学院校長も元仙台藩士として描かれています。
1886年、南メソヂスト監督教会の日本伝道開始に伴い、通訳としてランバス一家とともに上海から神戸に来た鈴木は、同教会日本伝道の初穂となり、アメリカに留学しました。7年間の留学生活を終え、神戸で伝道と教育に一生を捧げるつもりで帰国したにもかかわらず、3年足らずで関西学院を辞職してしまった点も、小説の中の菅と重なります。鈴木によれば、それは「大に知人の疑惑を招き、米国朋友の感情を害した様に思はれ」る出来事でした。
『思出の記』は蘆花の自伝的小説のひとつと言われています。同志社で学んだ蘆花は、主人公を関西学院で学ばせることで、何を伝えたかったのでしょうか。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 300, 2018.7)
48. 特別招待 -ラトビア建国100年-
ラトビアがロシアからの独立を宣言した時(1918年11月18日)、関西学院は創立の地、原田の森にあり、ラトビア人青年イアン・オゾリンが高等学部(文科・商科)で英語を教えていました。1920年5月、シベリア・極東地域ラトビア政府の要請を受けたオゾリンは、ラトビア外交代表としての職務を開始します。
「神戸、関西学院、ラトビア臨時政府外交・領事代理」としてオゾリンが書いた記事がThe Japan Advertiser紙に掲載されると、すぐにロシアが反応しました。日本帝国政府は投稿者をラトビア領事として正式に認めているのかと、神戸のロシア副領事が兵庫県知事に問い合わせたのです。知事から照会を受けた外務省は「帝国政府ニ於テ今日迄仝人ノ資格ヲ認メタルコト是無キ候」と回答しています。日本は、ラトビアの独立をまだ承認していませんでした。
しかし、オゾリンには祖国の名を広め、正しい情報を伝えたいという強い信念がありました。翌年1月、The Japan Weekly Chronicle 紙で「ロシア帝国に、時に不法に併合され、現在は解放された『境界の国々』の中で、ラトビアはもっとも保守的で、もっとも民族主義的国家である」と説明し、その共産主義化を断乎否定しています。そして「ロシア帝国主義シンジケートにより捏造された悪意ある虚報に御紙が貴重な紙面を割くことに私は驚愕している」と、警鐘を鳴らしました。
授業で、オゾリンは学生にこう語りました。「世界史のこの瞬間を生きる若者は、極めて幸運である。なぜなら、その若者は新しい世界を築き上げる特別招待を受けているのだから」。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 299, 2018.4)
47. 恩師と教え子
「私の卒業証書は特別ですよ。ベーツ先生のお名前があるのだから。ほら、ここに」。そう言って高等商業学校の卒業証書(1940年)を誇らしげに取り出されたのは、今年満100歳の誕生日を迎えられる齋藤昭さんです。その思いは齋藤さんだけではありません。80歳になったC. J. L. ベーツ第4代院長が1957年にこう書いています。「7,000人以上の青年、関西学院卒業生の卒業証書に私の名があります。彼らは時折手紙をくれます。こうして、東洋で師弟間に存在する麗しい敬愛の情が続いているのです」。
1940年7月4日、ベーツの院長辞任が理事会で承認されると、それを知った学生は騒ぎ始めました。学生会代表が院長室に押しかけ、これから各理事の家を回って抗議すると、ベーツに伝えました。さらに、全学生は集会を開き、院長への忠誠を誓いました。当時、高等商業学校3年に在学していた安枝修三さんは、「もっと頑張ってほしい。我々学生のためにも」と、英語でベーツに手紙を書いたそうです。それに対し、思いがけず返事が届きました。そのベーツ直筆の返信を、今から15年ほど前、宝物のようにお持ちになって、私に見せてくださいました。
「世界の何よりも、私は学生の愛情をありがたく思います。自分の息子同様に愛し、大切に思っています…」。手紙をくれた教え子への感謝の気持ちに溢れた返信は、祈りの言葉で締めくくられていました。「50年間、関西学院をお導きくださった神に祈りましょう。これからも、今までと同じように、愛する学院を導くのにふさわしい人を主のみ名によってお遣わしくださいますように。神が関西学院の真の頭(Head)であり、自分は主の僕(Servant)であることを私はいつも忘れないようにしてきました。そのことを忘れぬように。そうすれば、すべてうまくいくはずです」。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 298, 2018.2)
46. 「炎のランナー」を支えた友情
多田修平君(法学部3年)の活躍で、陸上短距離に注目が集まっています。実は、1924年のパリ五輪400㍍のイギリス代表エリック・リデルの金メダルの陰には、後に初代高等部長を務めた河辺満甕の友情がありました。その詳細を、河辺の死後出版された著書『千里山の声』(1971年)が教えてくれます。
1919年に高等学部(文科)を卒業した河辺は、留学先のエディンバラ大学でリデルと親しくなり、その隣室に移り住みました。宣教師の両親のもと、天津で生まれたリデルは、大学のラグビーチーム主将を務める街の英雄でした。1923年のある日、そのリデルからパリ五輪100㍍のイギリス代表に選ばれたことを告げられた河辺は、自身の短距離選手としての経験を生かし、練習を手伝い始めます。河辺の手元のストップ・ウォッチが何度か世界記録を示したことは、2人だけの秘密でした。
ところが、翌年春、リデルは出場を辞退したのです。競技が日曜日に行われることがわかったからです。驚いた河辺は、「君が日曜日に走って勝ったら、それでもう神の栄光をあらわすことになるではないか」と、翻意を促しました。しかし、信仰心篤いリデルの決意は、岩のように固かったのです。
6月、リデルは、平日に行われる400㍍に欠員が出たことを知り、出場を申し出ます。それからパリに出発するまでの2カ月間、死に物狂いで練習に取り組みました。河辺はパリに同行し、世話を続けました。予選を突破したリデルは、「カワベ君、どうか僕のために祈ってくれよ」と言って、決勝に臨みました。
決勝がスタートしました。200㍍まではリデルがトップです。しかし、その後が続かないことを河辺は知っていました。河辺は一心に祈りました。すると、信じられないことが起こりました。失速するどころか、300㍍あたりからむしろ加速し、一着でゴールしたのです。47秒6という世界新記録でした。栄冠を目の当たりにした河辺はこう書いています。「わたしは信仰の力、神の援助、精神力の奇跡を信じます」。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 297, 2017.10)
45. 松山から来た転校生
関西学院に野球チームができると、S. H. ウェンライト普通学部長は用具を提供し、グラウンドに出て自らノックしました。試合の応援にも駆けつけましたが、それは相手チームとの喧嘩が絶えなかったからです。判定を巡って議論することが多かったため、野球選手は「弁舌の徒」であることが求められました。
1897年9月、畑歓三が愛媛県尋常中学校から転校してきました。畑の同校入学は、夏目漱石の赴任と同じ年でした。ですから、小説『坊つちゃん』に描かれた出来事の多くは、畑にとって周知の事実だったそうです。松山時代から野球をしていた畑は、神戸で初めてカーブを投げた投手として知られています。それは、1898年に行われた乾行(けんこう)義塾(現・聖ミカエル国際学校)戦でのことでした。のちに第5代院長を務めた神崎驥一はこう語っています。「相手はこの畑投手の球(カーブ)が打てない。どうしたわけなのだろう、緩い球だから打てないのだろう、バットの振りを遅くして打てと義塾選手はいろいろ検討したものだ。ところがネット裏?からみていた義塾選手があの球は曲がるぞ、皆んな気をつけろ…と始めてカーブに気が付いたという思い出がある」。
勉学の面では、畑は数学に強い関心を持っていました。しかし、関西学院の教授法が前校の「山嵐」とは全く異なっていたため、興味を失くしてしまいました。代わりに、何をするためこの世に生を受けたのか、真剣に考えるようになりました。後年、関西学院の教師となった畑は、技量では劣らないのに神戸高商に勝つことができない庭球部のために、”Noble Stubbornness”(品位ある不屈の精神)という言葉を考案しました。現在、これは体育会全体の標語になっています。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 296, 2017.7)
44. 誕生日に書いた辞表
2017年5月26日はC. J. L.ベーツ第4代院長の140回目の誕生日です。ベーツが生まれたのはカナダのオンタリオ州にあるロリニャルという小さな村でした。
1940年の誕生日、63歳になったベーツは辞表を書きました。それが関西学院で迎える最後の誕生日となりました。前日の日記にはこう記されています。「神よ、学校の霊的生活を傷つけることなく、この細心の注意を要する状況をくぐり抜けて行くことができるようお導きください。しかるべき時にしかるべき行いを仕損じることのないよう、日々、刻々となすべきことをお示しください」。ベーツが辞任を決意するに至った出来事の発端は、前年3月の卒業式でした。院長の言葉をめぐって騒動が起こり、日本人が院長を務めるべきと考える日本人理事の存在が明らかになったのです。日記には数カ月にわたりベーツの苦悩が綴られています。
6月17日、辞意を受けた理事会は常務委員会を秘密裏に開き、当時の国内情勢、国際情勢の下では辞任を承認するのが賢明との結論に至りました。その決定をアメリカ人宣教師W. K. マシュースから聞かされたベーツは、「20年間、この職で働けたのは大変名誉なことだった。きっぱり辞める時が来たのだ。1942年まで続けたいと思っていたが、今が辞める時だ。罪をかぶる人間が必要なら、ヒトラーのせいにすることができる」と書きました。
12月30日、別れの日がやってきました。宣教師館にベーツ夫妻を迎えに来た車は、そのまま神戸港には向かわず、正門から構内に入り、中央芝生を一周しました。車が各建物の前を徐行する度に教職員と学生が飛び出して来て、別れを惜しんだと伝えられています。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 295, 2017.4)
43. クレセントの予兆
第4代院長を務めたC. J. L.ベーツは、1894年から3年間、モントリオールのマギル大学で学びました。当時、モントリオールはカナダ経済の中心で、セントローレンス川には世界中の船が集まって来ました。若き日のベーツは、この大都会のどの辺りに住んでいたのでしょうか。
ベーツが学生時代に使ったと思われる本が学院史編纂室に残っています。その中に住所が記されているものがありました。”C. J. L. Bates / Sept. 22, 1894 / 1st year Arts / 21 Lorne Crescent / Montreal” (Ancient History for Colleges and High Schools). ベーツは、大学の北側にあるローン・クレセント(三日月型の通り)21番地に住んでいたのです。住所に”Crescent”の文字を見つけた時、その後の関西学院(三日月が校章)との深い縁の予兆のように感じられました。
この情報をもとに、モントリオール在住のご令孫チャールズ・デメストラルさんがケベック州立図書館・文書館アーキビストの協力を得て調査されました。その結果、1890年から1909年当時この通りの地番は21番まであり、1894年に21番地を所有していたのはドーラン氏であったことがわかりました。さらに、現地に足を運び、写真を撮影し、送ってくださいました。ローン・クレセントに面しているのは建物側面の小さな扉です。大学生のベーツはここから出入りしていたのでしょう。扉上部の半円部分にはステンドグラスが填められていたと思われます。
関西学院辞職後、カナダに帰国してからトロントに求めた小さな家をベーツは「クレセント・コテージ」と呼びました。それは、関西学院を懐かしんでのことだったに違いありません。庭には、日本政府からカナダに贈られた桜の木が植えられていたそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 294, 2017. 2)
42. 原田の森に「あさが来た」
高視聴率を記録したNHK連続テレビ小説「あさが来た」(2015年度下半期放送)は、幕末から大正にかけて活躍した女性起業家広岡浅子の生涯を描いたものでした。1911年12月25日に大阪教会で同志社出身の宮川経輝牧師から受洗した浅子は、原田の森時代の関西学院を訪れています。
1912年に開設された高等学部商科の学生は、商業教育の実際化を計り、学生相互の親睦を深めるため、商科会を創設しました(1922年より商学会と改称)。その第一回例会は翌年2月23日に行われ、神戸青年会初代理事長村松吉太郎が講演しました。商科会による講演会はその後も続き、1915年11月には、広岡浅子が招かれ、「所感」というタイトルで話をしました。講演内容に関する記録は見当たりませんが、写真が残されています。最前列中央に女性が3人並ぶ記念写真(浅子の向かって左に吉岡美国院長夫人初音、右にC. J. L. ベーツ高等学部長夫人ハティ)は、男子校だった関西学院には珍しいものです。
商科会初期の活動には、このほかにも特筆すべきものがあります。1913年夏休み、学生は教員宅を回って出資を募り、実習機関として消費組合を創設しました。学生が洋服を着て店員となり、文房具等の販売を始めたのです。当時キャンパス周辺は熊内大根の名所として知られ、のちに繁華街となる上筒井通りはモロコシとナスの畑でした。この消費組合は繁盛し、やがて専従者を雇うまでになりました。
1915年2月、商科会の会報『商光』が刊行されました。第一号の巻頭を飾ったのは、ベーツ高等学部長による講演論説OUR COLLEGE MOTTO, “Mastery for Service”でした。高等学部のモットーとしてベーツが提唱したこの言葉は、今や関西学院全体のモットーになっています。
こうした活動を牽引したのは、商科1期生(入学時36名、4年後の卒業時12名)の面々でした。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 293, 2016.10)
41. グリークラブの名曲「U Boj(ウ・ボイ)」
「U Boj」は、日本最古の歴史を持つ関西学院グリークラブの演奏会に欠かせない名曲として知られています。この曲が伝えられた1919年9月、関西学院は原田の森(現・神戸市灘区)にありました。シベリアを転戦していたチェコスロバキア軍が船の修理のため神戸に滞在した時、グリークラブが兵士たちと交流し、手に入れた4曲の中の1曲でした。以来、曲名が「前線へ」を意味すること以外、歌詞の言語さえ不明のまま関西学院だけの演奏曲として歌い継がれてきました。
1965年9月、グリークラブは第1回世界大学合唱祭に招かれ渡米しました。ニューヨークのヒルトンホテルで開催された昼食会の席で陽気に騒ぐ南米の学生に触発され、グリークラブが「U Boj」を歌い始めた時、思いがけないことが起こりました。ユーゴスラビア連邦のスコピエ大学(マケドニア共和国)の学生が立ち上がり、唱和したのです。「チェコ民謡」として半世紀近く歌い続けてきた曲が、実はユーゴスラビアの有名な歌劇の中の曲であることが判明した瞬間でした。「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われたユーゴスラビア。「U Boj」はその中のクロアチア共和国の曲でした。
2008年9月、関西学院グリークラブフェスティバルに招かれたクロアチア共和国のドラゴ・シュタンブク駐日大使は、現役学生や卒業生と共にステージに立ち、「U Boj」を熱唱されました。2012年10月、東京で行われた新月会(グリークラブOB合唱団)リサイタルに招かれた後任のミラ・マルティネツ大使は、アンコール曲「U Boj」の演奏が終わるやいなや感極まって客席から立ち上がり、ステージに大きな拍手を送られました。歌詞のクロアチア語の発音について、両大使にこっそりお尋ねしたことがあります。「完璧です」。お二人はにこやかに太鼓判を押されました。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 292, 2016.7)
40. 私立大阪商業学校とW. R. ランバス
アメリカの南メソヂスト監督教会は、1886年に日本伝道を開始しました。伝道初期の様子を教会機関誌から知ることができます。J. W. ランバス(1889年に関西学院を創立したW. R. ランバスの父)が所属していた同教会ミシシッピー年会は、ルイジアナ年会、北ミシシッピー年会と共同でNew Orleans Christian Advocateを発行していました。同誌1622号(1887年9月1日)で、日本人から寄せられた熱い声をW. R. ランバスが”Seven Doors”としてまとめ、紹介しています。その7つの扉の6番目が大阪にある3つの学校から受けた英語教師派遣要請でした。
「毎日2時間、初級英語を教える教師が求められています。給与は月90円。日本式家屋の住居と礼拝所が提供されます」。この要請に応えるため、神戸の外国人居留地47番に住んでいたランバスは、毎夜神戸で2時間働くほか、昼に大阪で4時間英語を教えていました。両都市往復には2時間かかったそうです。さらに、大阪で教えていた一校について、具体的にこう記しています。「この学校(商業学校)の理事は日本で最も進取の気性に富んだ人たちだと言われています。中国との通商関係を見込んで、中国語(北京語)が毎日教えられています」。
2015年4月、大商学園高等学校事務長の平豊さんが来室されました。同校の年史で紹介されている1887年8月30日、31日付『朝日新聞』広告で、「本校教員」(として出願、または出願すべき者)に挙げられている「米国医学博士ランバス」とは関西学院創立者のことでしょうかと質問を受けた時、129年前にランバスが書いたこの記事の文言が鮮やかに私の脳裏に浮かびました。ランバスは確かに医者で、示された広告には英語だけでなく「支那語」教員の名もあったからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 291, 2016.4)
39. 予言的中-中学部校舎焼失-
1917年2月28日午前9時過ぎ、中学部生徒が1時間目の授業を終え、礼拝に向かっていた時のことです。唱歌担当の岡島マサ(吉岡美国前院長義妹)が校舎3階の倉庫からパチパチと音がするのに気付きました。不審に思い扉を開けると、中は火の海でした。急を聞いて駆け付けた教職員、学生・生徒は、一致団結して重要書類や校具を運び出しました。音楽室から大型オルガンを一人で担ぎ出した生徒や、延焼を食い止めるため、本校舎から付属校舎に続く廊下を破壊した猛者もいたそうです。
懸命の努力も空しく、4年前に竣工したばかりの中学部校舎は短時間の内に焼け落ちてしまいました。当時、キャンパスがあった原田の森には水道設備がなく、市電の終点上筒井駅の防火用水道口からホースを135本も繋いだと伝えられています。
実は、かつてこの地は第三高等学校移転候補先の一つでした。同校は、1949年、京都大学(1897年、京都帝国大学として創立)に統合されましたが、その起源は1869年に大阪で開校された舎密局(せいみきょく)と洋学校まで遡ります。両校は合併し、1886年に第三高等中学校(8年後、第三高等学校と改称)となり、1889年8月、京都に移転しました。この移転問題は大学設置構想と相まって、その4年前から具体化していましたが、最有力候補だった京都伏見案が頓挫した後、学校側が一番に推した移転先が兵庫県原田村だったのです。そこに関西学院が創立されたのは1889年9月のことでした。
関西学院高等商業学部同窓会の『会報』第7号(1927)はこう伝えています。「第三高等学校が是の地に新設される可きであつたに其当時の技師が断言して曰く、萬一是の土地に新設して火事でもある時は全校舎を焼く故に他に適当の地あらば良きとの事にて京都の吉田山下に持つて設立されたと聞く…」。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 290, 2016.2)
38. ヘーデンの日記
T. H. ヘーデンは、南メソヂスト監督教会宣教師として1895年8月に32歳で来日し、45年にわたり日本で活躍しました。関西学院では、J. C. C. ニュートンの跡を継ぎ、第2代神学部長を務めました。来日1年後に書き始めた日記は、アトランタのエモリー大学に保管されています。
日記は1896年10月21日から始まります。初日には、1年前の来日時の模様が詳しく記されています。ヘーデンがヴァージニア州パルマイラの実家を発ったのは1895年7月22日朝でした。27日にテネシー州ナッシュビルでジェニー・コンウェルと挙式後、シカゴへ。そこでニュートンと合流し、カナダ太平洋鉄道で大陸を横断。バンクーバーから船で横浜、神戸に向かいました。ニュートンは1888年の来日後初の休暇帰国を終え、関西学院に戻るところでした。
この日記のおかげで、のちに第4代院長を務めるC. J. L. ベーツ一家が関西学院に到着したのは1910年9月6日であったことがわかります。ベーツは、カナダ・メソヂスト教会から送られた最初の宣教師でした。ベーツ一家は10日朝までヘーデン家の世話になりながら、家具の到着を待ち、自分たちが暮らす宣教師館の準備をしました。
1918年9月15日には、ラトビア人青年イアン・オゾリンが客間に滞在中であることが記されています。9月から関西学院で教え始めたオゾリンは住む家が見つからなかったようです。前年妻を亡くしたヘーデンの家で暮らしながら、学生寮に食べに行っていたことがわかります。日本の普通の食事を学生に交じって食べるのがオゾリンの性に合っていたのでしょう。そんな同居人のことを一旦「シベリア人」と書き、それを「ラトビア人」に直しているのも興味深いことです。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 289, 2015.10)
37. 吉田松陰の脇差し
1929年、カナダ人宣教師H. W. アウターブリッヂの長男ラルフは医学を学ぶため帰国しました。離日前、ラルフは父の教え子藤田威和男の自宅に招かれ、日本刀の見事なコレクションを見せてもらいました。ラルフ自身も日本刀の収集を趣味にしていたからです。記念に一振りの脇差しを贈られました。以来、この脇差しは世界中どこを旅する時もラルフと共にありました。
外科医となったラルフは、1979年のある日、バンクーバーの自宅書斎の壁に飾られた脇差しに目を留めました。すっかり色褪せた錦織の鞘はその古さを物語っています。鞘内部の黒い綿の裏打ちはほとんど朽ちていました。その時、内側に何か白いものがあることに気付きました。慎重に取り出してみると、絹地に「吉田松陰好作造 松陰差料 記念品 …藤田家宝」の文字が見えました。
驚いたラルフは、これが事実ならこの脇差しは私有すべきでないと考えました。そして、その真偽が検証されました。松陰が米艦に乗り込んだ際、小舟に置き忘れた脇差しは後日、松陰に返還されました。それが藤田家に伝えられたのは、兵庫県知事伊藤博文を通してのことでした。しかし、確かな史料は見つからず、「伝吉田松陰の刀」と鑑定されました。
1988年6月8日、脇差しは松陰生誕の地でラルフの手から小池春光萩市長に返還されました。その時、日本で生まれ育ったラルフは日本語でこう挨拶しました。「松陰は幕府の禁制を犯して日本を出国し、世界に雄飛しようとはかりました。その夢は残念ながら果たせなかったわけでありますが、はからずもその刀がカナダ人青年である私に託され、世界の五つの大陸を訪れることになったわけであります…」。松陰斬首から129年後のことでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 288, 2015.7)
36. お気の毒トリオがゆく
関西学院第4代院長選出は難航しました。J. C. C. ニュートン第3代院長が高齢を理由に辞任を願い出た時、次期院長として理事会で名前が挙がったのは、R. C. アームストロング、C. J. L.ベーツ、松本益吉の3名でした。しかし、様々な意見が出てまとまらず、一旦白紙に戻されました。2カ月後、理事会で再審議された時、ベーツ、D. R. マッケンジー、松本が候補に挙がりました。投票の結果、ベーツが7票を獲得し、院長に選出されました。当初から一貫してベーツを推していたのはニュートンでした。71歳と42歳の二人は親子ほど年が離れていました。
1920年4月29日、院長選出の知らせをベーツはカナダのオタワで受けました。当時、関西学院から東京の中央会堂(現・本郷中央教会)に移っていたベーツは、弟急死の知らせを受け、帰国していました。アメリカのイェール大学からも招聘を受けていたベーツは、即座に関西学院の方に”Accept”と返電したかったのですが、そうできない事情がありました。日本に帰る旅費がなかったのです。
「私は日本に750ドルの借金があります。これは先の委員会の援助により450ドルに減らすことができそうです。しかし、日本に戻るには800ドル以上必要です。伝道局の援助は期待できないでしょうか? …私にはこんな要求をする権利などありませんし、こんなことをお願いするなんて身の縮む思いです」。
これは、ベーツが伝道局のエンディコット宛てに出した4月30日付書簡の一部です。院長就任式が10月15日に関西学院で無事執り行われたことから推測すると、ベーツは金策に成功したようですね。(学院史編纂室 池田裕子; 『KG TODAY』No. 287, 2015.4)
35. 「日本一の英語」と「文学部の宝」
関西学院創立初期の日本人教師には留学経験者もいて、英語の達者な人が多かったようです。中でも、第2代院長を務めた吉岡美国の英語は日本一と言われました。その英語力を伝える逸話があります。
セオドア・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めたフェアバンクスが1909年に来日した時、神戸高等商業学校で講演会が開催されました。講演終了後、神戸高商校長の水島鐵也と関西学院院長の吉岡が英語で謝辞を述べました。その時、吉岡の英語があまりに垢抜けしていたので、「日本でこのような洗練された英語を聞くとは期待しなかった」とフェアバンクスが驚嘆したそうです。その発音については、学校近くにあった耶山堂で注文する時、アメリカ人並みの発音で ”orange cider”と言うので、全く通じなかったと教え子が書いています。戦後、占領軍が来た時、吉岡は自宅の門前に英語の木札を掲げました。そこには、英米人で困っている人があれば、遠慮なくこの家にお入りください…という意味の言葉が書かれていたそうです。
吉岡とは対照的に、決して英語を使わない教師もいました。神学部、普通学部、文学部で漢文を教えた村上博輔です。ドイツ語で日記を書き、英文学書を自由に読みこなし、フランス語もできた村上は、「人格、学識共に群を抜いて優れてゐた近来稀に見る大人物であった」と『文学部回顧』(1931)で紹介され、「文学部の宝」とまで称賛されています。広島でW. R. ランバスから受洗した村上が、宣教師に対し英語を使うことなく、悠々と日本語だけで押し通す姿は、吉岡とは別の意味で学生の目には痛快に映ったことでしょう。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 286, 2015.2)
34. 人知れぬ苦労
中国や日本に派遣された宣教師の子どもの多くは、家庭内で両親から教育を受けて育ちました。しかし、学校教育も必要との考えから、ある年齢に達すると、家族と離れて単身海を渡り、故国の学校に入学するのが常でした。そんな子どもたちには人知れぬ苦労がありました。
関西学院の創立者ウォルター・ランバスの妹ノラは、1874年に11歳で帰国しました。テネシー州ナッシュビルのD. C. ケリー家に大学生の兄と共に下宿し、学校に通うことになったのです。敬愛する9歳年上の兄が一緒とは言え、両親と離れての異国での生活は心細いものでした。しかも、兄の靴下の穴かがりという骨の折れる仕事まであったのです。父や母、上海の家、中国の友だちのことを思い、ノラは一晩に何度も泣きながら眠りにつきました。
1895年まで関西学院で教えていたT. W. B. デマリーの長男ポールは、1910年にテネシー州マッケンジーの高校に入学しました。当時一家は松山に住んでいました。帰国にあたり、神戸の中国人テーラーで父親が誂えてくれた洋服は、生地も仕立ても申し分ないものでした。ただ、デザインがいささか流行遅れでした。登校したポールは着ている服のことでからかわれました。「これは神戸の中国人テーラーが仕立てたアメリカンスタイルの服だ」。ポールが言い返すと、「お前は日本人か? 中国人か?」と囃し立てられました。「どちらでもない。僕はアメリカ人だ。僕が日本人に見えるのか?」。「見えるさ。こいつは『ジャップ』だ。ジャップ・デマリー!」。
以来、大学を卒業するまでポールはそう呼ばれ続けました。それは、ポールにとって不愉快ではなく、むしろ嬉しいことでした。自分が皆に受け入れられた最初のしるしだったからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 285, 2014.12)
33. 生と光と力の拠点
原田の森の院長室からは、学生の通学風景がよく見えました。関西学院の学生・生徒に交じって、北隣にあるカナディアン・アカデミーに通う外国人少年少女の姿もありました。1922年6月のある日、その様子を眺めながら、C. J. L. ベーツ院長はこう考えました。「関西学院には世界各地の実に様々な人や文化が集まってくる。国家の枠を超えた拠点だ。目と心と頭を開いていれば、ここで暮らすこと、ここで教えること、ここで学ぶことは、特別な恩恵である」。
キャンパスの中央に古い神社がありました。その周りに、レンガ造りの新しい校舎が次々に建てられました。神学館(1912)、中学部(1913、1919)、中央講堂(1922)、文学部(1922)、高等商業学部(1923)。ベーツはその見事な新旧対比に目を留めました。そして、進歩の中で先人の成し遂げた偉業を忘れてはならないと考えました。
窓から遠くに目をやると、神戸の街と製鉄所と港が見えました。海は世界に通じていました。暗くなると追いはぎが出ると恐れられた学校の周囲は、創立時とはすっかり様相を変えていました。交通網が充実し、神戸中心部へのアクセスが便利になり、大阪方面への移動もスムーズになりました(1919年、神戸市電布引線が熊内一丁目から上筒井まで延長。1920年、阪神急行電鉄神戸線開通)。近くに駅ができたことにより、正門前の大根畑は姿を消し、商店街になりました。
「新旧、現実と理想、善悪、生死、関西学院はそれらすべての中心にいる。…私たちの手で関西学院を生、光、そして力の拠点にしようではないか。そうしようと思えば、私たちにはそれができるのだ」。今から92年前、院長就任2年目のベーツは、学生にこう呼びかけました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 284, 2014. 9)
32. 遺骨の行方
関西学院を創立したW. R. ランバスは、創立後2年も経たない内に日本を離れました。しかし、日本との縁が切れたわけではなく、何度か来日しています。1907年には卒業式で話をしました。天に召されたのも、日本訪問中の1921年9月26日のことでした。
横浜で亡くなったランバスの遺骨は原田の森の神学部講堂に運ばれ、10月3日にチャペルで追悼礼拝が行われました。数日後、遺骨は関係者に抱かれ、小野浜墓地に向かいました。1892年に逝去した父親に別れを告げるためでした。それから、上海に渡りました。吉岡美国第2代院長によると、それはご遺族の希望だったそうです。代わりに、中央講堂の礎石に遺髪が納められました。10月11日、上海の教会(沐恩堂)で葬儀が行われ、ランバスは八仙橋公墓E27に埋葬されました。愛する母の傍らで安らかな眠りについたのです。
1957年12月、墓地が上海郊外の吉安公墓に移転し、母子の墓も第6区画 101番と102番に移されました。ところが、文化大革命が起こり、行方がわからなくなってしまいました。それは1967年5月か6月のことであったと推測されます。これらの調査は1980年にW. D. ブレイ夫妻によって行われ、後年、山内一郎院長、神田健次教授も個別に現地を訪ね歩きました。
これとは反対に、蘇州で革命の嵐から守られた墓がありました。襲撃を察知した何者かがランバスの義弟W. H. パークの骨壺をこっそり運び出し、隠したのです。遺骨は1987年に再び埋葬されました。中国で医療伝道に生涯を捧げたパークは、ランバスとの関係を生前こう語っていたそうです。「私は、家と家具と病院と医学校と妹さんをランバス氏から譲り受けました」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 283, 2014. 8)
31. 原田の森の小さな学校
「アジアでリーダーシップがこんなにも重要とされる時、ニュートンをお遣わしくださった神に私たちは感謝しなければなりません」。関西学院を創立したW. R. ランバスは、J. C. C. ニュートン第3代院長をこう評しました。誕生間もない小さな学校が数々の困難を乗り越え、関西学院としてのアイデンティティを築くことができたのは、他ならぬニュートンのおかげと考えたのです。
病気のため北海道農科大学(現・北海道大学)を退学した学生が進路を決めかね、原田の森の関西学院を訪ねた時、門の前で白髪の老人に声をかけられました。事情を話したところ、「では、関西学院に来なさい」と親切に勧められました。「こういう温かい人がいるなら、きっと良い学校に違いない」。そう確信した学生は高等学部文科への入学を決めました。この学生は、後に中学部教諭を務めた平賀耕吉、白髪の老人はニュートン神学部長でした。
成全寮2階で行われた神学部学生会が長引き、ニュートンが寮で学生と夕食を共にしたことがありました。その夜のおかずは、おからといなごを甘辛く煮たもので、ニュートンにとっては初めて口にするものでした。4~5日後、ニュートンから寮にローストチキン3羽の差し入れが届けられました。その心遣いと料理の美味しさに40数名の神学生は感激しました。
「ニュートン先生には、威厳に満ちた、神聖とも言えるオーラがありました」。第7代院長を務めたカナダ人宣教師H. W. アウターブリッヂはこう書いています。学校経営に関し、厳しい決断を迫られる日々、ニュートンは全構成員に父親のような愛情を注いだと言われます。原田の森の小さな学校はニュートンの温もりに包まれていました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 282, 2014. 6)
30. ミズーリ州の W. B. パルモア
1886年11月26日、のちに関西学院を創立するW. R. ランバスは、神戸の居留地47番で青少年のための読書館(夜間)を始めました。この読書館は、翌年 1月 4日に開催された南メソヂスト監督教会日本宣教部会において、パルモア学院と命名されました。それは、神戸を訪れ、読書館に深い関心を寄せたW. B. パルモア牧師から100ドルの寄付を受けてのことでした。この寄付は、図書や雑誌の寄贈と共に毎年続けられることになりました。
1888年11月 1日、N. W. アトレーがパルモア学院で昼間の授業を開始しました。翌年1月には、それが昼間の学校になりました。9月28日の関西学院創立に伴い、アトレーは初代普通学部長に就任します。パルモアは、関西学院創立前史に大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
ランバスの母校ヴァンダビルト大学 1期生のパルモアは、ミズーリ州で20年以上St. Louis Christian Advocate誌の編集に当たったほか、世界中を旅した旅行家としても知られていました。神戸だけでなく、メキシコにもパルモアの名を冠した学校がつくられました。ヨーロッパからタイタニック号で帰国する予定だったところ、パリで交通事故に遭い肩を骨折したため命拾いしたとのエピソードが残っています。
創立初期の関西学院で教えた鈴木愿太(上海からランバス一家と共に来神した通訳、南メソヂスト監督教会日本伝道の初穂)、西川玉之助等の留学先はミズーリ州のセントラル大学(現:セントラル・メソジスト大学)でした。昨年10月、同大学を訪問した時、パルモアは何人もの学生を経済的に支えていたと、アーキビストのジョン・フィンレーさんが教えてくださいました。」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 281, 2014. 4)
29. それぞれの義和団事件
関西学院第4代院長(1920-40)を務めたC. J. L. ベーツが宣教師としての献身を決意したのは、1902年にトロントで開催された学生ボランティア大会に参加したことがきっかけでした。当時、モントリオールで牧師をしながらウェスレアン神学校に通っていた24歳のベーツは、金銭的にも時間的にもトロントまで行く余裕はありませんでした。1月に神学校を訪れたF. C. スティーブンソン博士は、そんなベーツに10ドルを差し出し、大会への参加を勧めたのです。
大会は翌月、トロントのマッセイ・ホールで開催されました。会場で、J. R. モット博士が中国からの電報を読み上げました。「北中国は呼んでいる。あきを埋めよ」。それは、1900年に起こった義和団事件により、250人の宣教師と数千人の中国人信徒が殺されたことを指していました。この時、300人の若い男女が立ち上がりました。その中に若き日のベーツの姿もあったのです。
義和団事件には関西学院を創立したW. R. ランバスの妹ノラ一家も巻き込まれました。全ての宣教師が任地を離れ、上海に移るよう命じられた時、李鴻章に対する信頼の証しとして、ノラの夫W. H. パークだけは頼まれ、しばらく蘇州に留まりました。ある種の人質でした。夫を支え、妻も娘と共に残りました。実際、博習医院(蘇州病院)には患者が溢れかえっていたのです。中国の役人が毎日家族の無事を確かめに来ました。
そんなある日、輿に乗って往診に出かけたパークが襲われました。「外国人を殺せ!」。集まった群衆から叫び声が上がりました。危機一髪のまさにその時、輿の中を覗いた誰かが制しました。「外国人じゃない。パーク先生だよ」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 280, 2014. 2)
28. 東京オリンピックとカナダ親善演奏旅行
2020年夏のオリンピック開催が決まった東京で、アジア初となる第18回オリンピック競技大会が開催されたのは1964年10月10日から24日まででした。関西学院からは、陸上競技、飛込競技、馬術、サッカー、バレーボール、レスリングに11名が出場しました。「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームを率いた大松博文監督は、関西学院排球部時代、「左手によるタッチ攻撃と右手によるスパイクを見事に使い分け」た名選手だったと、かつてのチームメイト末尾一秋教授が紹介しています。
この時、全国吹奏楽コンクールで2年連続優勝した応援団総部吹奏楽部がオリンピックで賑わう日本を後にしました。カナダ選手団派遣のための特別機を利用し、カナダ親善演奏旅行に向かったのです。3年前に関西学院を訪問したディフェンベーカー首相への答礼の意味合いもあったようです。こうした各国選手団派遣機を利用したチャーター計画がオリンピックを前に次々に申請されましたが、日本の航空運賃体系を乱すとの理由から却下されました。関西学院の申請だけが、外務省、運輸省の好意により唯一の例外として認可されたと『母校通信』は伝えています。
吹奏楽部が乗った飛行機は羽田からモントリオールまで12時間半で飛びました。民間機としての世界最長記録だったそうです。ベーツ第4代院長の母校であるマギル大学を皮切りにバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学まで、バスで移動しながら20回以上の演奏を行い、各地で歓迎を受け、マスコミにも大きく取り上げられました。そして、アウターブリッヂ第7代院長との再会、前年亡くなったベーツ院長の墓参りを果たし、オリンピック閉会式の夜遅く無事帰国しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 279, 2013.12)
27. 創立五十周年記念式典
1939年10月14日、関西学院は創立五十周年記念式典を挙行しました。その招待状は、6月30日付でC. J. L. ベーツ第4代院長から海外の諸大学に送られました。この時の発信記録は見当たりませんが、出欠の回答は残されているだけで70校近くにのぼります。北米のみならず、イングランド、スコットランド、アイルランド、レバノン、アフリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドの大学からも返信が寄せられ、内20校からは出席の返事がありました。出席の中には、南メソジスト大学、トロント/ヴィクトリア大学、マウント・アリソン大学等、現在も協定校としてお馴染みの学校が含まれています。
船旅の時代のことですから、出席といっても関西学院のために代表団がはるばる来日するわけではありません。招待状を受け取った各大学は、日本在住の卒業生に連絡し、母校の代表として関西学院の記念式典に出席するよう要請していたのです。日野原善輔はデューク大学、S. M. ヒルバーンは南メソジスト大学、W. K. マシュースはヴァンダビルト大学、その妻エヴァはランドルフ・メイコン大学の名代を務めました。実は、その頃のベーツは、院長は日本人であるべきとの考えを持つ人が学内にいることを知り、辞任を考え始めていました。こうした困難な状況の中、世界中の大学に創立五十周年を共に祝って欲しいと願ったのです。
関西学院の使命とその歴史を簡単に紹介したベーツの招待状に対し、ボードン大学(メイン州)のシルス学長はこう返信しました。「今日のような緊張感と不確実性に満ちた時代、高等教育機関の国際親善に果たす役割は実に大きなものがあります」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 278, 2013.10)
26. 「人間宣言」とヴォーリズ
関西学院第4代院長C. J. L.ベーツとそのキャンパス設計者W. M. ヴォーリズの親交についてはよく知られています。関西学院におけるヴォーリズの初仕事は原田の森の神学館建設(1912年)でした。1940年12月末、半身不随の妻を連れ離日したベーツに対し、日本人と結婚していたヴォーリズは日本に帰化する道を選び、一柳米来留と名乗りました。そんなヴォーリズが戦後、ダグラス・マッカーサーと近衛文麿の間を取り持ったことは、上坂冬子の「天皇を守ったアメリカ人」(『中央公論』1986年5月号)等で紹介されています。ここではヴォーリズがカナダのベーツに書き送った手紙(1947年3月24日付)から生の声を紹介しましょう。
「私は〔近衛文麿〕公とマッカーサー元帥との最初の会見を手配するための私的な使者でした。さらに驚くべき仕事は、天皇もその先祖も自分たちのことを『神』とは考えていないという天皇の宣言を提案することでした。外国人に理解されうるある種の宣言の英文原稿を作ることまで〔近衛〕公に頼まれたのです。公も私も天皇の心情を理解していました」。近衛の求めに応じたことをヴォーリズは日記にも記しています。日記によると、「『天皇の一言』を含む詔勅、または宣言文の草案」をヴォーリズが思いついたのは1945年9月12日早朝だったようです。
昭和天皇のいわゆる「人間宣言」(1946年1月1日)へのヴォーリズの関りは、手紙が書かれた1947年時点では公にされていません。それをベーツに告げていることから両者の信頼関係の強さがうかがわれます。このヴォーリズ書簡は、1999年にモントリオールを訪問した際、ベーツ院長ご令孫アルマン・デメストラルさんのお宅で興味深く拝見した資料のひとつでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 277, 2013.8)
25. クレセントの秘密
J. C. C. ニュートン第3代院長の故郷はサウスカロライナ州ペンデルトンです。2002年に曾孫のエモリー・アンダーウッドさんとその地を訪ねた時、クレセントマークが白く染め抜かれた青い州旗が目に留まり、我が目を疑いました。何故ここに関西学院の校章があるのでしょうか。
関西学院の校章制定は、学校創立から5年後の1894年のことでした。選ばれたクレセントには、月が太陽の光を受けて輝くように、我々も神の恵みを受けて自らを輝かせ続ける存在であり、新月がやがて満月になるよう、理想を目指し、進歩向上して行くのだとの意味づけがなされました。しかし、後年、クレセントが選ばれた本当の理由を卒業生から尋ねられた吉岡美国第2代院長はこう答えたそうです。「あれはそんなにむつかしいわけがあつて付けたのではない。昔の武士が戦争にいくとき…、兜の正面に三日月を付けたのがあるがあれから思いついて付けたのだ」。
この話をニュートンの生涯に結びつけて考えると、17歳で南軍の一員として戦った南北戦争が思い起こされます。ニュートンはクレセントマークを付け、故郷のために戦ったのではないでしょうか。植民地時代からサウスカロライナのシンボルだったクレセントが兵士の帽子に初めて使われたのは1760年2月のことだったと言われています。クレセントの中に”PRO PATRIA” (祖国よ)、“LIBERTY”(自由)等の文字を書き込んで独立戦争を戦った部隊もありました。
ニュートン院長時代の関西学院に学び、クレセントに対する思い入れが人一倍強かった稲垣足穂(旧中大8)は「帽章が曲がっている」と教師から注意を受けた時、「私は本物の三日月の傾きにあわせて徽章の角度を変えているのです」と胸を張ったそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 276, 2013.6)
24. 吉岡美国の留学-ヴァンダビルト大学-
関西学院神学部教授に任命された吉岡美国は、1890年からアメリカに留学することになりました。留学先は、創立者W. R. ランバスの母校ヴァンダビルト大学神学部(テネシー州)でした。
そこで吉岡は尹致昊(ユン・チホ)と親交を結びます。上海の中西書院で学んでいた尹は、南メソヂスト監督教会宣教師W. B. ボンネル、Y. J. アレンの尽力により留学していました。ランバスを通じ日本で既に顔を会わせていたと思われる2人は、信仰や世界情勢や結婚観について語り合い、時には激論を戦わせました。尹は日記の中で吉岡の人柄と英語力を高く評価しています。その吉岡から牧師ではなく政治家になると予言された尹は、祖国に戻って朝鮮の独立運動に身を投じました。しかし、日本の敗戦後、その親日的態度が批判を浴び、自ら命を絶ったと伝えられています。
吉岡の1級下にはS. E. ヘーガーが学んでいました。ヘーガーは宣教師となって来日し、関西学院で普通学部長を務め、吉岡の病気療養中は院長代理を兼任しました。また、1年遅れで留学した関西学院神学部生政尾藤吉は、神学から法律に専門を変え、後にシャム政府の法律顧問を務めるなど活躍しましたが、公使として赴任中のバンコクで客死しました。
彼らの前には、宋嘉樹(耀如)も学んでいます。宋は、映画にもなった「宋家の三姉妹」の父親です。帰国後、上海で聖書の印刷に関わったことから実業界に転じて財をなし、子どもたちをアメリカで学ばせました。そして、長女靄齢が孔子の末裔を名乗る財閥の御曹司孔祥煕、次女慶齢が孫文、三女美齢が蒋介石と結婚したのです。数々の出会いを重ね、2年間の留学生活を終えた吉岡は、関西学院第2代院長に就任しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 275, 2013.4)
23. 失われゆく母校の記憶
久しぶりに母校を訪れた卒業生から失われた校舎への郷愁の思いをお聞きし、心打たれることがあります。高等部(旧中学部)校舎や商学部(旧高等商業学校)チャペル(講堂)を惜しむ声は特に大きいようです。近々中央講堂が取り壊されます。中央講堂は、創立70周年の折り、19年ぶりにカナダから来日したC. J. L. ベーツ第4代院長が”Mastery for Service”について力強く語った場所でした。そのベーツ自身も今はもう見られぬ風景をスケッチ(水彩)に留めています。
このスケッチは、ベーツ一家の住む宣教師館(現ゲストハウス)で描かれたものと思われます。建物の南面には広い芝生の庭が今もあり、生垣で囲われていますが、その庭から南西方向を眺めた景色です。現在関西学院会館がある辺りには日本人教師住宅が6軒建っていました。外国人住宅(宣教師館)は10軒あって、東西に一列に並んでいましたが(今も残るのは東端のベーツ館から9軒)、日本人住宅はその南側に東の端から3軒ずつ2列に並んで建っていました。そこは、キャンパスの一角に佇む小さな集落といった趣だったかも知れません。外国人住宅北側を東西に走る小道は、かつては「ベーツ坂」と呼ばれていたそうです。
1991年10月、大阪芸術大学建築学科建築歴史研究室がこれらの建物の実測調査を行いました。その調査結果と照合すると、描かれた建物は、左から日本人住宅A(北立面図)、E(北立面図)、B(東立面図)と見事に一致します。ベーツのスケッチは実に写実的でした。
紅葉した木が描かれていますから秋の風景です。スケッチブックの表紙に記された「1936」の文字から、1936年以降日本を去る1940年までの間に描かれたものと推測されます。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 274, 2013.2)
22. 国際感覚
「太平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」と歌われた黒船来航から60年以上経った1917年12月4日、「四杯」の一隻、サスケハナ号の乗組員だったキャプテン・ハーデーが原田の森の関西学院を訪れました。ペリー提督と共に日本を訪れた最後の生存者と言われた81歳のハーデーは、翌5日、高等学部南側広場で1300人もの聴衆を前に講演しました。日米修好通商条約調印後、幕府は新見正興(豊前守)を正使とする使節団をアメリカに派遣しましたが、その際副使を務めた村垣範正(淡路守)の随行員だった皆川菊陵が原田の森に駆けつけました。講演が終わり、両者が感慨深く握手を交わす姿を聴衆は感動の面持ちで見守ったと伝えられています。
数ヶ月にわたり各地で熱烈な歓迎を受けたハーデーは「日本滞在中、アメリカに対する非難の言葉は一言たりとも耳にしなかった」と、The New York Timesに書き送りました。
関西学院がこのような機会に恵まれたのは、アメリカとカナダの教会が経営に関っていたのも一因でしょうが、神戸港に近いという地の利も看過できません。卒業生でもある畑歓三教授はこう述べています。「…ここに住む者は著しく国際意識を覚醒されたものである。吾等も原田の学舎から神戸港を見下して、英米仏独以下其他の国々の貿易船を眺め一々船名迄も覚えて居たものであつた。休日にはボートを漕ぎ出して外国船訪問を行つたりした。まだ米国から木材を積んだ大帆船が頻繁に来る頃であつたが、或る年のクリスマスの前日に此帆船の一つを訪問し船長の妻君から非常な歓待を受け御馳走になつて帰つた事などあつた。かういふ事情に刺戟されて学生の気分は著しく国際的となり若輩ながら思ひを海外に馳する者少なくなかつたに相違なく…」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 273, 2012.12)
21. 二足の草鞋
1920年5月、関西学院高等学部の英語教師イアン・オゾリンは日本におけるラトビア外交代表としての職務を開始しました。それは、シベリア・極東地域ラトビア政府代表官吏マズポリスの要請を受けてのことでした。祖国の独立宣言から1年半が経過したその頃、日本駐在の各国領事館はラトビア人へのビザ発給をどう取り扱っていたでしょうか。オゾリンの報告によると、ロシアはウラジオストックへの旅行ビザ発給を拒んでいました。アメリカはラトビアの独立を未だ認めておらず、ビザ発給を断固拒否、イギリスとフランスはビザ申請者にまずロンドンやパリと連絡を取るよう求めました。イタリアはラトビア人へのビザを問題なく発給していました。
教師と新興国の領事という二足の草鞋を履いたオゾリンから著書『琥珀の國』の翻訳を頼まれ、神戸の舞子で1年近く同居生活を送った教え子曽根保は、この恩師のことを「16ヶ国語が話せる語学の天才」と語っています。曽根は、舞子駅から灘駅までの通学定期を買い与えられ、授業でブラウニングの詩を、車中ではドイツ語を教わりました。後年、英文学者になった曽根はブラウニング研究の第一人者と言われました。
1921年7月、出版を果たしたオゾリンはラトビアに帰国します。その辞職を惜しんだ関西学院は「学生に与へられたる紳士的感化と学術上の知識とは多大の感謝に値する」として謝礼を贈り、祖国の発展を祈りました。
2011年10月20日、関西学院を訪れたラトビア共和国初代駐日大使ペーテリス・ヴァイヴァルス氏は国樹オークの苗木を井上琢智学長に贈呈しました。それは、90年前のオゾリン(ラトビア語で「オーク」の意)が取り持つ深い絆の証しでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 272, 2012.10)
20. 敗戦間近の卒業式-失われた卒業証書-
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月、関西学院中学部は「教育に関する戦時非常措置方策」により、4年生と5年生を同時に卒業させました。しかし、両者を1945年卒業生と一括りにするのは適切ではありません。前年6月12日から3年生以上の通年(勤労)動員が始まり、十分な授業が行われていなかったとは言え、5年生は曲がりなりにも規定の在学期間を満了していましたが、4年生が授業を受けたのは約3年で、1年の動員後、5年生になることなく卒業させられたからです。また、1941年入学生から服装が全国的に国防色の折り襟服、戦闘帽、脚絆に統一されたため、憧れの黒い制服、金色の三日月が光る関西学院独特の黒い丸帽、白脚絆を身に付けることもできませんでした。創立以来、関西学院の教育を支えて来た宣教師も入学前には全員帰国していました。
異例の卒業式は3月27日に行われました。その2週間前、13日夜半から翌未明にかけての大阪大空襲で50万人が罹災、17日未明には低空から神戸が空襲を受け、準備していた卒業証書が灰になりました。式で渡されたのはB5版毛筆書きの仮卒業証書で、後日中学部事務室で大判の卒業証書と交換されたそうです。しかし、敗戦間近、連日連夜の空襲と戦後にかけての混乱の中、卒業証書を手にすることができた人はどの程度いたでしょうか。卒業式が行われたという記憶がない、卒業式の案内などもらわなかったとの声をこの年の卒業生からお聞きしています。
進学しなかった卒業生は、新年度になっても実務科生として学校の管理下に置かれ、学徒動員が続きました。8月15日の玉音放送を経て、21日に動員解除となり、実務科も解散したと思われますが、その実態は未だつかめぬままです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 271, 2012.8)
19. 学生会のはじまり
宗教部、学芸部、運動部、音楽社交会の4部からなる学生会が関西学院に誕生したのは、高等学部開設から間もない1912年6月29日のことでした。その影には、学生に責任を持たせ、自治実践の場を作りたいというC. J. L. ベーツ高等学部長の強い思いがありました。そんなのは成功しない、日本の学校には馴染まないとの反対意見に対し、責任感を自覚させる最善の方法は、学生を信頼し、責任を与えることだとベーツは主張し、譲りませんでした。
原田の森時代(創立から1929年3月まで)の学生会の取り組みを『関西学院学生会抄史』(1937)から抜き出してみると、学生会館の建設、淀川大洪水慰問活動、学生会基金制度の確立、関東大震災救済活動、高野山大学との交換講演会、文化講演旅行、模擬帝国議会開催、移民法反対運動等、実に活発多彩です。赴任間もない東京帝国大学出身の松澤兼人教授(戦後、衆参両院議員)は、関東大震災の余震おさまらぬ東京に乗り込む、恐ろしく活動的な学生の姿を目の当たりにし「官立の学校ではかうはいかないだらう」と驚きの声を挙げました。
学生会役員になるための選挙運動も凄まじかったようです。「政権発表演説会や立合演説、さてはポスター貼りからビラまきに至るまで、国会議員選挙を一寸小さくした丈で、戸別訪問は勿論、ひよつとすれば、コーヒー一杯で買収なども行はれてゐたかも知れない。…こんな風であるから、関西学院の学生は学校を出てその日からでも一人前の人間として、縦横無尽な働きが出来るのである」。他校に例のない、完全なる自治機関と言われた関西学院学生会が果たした役割の大きさを松澤はこう紹介しています。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 270, 2012.6)
18. “Mastery for Service”のルーツ
関西学院のスクールモットー“Mastery for Service”がカナダのマギル大学マクドナルド・カレッジと同じであることを知ったのは、1999年秋に同大学アーカイブズを訪問した時でした。カレッジ(農学部、家政学部、教育学部)のモットーは、1906年の開設時に出資者ウィリアム・マクドナルド卿が提案したと言われています。一方、マギル大学出身のC. J. L. ベーツが関西学院で新たに創設された高等学部(商科・文科)のためにこのモットーを提案したのは1912年のこととされています。両校のモットーの一致は偶然でしょうか? それとも、この言葉はベーツがカナダから持ち込んだものなのでしょうか?
カナダ側の状況を明らかにする書簡が Macdonald College Annual (1934年) に掲載されています。それによると、“Mastery for Service”の生みの親はトーマス・D・ジョーンズで、この言葉をマクドナルドに伝えたのはJ. W. ロバートソン(カレッジ長)でした。ジョーンズがカレッジ近くのメソヂスト教会で行った一連の説教”Service” “Equipment for Service” “Efficiency for Service”に関心を持ったロバートソンが、マクドナルドと検討中だったカレッジのモットーのことでジョーンズに相談したのです。この他に考えられるテーマはないかとの質問にジョーンズが答えたのが“Mastery for Service”でした。
「ベーツ先生はマクドナルド・カレッジのモットーをマネされたのです」。ベーツの片腕とも言えるH. F. ウッズウォースの次男ディヴィッドさんからお聞きしたこの言葉が事実なら、これらの人物とベーツの関係、あるいはカナダに休暇帰国中のベーツの足取りを追うことにより、両校のモットーの関係を示唆する新たな発見があるかも知れません。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 269, 2012.4)
17. 首相の紹介状
1889年の創立以来、教員組織、カリキュラム、校舎・設備等の整備を続けてきた関西学院普通学部は、1915年に改称し、中学部となりました。中学校令に基づく教育機関として認められたのです。その影には、卒業生永井柳太郎の働きがありました。
文部省に提出した名称変更申請に対する回答が得られず、関係者が気を揉んでいた時のことです。C. J. L. ベーツ高等学部長の上京を促す電報が東京の永井から届きました。ベーツを待っていたのは首相の大隈重信でした。永井は、関西学院卒業後進学した早稲田大学で大隈の知遇を得ていたのです。早稲田大学近くの大隈御殿を訪ねたベーツは、雄弁な大隈の話を一方的に聞かされるばかりで、口を挟むことができませんでした。息継ぎのわずかな隙をついて話を遮った永井が来訪の目的を告げました。ベーツはやっとの思いで文部大臣への取次ぎを依頼することができたのです。大隈は承諾し、紹介状を書くよう息子に命じました。書類ができると、大隈は自身で封印しました。その日の内に文部省を訪れたベーツは文部大臣に紹介状を提出しました。関西学院が普通学部(普通科)から中学部への名称変更を認められたのはその数日後のことでした。
大隈が紹介状を書いたのは異例のことだったのかも知れません。と言うのは、ベーツがこう書いているからです。「大隈公は、書類に自分の名を記したり、あとに残るものを書いたりは決してしないと聞かされていました。火鉢のそばに座ると、火箸で灰に書き、すぐに消してしまうので、写しをとることもできないのです。彼は平等論者のように語るけれど、その暮らしぶりは貴族的だと言われていました。しかし、早稲田大学創立により、彼が日本の近代幕開け期の自由教育に大きな役割を果たしたことは疑う余地がありません」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 268, 2012.2)
16. クリスマスキャロル
クリスマスの季節になると、関西学院グリークラブによるクリスマスキャロルを楽しみにされる方も多いことでしょう。かつては、宣教師館周辺もグリークラブのキャロリング先のひとつでした。訪問を受けた宣教師とその家族は、学生たちの心遣いに感謝し、日本を去った後もその美しい歌声を忘れることはありませんでした。
長年文学部長を務めたカナダ人宣教師H. F. ウッズウォースの次男ディヴィッドさんは、グリークラブのお気に入りは「もろびとこぞりて」”Joy to the World”だったと教えてくださいました。”the world”の発音に難があったことまで懐かしんでおられました。また、父親がクリスマスに必ず歌うのは「ウェンセスラスはよい王様」”Good King Wenceslas”だったそうです。
戦前の中学部で教えていたM. M. ホワイティングの長女フローレンスさんは、クリスマス・イブの想い出をこう記しています。「宣教師館が10軒並んでいました。私たちの家は6番です。最初は、遠くでかすかに聞こえるだけでした。歌声が段々大きくなってきました。とうとう、我が家に来ました。ちょうど私の部屋の窓の外に! 部屋は2階だったので、学生さんがよく見えました。夜おそかったけれど、私はベッドから飛び出し、窓に駆け寄りました。『メリークリスマス! ホワイティング先生のお嬢ちゃん』。グリークラブのお兄さんはそう言って私に手を振り、歌い始めました」。フローレンスさんも学生たちの英語の発音が不正確だったことを指摘しています。しかし、そのハーモニーの美しさはこの世のものとは思えませんでした。ベッドに戻った小さな女の子は、寒空に最後の音が吸い込まれるまで、身じろぎもせず耳を傾けたのでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 267, 2011.12)
15. 天皇機関説事件と中島重教授
戦後、日本で接収された文部省思想局の秘密文書「各大学における憲法学説調査に関する文書」が米国議会図書館に保管されていたとの記事が、2006年12月20日付け『神戸新聞』に掲載されました。この秘密文書は、1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、19名の憲法学者を機関説支持の度合いに応じ3段階に分類したものです。最も危険視された「速急の処置が必要な者」8名の中に、同志社大の田畑忍、東大の宮沢俊義等と共に関西学院大中島重の名がありました。
この文書は国家権力による追求の厳しさを伝えています。「自分は機関説論者。学説に殉じるのは本懐だ」。4月上旬、検事の問い合わせにそう答えた中島は、一月後、言葉を変えました。「改説ではないが、自省して機関説を説かないことにした」。
そんな中島のことを後年、ある教え子はこう書いています。「『あんなヒトラーのナチズムはやがて歴史の審判の前に崩壊するであろう』とあの病身で痩躯な教授のキッと構えた眼光を今でもありありと想い出す」。さらに、西宮警察の特高が中島の授業の受講生のノートを手に入れようと働きかけていたとの噂もあったそうです。
中島と関西学院に対する追及の手は緩みませんでした。10月12日、文部省に呼び出されたC. J. L. ベーツ院長兼学長は、翌日の日記にその模様を記しました。「中島教授および憲法の授業について、赤間〔信義〕氏と十分話し合った。〔天皇〕機関説を教えないだけではもはや不十分、憲法の教師は『主権の主体は天皇である』ことを教えねばならないと同氏は言う」。天皇機関説を排除する第2次国体明徴声明が発表されたのは、その3日後のことでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 266, 2011.10)
14. 忘れられた墓標
「可愛い赤ちゃんの悲報を受け、今朝から胸のつぶれる思いです。…絶望の淵に沈んでおられることとお察しします。お二人の悲しみの深さは、私どもの想像の及ぶところではないでしょう。それでも、祈りの中で少しでもお力になりたいと、毎日、そして日に何度もあなた方のために祈って参りました」。これは、1888年9月17日に書かれたW. R. ランバスからJ. C. C. ニュートン夫妻宛ての手紙です。ニュートンは、来日から4ヶ月も経たない内に、1年前に生まれたばかりの娘アニー・グレイスを亡くしたのでした。
のちに関西学院初代神学部長、第3代院長を務めるニュートンが娘ルースとアニーを連れ、妻レティと共に横浜に到着したのは1888年5月21日のことでした。アメリカの南メソヂスト監督教会が経営に加わった東京のフィランデル・スミス一致神学校に派遣されたのです。2ケ月後、神戸を訪れたニュートンは、留守を預かる妻にこう書きました。「ランバス父子ほど熱心な人を私は見たことがありません。彼らは昼も夜も休みなく働いています」。
アニーは東京の青山霊園に埋葬されました。35年後、ニュートン夫妻は日本での働きを終え、帰国します。1928年にレティが、31年にニュートンがアトランタで亡くなりました。ニュートンの愛児が日本に眠っていることを記憶する人もいなくなりました。
アニーの死から百年が経ちました。墓地を調べていた青山学院のジャン・クランメルが管理者不明の墓に気付き、関西学院に連絡してきました。関西学院は墓を修復しました。しかし、情報の確認が不十分だったようです。アニーの没年が1889年と墓石に刻まれてしまいました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 265, 2011. 8)
13. 父と娘
妻が病に倒れて以来、C. J. L. ベーツ第4代院長は、4人の子どもの中で唯一の娘であるルルを心の拠りどころとすることが多くなったようです。そんなベーツが、カナダで暮らす娘に好きな男性ができたのを知ったのは、1937年3月19日のことでした。恋の相手はエマニュエル・カレッジで学ぶ33歳のフランス系スイス人クロード・デメストラル。娘の気持ちを手紙で知ったベーツは、翌日の日記に複雑な胸中を記しています。「もし、クロード・デメストラルという吟遊詩人(きっとそんな格好をしているに違いない)のような名前の男がルルの愛を勝ち得たなら、彼はこの世で最高の宝を手に入れたことになる。彼はそれに値する立派な男でなければならない」。
その月の終わりには、娘の恋人から結婚の許しを求める手紙が届きました。それは大変立派な内容で、彼が申し分のない男性であることをベーツも認めざるを得ませんでした。
6月18日、トロントからの電報により、ベーツは2人が29日に挙式することを知りました。娘の花嫁姿を見ることも叶わず、父親としての感情を日記に吐露するしかありませんでした。「31年半前、赤ん坊だったルルを病院〔から〕抱いて帰って以来、こんなにも深く愛し、慈しんできた大切な娘が私たちのもとを去り、たった半年前に知り合ったばかりの男とともに行ってしまう。しかも、その男の姓を名乗り、その男の家を守り、その男の家庭を築き、その男の子どもを抱くのだ」。
4年後、ルルは男の子を出産しました。ベーツにとって3人目の孫でした。アルマンと名付けられたこの孫が2001年に関西学院大学から名誉博士号を授与された時、長身の孫には祖父愛用のガウンがよく似合いました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』No. 264, 2011. 6)
12. アイゼンブルグ少年のレプタ
ブランチ・メモリアル・チャペル(現・神戸文学館)は、原田の森時代の関西学院を象徴する建物として知られています。チャペルには、建築資金の大部分を提供したヴァージニア州リッチモンドの銀行家ジョン・ブランチの名が付けられました。関西学院創立に当たり、大きな助けとなったのは、同氏の父トーマスの遺産でした。独立したチャペルが必要になった時、普通学部長S. H. ウェンライトは、創立者W. R. ランバスと共に息子のジョンを訪ね、協力を求めたのです。
チャペルの献堂式は1904年10月24日に行われました。建築資金について、ウェンライトはこう述べました。「日本を訪れたこともない、またこれからも訪れることのないアメリカの友人が、チャペルの完成に手を差し伸べてくれました」。その陰にはある少年の話が伝えられています。
チャペル建築のための寄付をウェンライトがミズーリ州モンティセロの教会で求めた時のことでした。会衆から何の反応も得られない中、8~9歳の少年が立ち上がり、夕刊を売って得た小遣いから50セントを差し出しました。少年の名はヘンリー・アイゼンブルグ。ヘンリーにとって50セントは大金でした。この行動に感動した会衆から多額の献金が寄せられました。その後、ヘンリーは大学に進学し、銀行に就職しましたが、ミシシッピ川で汽船事故に遭い、命を落としました。他の乗客を助けた後、自らは老朽化した船と運命を共にしたと伝えられています。
1957年2月、ミズーリ州の大学に留学していた高等部教諭西尾康三がこの少年の父親を探しあてました。ニューロンドンに健在だった父親は、息子が関西学院のために小遣いを捧げた教会や通った小学校、そして、無残にも若い命を奪ったミシシッピ川を案内してくれたそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 262, 2011. 2)
11. 30年来の旧友-ベーツとマシュース-
1908年夏、軽井沢にいたカナダ・メソヂスト教会宣教師C. J. L. ベーツは、アメリカの南メソヂスト監督教会宣教師W. K. マシュースの訪問を受けました。マシュースが働く関西学院の経営にカナダのメソヂスト教会が加わる可能性についての話し合いに呼ばれたのです。ベーツが関西学院の話を聞いたのはその時が初めてでした。しかし、当時のカナダ側は中学校再興を考えており、青山学院神学部と協力体制にありました。
ベーツとほぼ同時期の1902年に来日した6歳年長のマシュースは、山口で2年働いた後、関西学院に赴任し、1908年春から図書館長を務めていました。関西学院にデューイ十進分類法を導入した図書館長として知られています。当時の日本でこの分類法を採用していたのは、山口市の公立図書館だけだったと、後年マシュースは書いています。
結局、カナダのメソヂスト教会は関西学院の経営に参加することになりました。今から百年前の1910年9月、ベーツ夫妻が2人の子どもを連れ、原田の森に赴任して来た時、休暇帰国中のマシュースに代わってT. H. ヘーデン夫妻が一家を温かく迎え入れました。
時は流れ、第4代院長を務めたベーツが関西学院を辞め、帰国する日がやって来ました。1940年12月のことです。前年3月に行われた卒業式でのスピーチに端を発した院長辞任にまつわる一連の騒動は、ベーツの心を深く傷つけました。神戸港出航を翌日に控えた最後の夜、妻との食事を終えたベーツをマシュース夫妻が訪ねました。ベーツにとってマシュースは「30年来の大切な旧友」でした。2人は、32年前の夏の日を想い、暖炉の前でしみじみ語り合ったことでしょう。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 261, 2010.12)
10. “Launch out into the deep.”(ルカ伝5章4節)
1932年、大学の設立認可を受けたC. J. L. ベーツ第4代院長(初代学長を兼任)は「関西学院大学のミッション」を発表しました。その要旨を紹介しましょう。
まず、関西学院は二つの意味でミッション・スクールであると指摘しました。一つは伝道局(ミッション)が創立した学校という意味、もう一つは使命(ミッション)を持った学校であるということです。ですから、関西学院大学は単なる学びの場ではなく、もっとも深い意味で“education”の源でならなければならないと考えました。
ここで、“education”を「教育」と訳さなかったのは、ベーツがこの言葉をラテン語の語源から説明しているからです。ラテン語の”e(x)”は「~から」、“duco”は「導く」という意味です。したがって、学生が生まれながらに持っている才能を引き出すことが”education”なのです。これは、日本語の「教育」とは語源上の意味が異なります。では、それは何のためでしょうか。単に効率を追い求めるのではなく、学生が自分の考えを持ち、自身の言葉で語ることができるようにするためです。学生の持つ素質の中から進取の精神と自信と自制心を育てるためです。
その上で、具体的にこう述べました。「我々のミッションは人間をつくることです。純粋な心の人間、芯の強い人間、鋭い洞察力を持つ人間、真理と義務に忠実な人間、嘘偽りのない誠意と揺るぎない信念を持った人間、寛大な人間です」。この中でベーツが最も強調したのは「寛大さ」(magnanimity)でした。これこそ、魂のもっとも崇高な姿だと考えたのです。
“Launch out into the deep.”(沖に漕ぎ出そう)。関西学院が発展に向け新たな一歩を踏み出した時、ミッションを示したベーツは全構成員に呼びかけました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 260, 2010.10)
9. 夏休み前の午餐会
関西学院が1912年に開設した高等学部(文科・商科)の船出は困難を極めました。両科併せて100名の新入生を募集したのに、集まった志願者はたったの50名。結局、口頭試問のみを実施し、39名(文科3名・商科36名)の入学を許可しました。専用の校舎もなく、教授陣も図書も不十分な中、初代高等学部長C. J. L. ベーツは”Be patient.”と学生に諭し、”Be ambitious.” ”You must have a vision.”と学生を励ましました。そして「私は天から示されたことに背かず」(使徒言行録26章19節)、「幻がなければ民は堕落する」(箴言29章18節)などの言葉を引用し、リーダーシップを発揮しました。
しかし、最初の夏休みを迎える頃には学生たちの不平不満は高まり、こんな状況ではとても勉強できないと、試験の延期を迫りました。進路変更を真剣に考える者も出てきました。そんな中、午餐会の招待状がベーツから全教職員、全学生に届けられたのです。
午餐会は7月6日正午に神学館の一室で行われました。それは、非常に打ち解けた和気藹々とした集まりであったと伝えられています。学院史編纂室には、当日の英文献立表(スープ、スズキのホワイトソース、仔牛のパイ、チキンのフリカッセ、カレーライス、アイスクリーム、果物、コーヒー)が残されています。
転校を考えていたある学生は、これを機に心を変え、ベーツに手紙を送りました。「この温かみこそ他の如何なる学校に於ても到底味ふ事の出来ぬものである事を感じ遂に学院に留まる事に決定致しました」。この一件は「グッドディナー物語」として、後世まで語り継がれました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 259, 2010. 8)
8. 関西学院とカナダ
アメリカの南メソヂスト監督教会が1889年に創立した関西学院の経営に、カナダのメソヂスト教会が加わったのは今からちょうど100年前の1910年でした。日本のオタワへの公使館設置が1928年、カナダの東京への設置が翌29年であることを考えると、関西学院とカナダの間には、国同士の外交関係以上に長い歴史があると言えるでしょう。
初代駐日公使ハーバート・マーラーは、9月の赴任後、早くも11月末には関西学院を訪れています。『関西学院新聞』によると、C. J. L. ベーツ院長の紹介により、中央講堂で「国際的大講演会」が行われました。実は、戦後の話になりますが、ベーツ自身もカナダ政府から駐日大使の打診を受けていたことを、教え子であり、初代高等部長を務めた河辺満甕が明かしています。河辺によれば、ベーツの態度の特徴は「寛大、人格尊重、調和、協力」だったそうです。
両国間には不幸な時代もありました。カナダのドイツへの宣戦布告は1939年9月10日でしたが、参戦を決めた下院議会において、唯一人立ち上がり、いかなる戦争も悪であるとの信念を感動的な言葉で訴えた議員がいました。関西学院文学部長を務めたH. F. ウッズウォースの兄です。
また、長らく関西学院の理事を務めたダニエル・ノルマンの長男ハワード、次男ハーバート兄弟の存在も忘れることはできません。兄は宣教師となって関西学院大学神学部で教えました。外交官になった弟は共産主義者との疑いをかけられ、1957年にエジプトのカイロで痛ましい最期を遂げました。その時、関西学院には新聞記者が詰めかけたと伝えられています。
1961年には、国賓として来日中のディーフェンベーカー首相が関西学院を訪問しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 258, 2010. 6)
7. 生みの親より育ての親
初代神学部長を務めたJ. C. C. ニュートンは、創立者W. R. ランバスが1890年末に関西学院を去った後も学校に残り、創立者の精神を伝え、学校の基礎を築き、第3代院長に就任しました。その教えを受けた学生は「生みの親より育ての親」という諺でニュートンを称えました。学生に「ジェントルマン」と声をかけたC. J. L. ベーツ第4代院長に対し、ニュートン院長は、温かく「ブラザー」と呼びかけていました。そんなニュートンにまつわるエピソードを紹介しましょう。
元町から関西学院のある上筒井に向かう市電の中でのことです。ある学生が高齢の女性に席を譲りました。すると、偶然同じ電車に乗り合わせていたニュートンが女性の前に進み出て、たどたどしい日本語で説明を始めたのです。「この学生は関西学院の学生です」。恥ずかしさのあまり、その場を立ち去ろうとする学生の手をニュートンはぎゅっと握り締めました。恩師の柔らかな手の温もりは学生の胸に深く刻まれました。
代返ばかりで実際の出席者が1/3しかいなくても、「オール・プレゼント」と言って喜んだニュートン。”God”と答案にたくさん書いたら点が高くなるという伝説を残したニュートン。どんなに悪戯しても、ますます親切にしてくれたニュートン。チャペルをサボっても叱ることのなかったニュートン。高齢の院長に対する不満を直訴に来た学生会の役員に対し、「適任者が確定するまで、どうか学生会が一致してこの私を助けてください」と言って共に祈ったニュートン。自分と他人の傘の区別がつかなかったニュートン。ニュートンの前では、悪戯盛りの普通学部生ですら、自らの行為を反省し、神妙にならざるを得ませんでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 257, 2010. 4)
6. 墓地で見つけた十字架
今から4年前のことです。修法ヶ原に眠るJ. W. ランバス(関西学院創立者の父、M. I. ランバスの夫)のお墓を訪れた時、墓石の上に小さな銀色の十字架が置かれていることに気付きました。それは、2004年夏、ランバス家の故郷ミシシッピー州を仕事で訪問した時、J. W. ランバスの弟(故郷で巡回牧師となって献金を集め、兄の中国伝道を支えました)の子孫ジョン・ルイスさんからいただいたのと同じものでした。十字架をくださった時、ジョンさんは私にこうおっしゃいました。「小さいからどこでも持ち歩けるし、誰にも気付かれないよ」。腹が立った時、悲しい時、ジョンさんはポケットにそっと手を入れ、十字架を触るのだそうです。
その十字架が何故ここに? 来日されたジョンさんは、お墓参りの時、いつも持ち歩いている十字架を埋めてきたと言っておられました。それが、1年以上経った今、目の前にあるのです。まるで、私が来るのを待っていたかのように。 墓地をご案内くださった谷口良平さんに驚きを告げると、「十字架を置いたのは私です」とおっしゃいました。墓碑銘調査のため毎週末墓地に通っておられた谷口さんは、ある日、ランバスの墓石のそばに小さな十字架が落ちていることに気付かれたそうです。以来、十字架を見つけては墓石の上に置き直すことを続けて来られたのです。
この話を知った神戸市立外国人墓地事務所の方は、十字架を埋め戻してくださいました。そして、「相当深く掘ったから、雨が降っても風が吹いても、もう大丈夫ですよ」と私にお電話くださいました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 256, 2010. 2)
5. クリスマスツリーの飾りつけ
クリスマスが近づくと、関西学院西宮上ケ原キャンパスでは時計台前のヒマラヤ杉がイリュミネーションで飾られ、時計台自体もライトアップされます。この習慣は学内だけでなく市民にもすっかり浸透し、関西学院の冬の風物詩として親しまれています。
クリスマスツリー点火にあわせて礼拝が行われるようになったのは、震災直前のことでした。1994年11月28日、日が落ちてすっかり暗くなった午後6時、ハンドベルの演奏と聖歌隊による讃美歌が流れ、学生や市民約700人がキャンドルを手に中央芝生に集まりました。
では、この電飾はいつから始まったのでしょうか? 神学部教授を務めたアメリカ人宣教師W. D. ブレイが1980年10月27日の最終講義でこう語っています。「紛争の時に図書館(時計台)前の大木が学生によって切り倒されましたね。その6年前から、クリスマスの時にその大木に赤や黄色の電球でデコレーションしていました。あれは私のアイデアです。ちょうど2万円かかったはず」。
さらに、世界に目を向けた時、ツリーへの飾りつけが最初に施されたのはいつ、どこの街だったでしょうか? これには諸説あるようですが、私はラトビア共和国の首都リーガ説に肩入れしたいと思います(リーガ市対外交渉局発行の冊子によると、キリスト生誕を記念して、1510年にリーガの商人らが初めてもみの木を花で飾ったそうです)。と言うのは、今から90年前の関西学院にはラトビア人教師イアン・オゾリンがいて、建国間もないラトビア領事の役割をも果たしていたからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 255, 2009.12)
4. ロシア人捕虜の子セネカ
この秋から放映されるNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)の舞台松山は、関西学院を創立したアメリカ南メソヂスト監督教会の伝道地です。そこに捕虜(俘虜)収容所が開設されたのは、日露開戦からわずか一月後のことでした。捕虜への対応が行き届いていたため、「マツヤマ」と叫びながら日本軍に降伏してくるロシア兵が後を絶たなかったと言われています。人口3万の街に延べ6千人以上のロシア兵が送られました。捕虜の中には子ども連れもいたようで、「浜寺に3人、静岡、姫路、松山に1人の小児あり」との記録が残されています。
当時松山にいた宣教師は、数年前まで関西学院で教えていたT. W. B. デマリーでした。デマリー家は、捕虜の子セネカ・ロモフ(8歳)を預かることになりました。セネカの父は、旅順で捕らえられた陸軍大尉でした。母親は既に亡くなっていたと思われます。言葉は通じなくても、子ども同士の遊びには何の支障もありませんでした。デマリー家の子どもたちは「戦争ごっこ」で撃たれた時のセネカの姿から、彼が実戦の場にいたことを知りました。
別れは突然やってきました。父親が迎えに来た時、セネカはパントリーに隠れました。デマリー家の子どもたちが見つけ出し、連れて来ました。父親が何か命ずると、セネカはデマリー夫人に駆け寄り抱きつきました。デマリー家の人々は涙を抑えることができませんでした。ところが、父の口から次の命が発せられるやいなや、幼いセネカはその後に従い、堂々と行進して行ったのです。その後の父子の消息は、まだわかっていません。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 254, 2009.10)
3. 120年前のランバス一家
関西学院がウォルター・ランバスにより創立されたのは、今から120年前の1889年のことでした。その頃、神戸には、ウォルターとその妻デイジーに子ども2人、妹ノラ、弟ロバートとその妻アリス、さらに両親ウィリアムとメアリーの総勢9人の家族が揃っていました。
兄の親友である医師と結婚し、中国で伝道活動に従事していたノラ・パークは、妊娠中、両親のもとに帰っていました。ロバートは、新妻アリスを伴って来日し、徳島や神戸で英語を教えていました。1889年、この3組の夫婦に赤ん坊が誕生したのです。ノラとロバートは女の子、ウォルターは男の子を授かりました。山2番館はどんなに賑やかだったことでしょう。さらに、ロバートも学校(Kobe Institute)を創立しました。
翌年、幸せな家族に黒い影が忍び寄ります(1890年は神戸でコレラが大流行した年でした)。妻の体調悪化のため、まずロバート一家が、次にウォルター一家が離日しました。アトランタに落ち着いたロバートは家を用意し、両親の帰国を待ちます。ところが、父ウィリアムが病に倒れ、神戸で天に召されてしまうのです。さらに、妻アリスも死の床につきます。アリスは、幼いネティの養育を姑メアリーに託しました。早くに両親を亡くしたアリスにとって、神戸で夫の家族に囲まれて過ごした多忙な日々は、人生で最も幸せなひと時だったのかも知れません。
このような事情から、120年前に神戸で生を受けたランバス家の3人の子どもの内、ただ1人が神戸で育てられることになりました。メアリーは、アリスの遺児ネティを連れて神戸に戻り、末っ子ロバートが創立した学校を支えたのでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 253, 2009.08)
2. ベーツ先生の原点
関西学院は、1889年にアメリカの南メソヂスト監督教会によって創立された小さな学校でした。発展のきっかけは、1910年のカナダ・メソヂスト教会の経営参加です。しかし、これは同時に、南メソヂスト派、カナダ・メソヂスト派という対立関係を常に抱え込むことでもありました。この勢力争いや確執をバランスよく治めることに能力を発揮したのが、第4代院長を務めたカナダ人宣教師C. J. L. ベーツです。ベーツの見事な調整能力は、少年時代を過ごした故郷ロリニャルで培われたようです。
ロリニャルは、カナダの首都オタワとモントリオールのちょうど真ん中に位置する人口千人程の小さな村で、住民の3/4はフランス語を話しました。当時、この地域はフランス語人口が増加しつつあったのです。村には、大きなカトリック教会と3つの小さなプロテスタント教会がありました。少年時代のベーツは、日曜の朝は長老派、午後は英国国教会、夕方はメソヂスト教会に通っていました。この3つの異なる教会での祈り、礼拝、賛美の経験が、自分のライフワークの原点だったと晩年のベーツは振り返っています。
村人たちは、自分の文化と言葉と教会こそが一番だと信じていました。と同時に、寛容な精神と善意と互いを敬う気持ちにより、様々な問題を友好的に解決する術を身につけていました。ですから、ベーツたちが小さなメソヂスト教会を建てた時、カトリックの神父からさえも援助を受けることができたのです。教会の女性が献金を求めに行くと、ベルベ神父は優しく笑いながらこう言って4ドルを差し出しました。「プロテスタントの教会を建てるのに差し上げられるものは何もないけれど、敷地内の古い建物を取り壊せば何かお渡しできるでしょう」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 252, 2009.06)
1. アメリカ合衆国大統領と関西学院
アメリカ合衆国第44代大統領にバラク・オバマ氏が就任しました。この機会に、アメリカの南メソヂスト監督教会により創立された関西学院と縁のあった歴代大統領を思いつくまま挙げてみましょう。
最初に思い出されるのは、第16代エイブラハム・リンカーン(1861-65)です。南軍兵士として南北戦争で戦ったJ. C. C. ニュートン第3代院長は、リンカーンの肖像画の付いた新聞を部屋に飾っていました。また、ニュートンがジョンズ・ホプキンス大学大学院でH. B. アダムズ教授の指導を受けていた時、後に第28代大統領となったウッドロウ・ウィルソン(1913-21)が同教授のもとで博士号を取得しました。学院史編纂室には、同大統領の小さな胸像が残されています。なお、ニュートンの名ジョン・コールドウェル・カルフーン(J. C. C.)は、第6代ジョン・クィンシー・アダムズ(1825-29)、第7代アンドリュー・ジャクソン(1829-37)両大統領時代の副大統領の名に因んで付けられたものです。
それから、第22代、24代大統領を務めたグロバー・クリーブランド(1885-89, 93-97)は、創立者W. R. ランバスの母方の親戚に当たると言われています。第26代セオドア・ルーズベルト(1901-09)時代の副大統領チャールズ・フェアバンクスが1909年に来神した際、吉岡美国第2代院長の話す洗練された英語に驚嘆したという逸話が残っています。
近いところでは、第39代大統領ジミー・カーター氏(1977-81)を千刈セミナーハウス(2005年10月より休館中)にお迎えし、聖日礼拝を守ったことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。それは、大統領辞任直後の1981年9月のことでした。カーター氏には名誉博士号が授与されました。 (学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 251, 2009.04)